陸軍少尉ミハエル・ジークムントの生涯 その2

 ある朝ミハエル・ジークムントが不安な夢から目をさますと、視界に入ったのは白い壁と天井だった。金属製の白いベッドに寝かせられ右腕にはチューブがつながれている。どうやら病院のようだった。どこか遠くからブウウーンウウーンという音がする。虫の羽音のようにも、換気扇の音のようにも聞こえる。

 上半身だけ起きあがる。目眩とわずかな頭痛がある以外、全身に不調は無い。病室は四床のベッドが並び、隣のベッドにはひとりの老人が眠っているのが見える。老人の頭に髪はなく、皺だらけの顔には老人斑が浮かび、どういうわけか妙に汚らしい印象を受ける。その向こうの二つのベッドにも誰かが眠っているようだが、顔はよく見えない。

 状況を確認したいがチューブのせいで動き回れない。どこかに人を呼ぶボタンが無いかとベッドの周りを漁っていると、病室のドアが開いて看護師の女が現れた。

「あら、おはようございます。お目覚めですか」

 と看護師がいうのでミハエルは

「おはようございます。ここはどこですか」

 と聞いた。看護師はミハエルに、あなたは前線で頭部に強い衝撃を受け、そのままこの病院に運ばれ、二週間ほど意識不明だったのですよ、ということを説明した。言われてみると東部の前線で塹壕にこもっていた記憶があるが、どうもイメージが曖昧で、それが実際の体験なのか本で読んだ内容なのかがいまひとつ判然としない。

「おそらく衝撃による記憶の混乱でしょう。すぐに戻りますよ。ご自分のお名前はわかりますか?」

「ミハエル・ジークムントです」

「あら」

 看護師は怪訝そうな顔をした。

「…違いますか?」

「いえ。あなたはミハエル・ジークムントさんですね。陸軍少尉の」

 と看護師は手元のバインダーをみながら言った。

「はい。間違いありません」

「少々お待ち下さい。先生を呼んでまいります」

 といって看護師は部屋から出て行った。

 ひとまず記憶をたどってみた。自分はミハエル・ジークムント。X州の州都Y市生まれ。両親と姉と弟の名前、すべて覚えている。兵学校を卒業し士官候補生となり、その後東部戦線に派遣。クリスマスまでには終わると言われていた戦争は長期化の一途をたどる。多くの戦友が突撃命令をうけて塹壕から飛び出し、敵兵の銃撃に倒れたのを生々しく思い出せる。

 そうなると、負傷で前線から退場できた自分は幸運と言っていいだろう。しかし全身を見回しても、どこにも異常があるようには見えなかった。そもそもどのような状況で負傷したのかが全く記憶にない。

 病室内を歩きまわってみると、他のベッドにいる三人は滾々と眠っていた。シーツが全く皺になっていないことから、先ほどまでの自分のように前線で倒れたまま意識が戻っていないのかもしれない。ふと彼らがみな頭髪がまったく無いことに気づいた。思わず自分の頭に手をやってみると、そこにあるのは皮膚だけだった。病室の隅にある洗面台に目をやると、そこには頭髪のない見慣れぬ男の顔があった。

「うーむ」

 と少し唸った。洗面台のそばにある窓から外の景色に目をやると、この病院は大通りに面しているようだった。木枯らしのふく寒そうな道を、大勢の人間たちが何やら看板や横断幕を持って練り歩いている。

「戦争反対」

「講和締結」

「食料配給増量求」

 といったことが大文字で書かれている。その姿を見ていると頭が痛くなってきて、彼はまた頭髪のない頭部に手をやった。そのときドアがずいと開いて、白衣の眼鏡男が現れた。背が低く、東洋系の血が何割か混じっている風貌だ。

「やあ、お目覚めのようだね。担当医のマサキだ」

 と男は言って握手の手を出した。

「まず確認しておくが、君は自分の名前を覚えているね?」

「はい。ミハエル・ジークムントです」

 マサキ医師は興味深そうにこちらを見上げてアゴをかいた。なぜそんなに名前にこだわるのだろう、とミハエルは思った。

「うーむ。まあいい。彼女から聞いたと思うが、君は頭部の負傷がもとで前線から搬送されてきた。ここはZという都市だよ。まともな医療施設がある都市としては東部戦線から最も近い。おかげで見ての通り、毎日反戦デモが盛んだ」

 と彼は窓の外を見た。彼の喋り方は、ミハエルの知るこの地域の方言ではない。おそらく帝都周辺の育ちで、前線近くで医師が不足しているから派遣されてきたのだろう。

「彼らを率いている団体を知ってるかね?」

「いいえ」

「共有主義者どもだよ。財産の私有をやめて皆で分け合うことで平和な世界が訪れると信じてるやつらだ。開戦前はほぼ誰も相手にしなかったんだが、こう戦争が長引くと『反戦』を堂々掲げるだけでついていく民衆がわらわら出てくる。まあ仕方ないがね。警察もそうそう手出しはできん。我々の憲法は言論の自由を保障しているからね」

 ミハエルがとくに感慨もなさそうにそのデモを眺めているのを見て、マサキ医師は満足そうな顔をして

「おっと、余計なおしゃべりをしてる場合じゃないな。ひとまず体のほうに異常がないかを確認しよう」

 とミハエルを精密検査室に連れて行った。

 一通りの検査を受け、ほぼ体に異常がない、ということが分かった。病室に戻るとしばらくベッドでぼんやりとして、夕飯の時間がはじまると同時に食堂に向かった。二週間ほとんど点滴だけで生きていたせいか、全身が猛烈に食べ物を求めていた。

 食堂にはテレビが設置されて、ニュースをやっている。わが軍が東部戦線のどこで勝利、西部戦線のどの都市を制圧、といったことを、男性アナウンサーが勇ましい声で読み上げる。

「続いてのニュースです。この夏に東部戦線で起きた大規模な兵の反乱ですが、鎮圧後に軍事法廷にもとづいて首謀者のグレゴール・フリードマン大佐以下56名を処刑したことを、さきほど軍が発表しました」

 テレビの画面には、前線の航空写真と、従軍拒否を主張する兵士たちのVTRが流れた。ミハエルはそれを横目で見ながら、カウンターに並んで飯を受け取り、スプーンとナイフをとって適当な席に座る。ソーセージをナイフでちぎってスプーンに乗せて食べていると、隣に座っていた脚を怪我した中年男が

「フォークならそこにあるぞ」

 といってテーブルの隅を指差す。筒の中に何本かの金属製の棒が入っていて、一本を手にとってみると、先端が4つに分かれて尖っている。試しにそれでソーセージを突き刺してみると、なるほど食べやすい。

「へえ、こんな便利なものができたんですね。見た目が怖いですが」

 とミハエルが言うと、中年男は不思議そうな顔をした。その後病院の浴室でシャワーを浴びた。髪がないので石鹸だけで頭部まで洗うと、後頭部にごく小さな凹凸があることに気づいた。頭部の負傷の傷跡だろうかと思ったが、鏡が1枚しかないのでどういう形状かもよくわからない。下手に触らないほうがいいのだろう。

 病室のベッドに戻ると他の三人は相変わらず眠り続けていた。病室の隅の本棚には小説本が何冊か置かれていたのでそれをぱらぱらと読んだが、専門用語か造語と思しき言葉がやたらと出てきて頭に入らない。本棚に戻して、消灯時間が来たので眠った。

 翌日、ふたたびマサキ医師が来て、検査の残りを行うと言ってさまざまな運動能力のテストをした。どれも問題なかった。

「まあ、理論的には体に支障がでるような措置をしたわけではないからね。かゆいところは無いかね?」

「カユイとはどういう意味ですか?」

「ふむ」

 マサキ医師はまた興味深そうにアゴをかいた。

「まあ、56人が目が覚めるまでの時間には個人差があるから、ひとまず君だけにでも説明しておくかな。簡潔に言うとだね、ミハエル・ジークムント君、きみは二週間前に、軍事法廷にもとづいて処刑された。東部戦線の反乱の首謀者のひとりだったからね」

 ミハエルはきょとんとした顔をした。

「きみは共有主義者の思想に傾倒していた。そういう連中が軍にも多くいることは分かっていたが、あれほどの規模の反乱を起こすとはねえ。まったく、軍としても青天の霹靂だったみたいだよ」

 黙っている彼を眺めながらマサキ医師はしゃべり続けた。

「だがまあ、戦争はずっと続いているからね。せっかく訓練した兵士や優秀な将校を、いちいち反乱程度のことで潰してしまっては勿体無い。だから君の記憶のうち、政治思想に関する部分を消させてもらった。たとえ精神が共有主義者の病魔に蝕まれようとも、肉体は陛下の貴重な財産だ。無駄にするわけにはいかん。危険思想に基づく反乱が罪なわけだから、その部分さえ取り除いてしまえば処刑は完了。罪を憎んで人を憎まず、というわけさ」

 ミハエルは言われたことの意味をしばらく考えて、それから言った。

「非人道的という批判があるのではないですか」

「ずいぶん他人事のようにいうね」

 自分自身それを不思議に思った。どうもこのマサキという医師の話に当事者意識が持てないのだった。

「冷静に考えてみたまえ。ジークムント少尉。君の人道がどうなってるかは知らんが、肉体ごと処刑するのと、記憶の一部だけで済ますのだったら、どう考えても後者のほうが人道的だろう。人間に過ちはつきものだ。再チャンスを与えるのが健全な社会というものだ」

「なぜわざわざ説明するのですか」

 ミハエルが聞くと、マサキ医師は眼鏡を直しながら言った。

「説明しても問題ないからさ。可能なかぎり情報を国民に公開するのが我が国のあり方だからね。技術的詳細は軍事機密だが、我々の機関はすでに人間の記憶の仕組みをほぼ解明している。ショックによる一時的な記憶喪失ではなく、記憶を本当に消滅させるのさ。きみがこの事実を知って、ふたたび共有主義者に戻る心配というのは基本的にない。ただ兵役や日常生活に必要な部分もいくつか消えてしまうので、それは今から覚えて、戦線に復帰してもらう。ちなみにミハエル・ジークムントとは処刑される前の君の名前だ。覚えてるんだってね?」

「覚えています」

「うむ。それがちょっと予定外だったんだんだよ。処刑のあとはいわば第二の人生を歩んでもらうわけだから、名前も別途用意するべきだと上は考えてたんだけどね。ちょっと措置が上手くいかなかったようだね。まあ、無理に消そうとすると他の必要なところまで消えてしまうし、君くらいの地位なら名前も報道されていないだろう。いいだろう、君は引き続きミハエル・ジークムントとして、生まれ変わった人生を送ってくれたまえ」

 とマサキ医師はミハエルの肩を叩いた。身長差のためだいぶ不自然な格好となった。

「ちなみに、君のベッドの隣にいた老人の顔は見たかい?」

「はい」

「彼のことは」

「知りません」

「そうか。彼が今回の反乱の指揮者であるフリードマン大佐なんだがね。彼も処刑された。資料によると、処刑前のジークムント君は大佐の熱心な信奉者だったとある」

「そうですか」

「まあ、今の君には関係ないことだ。君は前線復帰のために頑張ってくれたまえ。なにしろ戦争はまだまだ続きそうだからね」

 そう言ってマサキ医師は病室を出て行った。

 ひとまず自分の身に起きたことは理解した。あのマサキという人を喰ったような医師がどこまで信頼できるのか分からないが、今はとにかく前線に戻って戦友を殺した敵兵を打ち破らねばならないと思った。病室のどこか遠くからはまだブウウーンウウーンという音がする。それは虫の羽音のようにも、換気扇の音のようにも聞こえた。


(おわり)

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