1章(現在編) 2015年11月10日 京都
第1話 黒崎雅也は小さな罪にとらわれる
2015年11月10日(1日目)京都/左京区の分譲マンション
「あ、日名子姉さん、スマホ忘れてますよ」
充電器からスマートフォンを引き抜きながら、樹里が言った。
彼女は椅子の上に足を乗せ、猫のように身を丸くする。大きな目でじっと画面を覗きながら、ふわふわと柔らかそうな髪を所在なさげに弄っていた。
「あららー、充電器さしたまま家出ちゃったんですねー。どうします? 届けに行きます?」
アーミーナイフのドライバーで鳩時計を分解していた雅也が、作業の手を止める。黒いスラックスに巻いたシザーバッグにナイフをしまい、折返して捲ったシャツの袖を軽く整えた。
「……届けに行く義理があるか?」
「そりゃもちろん、この部屋に厄介になってる身ですから!」
「……まあ、それはそうだけど。でも別に、頼まれたわけじゃないし」
「雅也の
雅也は首筋を軽く
数分前、樹里が冷蔵庫からアイスクリームを勝手に取り出して食べていたのを見た。ついうらやましくなり、1番安っぽいアイスバーを自分も1つ口にすると、樹里が「あ、
「届けてあげれば、日名子姉さんも兄さんを見直しますよ。『このアイス泥棒がぁ!』なんて言いませんから!」
「……多分、その辺の事情は言うほど変わんないと思う」
「いやいや、日名子姉さんはちゃんと人の誠意を汲み取ってくれる人ですよ」
「……樹里は日名子の何を知ってるというんだ……だいたい、届けるにしても平日のこの時間だし、多分仕事中だろ……勤め先分かるのか?」
「え? 携帯にかけて訊きますよ?」
「……おう」
雅也は馬鹿にするわけでもなく、ただ無言で樹里を見つめ、彼女の次の言葉を待った。樹里はしばらく不思議そうに首を傾げていたが、やがて何かに気づいたように「あ!」と大きな声をあげる。第一関節まですっぽり袖で隠れた両手を口にあてる。雪のように白い肌をほんの少し赤らめたあと、取り繕うようにしゃべり始めた。
「じゃ、じゃあ、日名子さんの電話帳開いてみては? 職場の番号登録してるかも。電話帳に登録されてるお店の番号に片っ端からかけて、『日名子さんはいますか?』って訊いて……」
「悪くない案だけど、ロックを外すパスコードは?」
「大丈夫です! 化粧棚のとこで免許証発見したんで! 誕生日打ち込んでみます!」
「……生年月日をそのままパスワードにするかな、いまどき」
樹里が免許証とスマホを交互に見ながら数字をタップし、むすっと頬を膨らませた。生年月日は外れだったらしい。雅也は椅子に腰かけると、両手を合わせて鼻に添え、うっすらと目を閉じた。
「どうしました? 雅也兄さん?」
「……いやまあ、ちょっと考え事。仮に今、日名子さんが帰ってきたらどうなるかなって」
「あ、確かに、携帯届けに行ったら入れ違いになっちゃうかもしれませんね」
「……樹里は自分が怒られる立場だってこと、もう少し自覚したほうがいい」
雅也は、頭の中で日名子が戻ってきた光景を思い描いた。
――家に入ると、白猫のような容姿の娘がスマホのロックを解除しようと苦戦している。見ていて気分のいい光景じゃなさそうだ。自分のパーソナルスペースを侵害され、ひどく傷つくに違いない。これに加え、外国製の鳩時計が中途半端にバラバラにされ、600円もするアイスバーの残骸が屑籠に捨てられている。
「うん、訴えられるかもしれないね……」
「いっそ逃げ出したい気分ですか?」
「せめて鳩時計の修理だけは完結させたいな……」
「日名子姉さんのご機嫌とりに?」
「……言い方が……そもそも、時計一つ修理したところで、日名子をブチ切れさせることは変わらんよ。ただちょっと、手を出した修理を途中で投げるのが
雅也が言い終えるよりも早く、日名子のスマホが電子音を鳴らした。樹里がビクッと肩を震わせ、危うくスマホを取りこぼしてしまった。雅也が歩み寄り、すぐに拾い上げた。
『送信者:ネチネチ風間
件名:本日の業務の件
以前お聞きした番号で繋がらないので、メールで……』
日名子はロック画面に新着メールの一部が表示される設定にしているらしい。樹里は雅也の傍に寄り、スマホの画面を覗き込んだ。
「……日名子姉さん、職場の同僚のメアドを『ネチネチ風間』で登録してるんですね」
「……知らなくていい上に、そこそこ知ってはいけない情報だな。しかし何も、電話帳登録にまで愚痴挟まんでも……」
その後しばらく、立て続けに「ネチネチ風間」からメールが届いた。
『送信者;ネチネチ風間
件名:心配しています
公共交通機関の遅延ですか?早く事情を説明して……』
「あれ? 日名子姉さん遅刻してます? 朝には家にいなかったはずなのに……」
「『心配しています』という文面に静かな怒りを感じるな」
「これはあれです……ネチ間は正直、公共交通機関の遅れとか、思ってないですよね。『どうせ寝坊かなんかだろ、なじってやるから連絡寄越せ』ぐらいのことは思ってますよ!」
「それはさすがに根拠薄くないか?」
「ネチ間はあれですよ! 人のミスを徹底的に責めるタイプですよ! 2年くらい前のミス覚えていてあげつらうタイプですよ!」
「……樹里は一体、風間の何を知っているんだ」
『送信者;ネチネチ風間
件名;売場の鍵の件
日名子さんが職場の鍵を預かってますよね。皆困って』
「はい来ました! 心にグハっとくるアッパー来ました! 職場の同僚をかさに着て責めはじめましたね!」
「連帯感に弱い日本人に効くやつな」
「ちくせう! ネチ間はいつだって、人の心をねっとりえぐろうと狙ってるんだ!」
「……樹里は風間の何を知ってるんだ」
『送信者:ネチネチ風間
件名:売場準備完了しました
店長に鍵を開けてもらいました、搬入も済ませて ……』
「メールの件数が多い! 報告が細かい!」
「ネチネチしてるなあ」
「一定間隔かつ小刻みにメールの通知音を鳴らすことで、焦燥感を煽ってきますね! 細やかな部分まで気遣いの行き届いた嫌味!」
「……褒めてんのか貶してんのか。つうか風間、こんなに小刻みにメール送りつつ店長に連絡して売場準備も整えてんのか……普通にちょっと感心する」
「風間優秀! 1社に1人欲しい人材! でもそのそつない優秀さが、こちらの無能を浮き彫りにして、絶望感を醸し出すのです! おのれ風間!」
「……樹里は風間の何と戦ってるんだ」
雅也が呆れた顔をするのを見て、樹里は頬を膨らませた。
「だって、日名子姉さんに『ネチネチ風間』って名前で登録されるような奴ですよ? 並大抵の粘度じゃあ、電話帳で愚痴られたりしませんって!」
「粘度の高い人間って、字面にするとなんかえぐいな」
「字面の話はどうでもいいんです!」
「今日これまで、どうでもよくない話なんかしたっけか?」
「ある男の人間性の可否を巡る判断です! どうでもいいはずがないですとも!」
「ぼかして言葉の響きだけ壮大にしたなあ……。ほとんど
再び椅子の上に足を乗せて坐った樹里は、膝の上で腕を組み、その中に半分顔を埋めてしまった。ふてくされ、隅でいじける子どもを思わせる仕草だ。雅也は樹里の髪を軽く撫でた。
「雅也の兄さんは何でそんなに風間を庇うんですか……」
「……さあ」
――俺自身、何で顔も知らん奴を庇ってんのか分からんよ。
「……まあ、何一つとして悪いことは言ってないしなあ、風間は……」
「でも、日名子姉さんは……」
「ひょっとしたら日名子はとんでもないヒステリー女で、風間は何も悪いことしてないのにネチネチ呼ばわりされた可哀想な奴かもしれないだろ? 風間はもちろん、樹里は日名子とも直接会ったこともないんだから」
雅也は首筋を軽く掻いた。
――まあもっとも、俺も日名子に会ったことはないので、実際どうかは分からないが。
「ピロン」と電子音が鳴った。画面を見た雅也は、口元を手で隠し、小刻みに肩を震わせている。その目じりが上がっているのを見て、樹里は笑いをこらえてるのだと察した。
「雅也の兄さん? 何がそんなにおかしいんです?」
「……風間はけっこう良い奴で、割と本気で心配してるな。焦ってるのか、メールの形式が業務連絡のそれじゃなくなってきてる。しかしまあ、随分勘のいい奴だよ」
「勘のいい?」
雅也はしゅっと細い腕をしならせ、スマホを宙に投げ上げた。それはくるくると回転しながら宙を舞い、きれいな放物線を描いて樹里の両手に静かに落ちてきた。樹里は目をパチパチさせながら、ロック画面を覗き込んだ。
『送信者:ネチネチ風間
件名:怒ってませんから連絡をください
何か事件に巻き込まれたのではと、気が気でな……』
雅也が口を覆った手を下ろし、ほころばせた口元をのぞかせた。
「見ろよこのメッセージ。部屋に忍び込んだ
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