7

 ――師匠、師匠! しっかりして下さい、師匠!


 叫ぶ声は若い女性のものだった。


 その記憶の視界の中に、美しい赤銅色の髪の青年がいる。下半身を石畳の上に投げ出し、上半身は自身の腕の中で、固く閉じられた瞼が震えている……漏れる呻き声、腹からは、おびただしい量の出血。


 ――無事か、クライア?


 掠れた低い声が震えている。視界が滲んで、生ぬるい涙の雫が頬から顎へと伝っていくのがわかった。ぽたり、と落ちる先は青年の土気色の頬。


 ――何で私なんかを庇ったんですか……


 青年の瞼が開かれ、蒼く優しい色が瞳を彩るのが見えた。大きな手が頬に触れる、まだ温かい。まだ間に合う。瞳孔も正常だ。死んではいない。


 ――何でも糞も、お前を守るって思ったからに決まっているだろう。


 クライアという名の女性の目から見ている記憶なのだ。それだけは漠然とわかっていた。彼女は〈光精霊王の思し召しの下にこの者に癒しを与えたまえ〉と唱え、どくどくと鮮血が溢れ出る青年の腹部へ右手を翳す。左腕で彼を抱えるのは至難の業だったが、何とか膝の上に固定することが出来た。


 ――それで師匠が死んじゃったら意味ないじゃないですか……師匠。


 肉が再生し傷が塞がるみちみちという音が響く、その中で師匠と呼んだ人は笑った。


 ――俺は、戦争で消えた村の生き残りで、プラティウスのおっさんに引き取られて鍛冶師になって、だけど何ともなしに今まで生きていた。


 突然の、彼の過去。話してくれるのは初めてだ、ということを、記憶は教えてくれていた。頬に触れたままの大きな手がそうっと目尻を撫でていく。痛みに震える声に籠っているのは間違いなく、他の何ものでもない、愛おしさ。


 ――それが、お前と出会って変わった、お前といるのが楽しくてさ、だから、死んでもお前を守りたいと思ったんだよ、クライア。


 その言葉が心臓をぐさりと貫き、喉の奥が震えて、気が付けばラナは叫んでいた。


 ――そんなの違う、師匠、私と一緒に貴方も生きないと意味がない!





 視界が弾けた光で満ちた。彼女の心は沢山の哀しみで満ちた、私と一緒に師匠も生きないと意味がない、その次に師匠はどうなったのだろう、あの人は死んでしまったのか、アーフェルズは生きていたけれど?


「生きるぞ、ラナ、戻ったか!」


 叫び声が聞こえて、ラナは我に返った。ティルクだ。


 風は依然として強く吹き続けている、そして彼女の腕はしっかりとおじの腰に回されたままだった。竜皮の手袋の感触が手を撫でて、顔を上げれば尖塔が見当たらない。思わず後ろを振り向けば、シルディアナは背後、霞の向こうに去っていた。


「俺も知っている、お前が見たものについては後で話そう!」


 彼の大声が風精霊達の笑い声と共に荒々しく髪を撫でていく。無線機が何かを楽しそうに喚いている。シルディアナは遠く彼方に去った。たまに出かける商人居住区、歌うような声のサイア、ナグラスの美味しい賄い、ちょっと口煩いフローリシェ、いつも気遣ってくれた従業員達。目蓋の裏に蘇る美しい笑顔は、イーク、今度こそ手放さないようにしようと決めていた。


 ラナは、今までのラナを、全てを置いてきた。いっそのこと、精霊と共に笑いたいぐらいに、何も残っていなかった。


 ただ、左腕の腕輪だけが、彼女が何者だったのか、何者なのかを知っている。




 ことり、とフェークライト鉱で鋳造された枠の窓を開いて見上げる、大都市の真夜中の空。その紺碧の西にはパンのような形をした月がぼんやりとした光を放ちながら浮いている。


 満月は数日前に過ぎていた。塔の間の風力軽減を担うレファンティアング搭載の動力環がゆったりと回転するのがよく見える。高い塔の天辺近くは強い風が吹いており、グランス鋼の窓からその冷たい風が吹き込んできて、彼は思わず身を震わせた。厚手の羽織を持ってくるべきだったかもしれない、ここは暑い地方ではあるが。


 眼下には、灯りが大通りを照らす眠らない帝都、シルディアナ。


 イークは満ち満ちた月よりも欠けた月の方を好んだ。何故かはよく分からない。反皇帝家勢力が勢力を強め跋扈するこの時代と、自身の辿るであろう運命を何とはなしに重ねているのかもしれない。自分でその考えに思い至り、誰も知らぬ、見えぬ場所で彼は苦笑した。


 と、そんなことを考えている時に聞こえるのは、魔石動力の回る微かな機械音。それは徐々に此方へ近付き、何かが来ると思った瞬間、魔力の奔流が砂漠燕の翼を描いてイークの視界を光で焼いた。


 サヴォラだ。だがしかし、シルディアナ帝国軍の所有物であることを示すロウゼルと竜の紋が、金の輝きを放っていない。機体は黒く塗り潰され、精霊のみが光と戯れている。


 砂漠燕の翼が一瞬で変化した。レファントの森に生息する蜜鳥の翼だ、しかし、動力音の軽減と空中停止の為に開発されたは良いものの、帝国軍では動力喰らいとして殆ど使わない類の形態である。何故、とイークが思った瞬間、声。


「月が綺麗ですね」


「――誰だ?」


 彼は身構えた。こんな時間に、こんな所まで登ってくる酔狂な者はいない……自分は置いておいて。声は窓の外、視界の端に映るのは小型飛行機サヴォラ、蜜鳥の翼を以てして空中停止させている操縦者は優雅な笑みを口元に浮かべ、目を保護するグランス鋼の覆いを額にぐい、と上げた。


「私ですよ、イーク様」


「……アーフェルズ! 生きていたのか!」


 イークは思わず大声を上げていた。柔らかな笑みに掠る、結ばれた長い髪の色は、自分と同じ美しい金。幼い時に迷い込んだ宮殿の離れ、その隅っこで初めて出会った瞬間から、彼は、その色にずっと親近感を覚えていた。


「おっと、しいっ」


「……どうして、ここに?」


「月下、眠らない街との間にサヴォラで、空中散歩ですよ」


 アーフェルズは、イークが幼い頃に出会った小間使いだった。


 顔を合わせたその日に仲良くなり、それから暫くの数カ月という短い間、事あるごとに遊び相手となってくれた者だ。一角に住んでいた女主人が死んでしまったとある日を境に、どういう訳か姿を消してしまったが、イークはこの物腰の柔らかい男のことをはっきりと覚えていた。死んでしまったと思っていた。


 だが、目の前にいるのは、過ぎし日と殆ど変わらぬ同じ顔だ。肌が幾分か日に焼け、少し頬の肉が削げ落ちたか。


「よかった……今までどうしていたのだ、何処にいたのだ? また帰って来てくれたのか? この宮殿で働かないか、アーフェルズ?」


「……いいえ陛下、お伝えしたいことが一つあるのです」


 イークが矢継ぎ早に質問を浴びせかけるも、相手は口元に優雅な笑みを浮かべたまま首を振った。月光に照らされる翠の目はしかし笑っておらず、その口から発せられるのはとんでもない台詞だった。


「私はここに帰ってきたのではありません、寧ろ宣戦布告をする為に馳せ参じました」


「……どういうことだ、アーフェルズ」


「私がこの帝国を覆してみせましょう、イーク様」


 彼は驚きに双眸を瞠った。何故その道を歩むのだろう、己自身が、と、何故宣言しに来たのだろう? 


 イークは無理矢理声を絞り出した。


「……何故、私に言いに来た」


 問えば、アーフェルズは人を食ったような笑みを口の端に浮かべてああ、と呟く。次いで懐から取り出すのは小さな黒の印、逆さ竜の紋章が彫り込まれている指輪。ロウゼルはない。


「アルジョスタ・プレナ、反皇帝家を謳う者の紋章です……反乱軍に属する者は第一にこの国の民の将来を憂いており、支配者などはどうでも良いのです、貴方様が頂点に立つことをやめてしまえば……宰相が、事実上の支配をやめてしまえば……降伏の為の印です、これを持ってスピトレミアまでいらして頂ければ、私達は貴方様を歓迎致しますよ、陛下……イークライト・シルダ、シルディアナ帝国皇帝」


 イークは差し出されたそれを反射的に受け取ってしまった。小さいくせにずしりと重たい鋼だった。シヴォライト鋼に塗装を施したのだろうか。魔力の奔流は感じられない。


「……アーフェルズ」


「何でしょう」


「やはり、そなたもそう思うか」


 相次ぐ植民地戦争と征服活動は先々代において終了したが、国境に隣接する他国との関係は悪化し、輸入物の値は跳ね上がったまま。経済活動が行き詰るが故に行われる小型飛行機の為のフェークライト塔建設、低賃金に喘ぐ民、下層市民の多い住宅街や商業地区における治安悪化。父であるファールハイトが帝位についた際に覇王の剣を動力とする新たなる機関を開発したこともあって技術は著しく発展し、機械化は進んだが、雇い入れる人員の削減により、職にあぶれ、その日暮らしをする者が更に増した。制定する保障制度も追い付かず。


 それに、動力機関の技術開発は、何も帝都だけで行われたわけではない。封土貴族達が自身の領地へ持ち帰って研究を続けたりもした。その結果が、領地貴族及びシルディアナに与する旧小国家領主、帝国から保障制度の恩恵にまだ与ることが出来ていないその土地の民の反乱である。スピトレミアが良い例だ。その上、周辺地域が技術を他国に売れば、どうなるか。併合地の離反は必至、仮想敵国からの攻撃も想定可能。そうなれば、民の飢えは必至である。


 シルディアナ帝国は疲弊していた。


 こうやって宮殿の高い塔の上から見下ろすだけでは決して分からない人々の表情を、イークは幾度も独りで、時には、近衛騎士の中で一番若く自身と年の近いサフィルスと共に街へ忍び、幾度も見てきた。北商人居住区、南商人居住区、南街区、精霊殿区、北街区、中央行政区、西街区、貴族街区、第二城壁内全て。


 脳裏をよぎったのは一月前に出会ったばかりの少女、ラナの顔だった。年は十七、自身と同じ。いるかわからない父の話、死んだ母のこと、いるかもしれない兄、平民にしてはやけに華美な腕輪は母の形見だという。イオクス木に近い色の髪は彼より短かった、太古の森のような深緑の双眸、存外細い肩。彼女は平民だ、深入りするつもりはなかったが、いつの間にか……近いうちに必ず会いたい、会う、と思っている自分がいることに気が付いた。


 イークは明日、また「竜の角」を訪れるつもりでいる。あの酒場には日雇い労働者が多く来店する、シルディアナの実情を垣間見るのには丁度良い場所でもあった。頼るものは酒、路地裏の華折横丁、行けば今日稼いだ金が全て飛ぶ、何度も聞いたそのような話。


 もう、限界だろう、と。


 統一を保つのは。


「……どのように、ですか?」


「私はまず、キウィリウスをどうにかするつもりだ、それからなら、やっていける」


 アーフェルズがほう、と唸った。きらり、と翠の目は月光に煌く。


「どのような計画を?」


「あの宰相には離れて暮らす娘がいる、その娘と私との縁談が打診されているということを、宰相と懇意にしている者から聞かされた」


「その娘とお会いになったことが?」


「ない……故に、居所を突き止め、それを使う、宰相が娘のことに気を取られている隙に、私が全てを握れば良い」


 キウィリウスに娘がいるという話を持ってきたのは、親宰相派である近衛騎士団長のアダマンティウスだ。娘を皇帝の配偶者とすることによってシルダの名による伝統と権威を纏い、宰相派の立場を盤石なものにしようと考えているのだろう、とイークは睨んでいる。それを利用しない手はない、とも考えていた。婚姻せずとも良い、寧ろ婚姻よりも――


「どのようにして?」


「……スピトレミアはよく反乱が起こる、最初に独立させれば、他の領地も次は我と言い出すだろう」


「シルダの威光を失う覚悟がおありで?」


「……やってみせる、皇帝は、私だ」


「凛鳴放送や映像放送に顔も出さぬ、十七歳にも満たぬ若造が?」


「……全ての法や条約の文書は、全て私の直筆だ、宰相の采配ではあるが、全て目を通している……もう、顔を出すつもりだ、印には頼らない」


 びゅう、と風が吹き込んできて二人の髪を弄び、攫おうとする。発動機の小さな機械音がやけに煩わしく感じたその時、相手がにっこりした。口だけで笑う貴族は掃いて捨てる程存在しているが、アーフェルズは目も笑っている、意図はわからなかった。まるで見透かされているようで、彼は内心気味の悪さを覚え、思わず顔をしかめる。


「それは是非とも、シルディアナ放送を楽しみにしておかねばなりますまい、陛下……しかし、私達の時間も同じだけ過ぎて行くということを、どうぞ……お忘れなく」


 ふと、イークは思う。このアーフェルズ、一体何を、一体何処まで知っているのだろう、小間使いであったこの男が?


「アーフェルズ」


 呼ばれたその男は目を見開くのみ、それをただ一つの返事としてみせた。


「そなたは一体、何者だ?」


 二人の、同じ色をした金の髪は風を受けて頬を掠め、叩いた。帝都の明るい月夜に輝く若葉の瞳を互いに見つめ合って暫く、揺れることのない表情で、アーフェルズが何かを訴えようとするかのように薄く唇を開く。が、その者の真に望んだ言葉が、歯の門を通り抜けることは叶わなかったようだ。


 代わりに、彼はイークに向かって微笑んだ。幾つもの途方もない哀しみをたった今隠したような、何処までも優しい表情だった。


「アルジョスタ・プレナの指導者、アーフェルズ……十分でしょう」


 そう言って、アーフェルズは僅かに目蓋を伏せる。交差が途切れた。


 それで終わりだった。


 ごきげんよう、という言葉と共に、サヴォラの翼は蜜鳥から砂漠燕へと変化し、風精霊を纏う魔石の翠光はイークの目を少しばかり焼き、あっという間に東の方へと飛んでいった。


 歪な円を描く月は全ての真実をあまねく照らすが、それは大精霊すらも遠く及ばぬ大地を超えた光、何も語り掛けてはこない。誰の想像も及ばぬ事柄は、いつも、いつでも、何処にでも存在する。欠ける時も満ちる時も変わらぬその美しい光は、ただ、あるがままに塔を照らしていた。


だが、月も陽も不可能である、これから進む未来を照らすなど。

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