第17話

 だいぶ時間が経ってから、リョーコが化学室の鍵を開けた。蹴りの痛みがまだいているので、俺は室内に入っても、椅子ではなく床に直接座りこんだ。

 落ち着いてから訊いたが、今回の騒ぎの発端は、なんともバカバカしいものだった。

 実験で使う薬品と、先生のいていたストッキングが原因だという。

「だって、有機溶剤使う実験なんですもの、ストッキングしたままだと問題ですのよ」

 匂坂部長は一応反省しているらしい。口調がしおらしくなっている。

「だからってあそこまでやる必要ないでしょう!」

 まだこの場はリョーコが仕切っている。

 実験で使う薬品が飛び散った場合、ストッキングに付着すると反応を起こすらしい。でも人体に危険があるような反応であるわけもなく、ストッキングが溶けるとか変色するとかのレベルのようだが。

「確かに白衣や保護メガネを着用するのに、この実験でストッキングしたままというのは理屈に合わないわね」

 中之森先輩の発言にリョーコがみ付く。

「行動の優先度がズレてます! お2人とも世間の常識無いんですか!」

「ちょっと待て、2人とも」

 今まで黙っていた太田先生が立ち上がって割って入る。まるで寒さに震えているかのように両腕を白衣の前に交差して服を押さえていた。実際少し震えていて、しかし顔は紅潮こうちょうしてちょっと涙目だ。

「実験の監督責任者として、確かに服装に問題があった事は認めます。あなた方に手本を示す立場としては不適切でした」

 なんと、この先生、自分に非があると認めたよ! いいのか?

「有機溶剤を使用する実験を行う際は、白衣と保護メガネの着用だけではなく、エナメル靴やストッキングの禁止は当然です。ですので、先ほどの匂坂さんの行動に対して、ペナルティを課すつもりはありません。お互いに、教訓として、これから注意していきましょう」

 いいのか? 匂坂部長は納得以前に問題点を理解してるか疑わしいぞ。 実際「わーいラッキー!」てな目をしてるし。太田先生を見る中之森先輩の眼は、また硬度を増したような気もするが。

「ですので、この件に関してはお互い不問にして、一切口外しないこと。いいですね!」

 あ、そっちが目的か。納得しました。

「あなたもですよ、堀川くん」

 先生は俺の方に近づいてきた。床に座りこんでいる俺に目線を合わせるため、先生も床にしゃがみ込む。腰周りに手を交差させているから、しゃがまれると胸がいっそう強調されている。あ、ちょっと近すぎます。

「あなたも一切口外しないこと」

 セリフの内容は命令だが、いつもと違う口調がそれを裏切っていた。涙目が命令ではなく懇願こんがんだと白状している。

 あ、なんかヤバイ。「歳上の女性の弱みを握った」と意識してしまった。自分の裡から、明るくも健全でも無い黒い何かが、ムックリと起き上がるのを……

 その時、先生の肩越しに、リョーコの姿を見てしまった。胸の前に腕を組み、怒りの表情で仁王立ちしているリョーコの眼を見た瞬間、か細い悲鳴と共に、俺の産まれたての邪念が蒸発し去る。

 俺は、自分の頭が必死で上下にウンウンとうなずいているのに気づいた。

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