めんでれ

皆中きつね

序章 環状構造

第0話

「ほらセンセ、飲んで飲んで。どーせタダなんだからもっと飲まなきゃ!」


 陽気な声をあげた女の子が、目の前でワイングラスになみなみと液体を注ぎ込む。

 あらかじめ言っておくが、ここはキャバクラでもガールズバーでもない。いたって真面目な、都心の高級ホテルのスイートルームである。


 セリフの主は現役高校二年生。長いまつげの大きな瞳と肩まで伸びたウェーブのかかった髪、そして凶器になりそうな大きな胸の持ち主。我らが化学部の部長にして楠木高校きっての秀才かつ問題児、匂坂彩香さきさかあやか


「わははは、いやありがたいんだが、監督する者がこんなに飲んでいていいのかなあ」

「明日からまた真面目にやればいいじゃない。今夜はお祝いよ。ほれほれ、処分撤回バンザーイ!」

「バンザーイ!」

 そう唱和してグラスに注がれたワインをカラにしたのは、これでも化学部顧問の新任女性教師、太田千春先生。

 誤解してもらうと困るので今のうちに説明するが、太田先生は男っぽい口調でキリッと凛々しく、宝塚の男役のような美貌の持ち主で、しかも誰からも信頼されている。

 そう、いつもはこんな酔っぱらいではない。断じて違う。今日はその、ちょっと事情がありまして……。


「コーチン……すごいね……」


 隣で唖然としてつぶやいたのは、幼馴染の平山涼子。短距離走の選手を思わせる引き締まった体とショートカットの髪が特徴的だ。ついでに胸も引き締まっているが、これ言うとリョーコは怒るから言わない。


「すごいというかなんというか、酒好きを通り越してもはや酒豪と呼ぶべきレベルだな」

 俺も唖然としながらリョーコに応じた。

 実際、ムチャクチャ燃費悪そう。

 既にテーブルや床には、ワインの空き瓶が何本も転がっている有様だ。


 ついでに自己紹介するが、俺の名前は堀川浩司。コーチンは本名じゃないから間違えないでほしい。もっともリョーコしかそう呼ばないが。楠木高校一年生で化学部部員、そして次期部長候補だ。なんだか偉そうだが一年生が俺とリョーコしかいないんだから仕方ない。ちなみに二年生も二人しかいない。


 我々楠木高校化学部はいろいろ問題が蓄積して、新学期早々に廃部処分の危機に直面していた。問題のほとんどが匂坂部長によるものだが、実は俺たちも潔白とは言えないのであまり批判はできないのだ。

 ともかく、心労が蓄積されて壊れかけてきた太田先生の慰労を一番の目的として、合宿名目で今日のホテルリゾートを我々元凶どもが企画した。ところが奇跡的に処分が撤回され化学部は廃部の危機をまぬがれたのだ。


 そんなわけで最初は、処分撤回のお祝いの意味で先生にワインをすすめ、先生の気持ちがほぐれるならと思いその飲みっぷりを喜ばしく眺めていたが、次第に飲みすぎが気になり、やがて呆れてきて、ついには心配するのをやめてしまった。


「ちょっとトイレいってくる」

 上機嫌な太田先生は椅子から立ち上がると、ふらつく足取りで歩き出した。

 寝室とリビングが分かれているだけでなく、お付きの者(この場合俺だな)の控えのコネクティングルームまでスイートルームには付随しているので、太田先生は室内で少し迷いながらバスルームの扉を探し当てる。


 途端に何かに気づいた顔のリョーコが、急に俺のシャツの襟首つかんで、二重扉の先、コネクティングルームの向こう側へ押し出した。


 顔を赤くしながら真剣な目で俺に詰め寄る。

「聞こえた?」

「何を?」

「ならいいけど」

 はい、何も聞いてません。


 さっきより大きな水音がした。先生がバスルームから出てきたらしい。

 リョーコは俺を放り出し、先生に駆け寄った。

「先生飲み過ぎですよ。そろそろ休んだ方が」

「ん? そうだな平山。じゃあ、あと一本くらいで終わりにするか?」

 まだ飲むらしい。

 そこへすかさず割って入る匂坂部長。

「だったらさセンセ、この高そうなの開けましょうよ。えーと、サオリン! これなんて読むの?」

 匂坂さきさか部長が、先ほどから沈黙を続けている中之森先輩に尋ねる。このホテルグループの大株主にして中之森製薬工業のオーナー一族のお嬢様、なのになぜか県立楠木高校在学の化学部副部長、中之森沙織先輩だ。長い髪と意思の強さをうかがわせる硬質の瞳が、強烈な印象を見る人に与える。

 中之森先輩はいつものポーカーフェースで、部長の問いかけに静かに答えた。

「シャトー・ラフィット・ロートシルト。八年物よ」


「おー! それは是非飲まなきゃなあ! ロスチャイルドがナンボのもんじゃい!」


 ダメだこりゃ。


 匂坂部長が、本日大活躍のコルク抜きを使って開栓する。日頃ガサツな動作が目立つ部長だが、一転して丁寧に抜かりなく動く時がある。そんな時はだいたい良からぬ事を企んでいる。今回は先生を酔わせて潰すのが目的でわかりやすい。


 ワイングラスになみなみと注がれた赤い液体を、太田先生はウットリと眺め、化学の先生らしく手であおいで香りを嗅ぐ。

 そして一口だけ口に含み、満足気な笑みを浮かべながらグラスをゆっくりと回し、そして残りを一気に喉へ流し込んだ。


「んー! もうサイッコー!!」


 そう言って先生は、満足気な猫のような顔で、猫のような伸びを一つして……そのままテーブルにつっぷして潰れてしまった。


「ふう、手強い相手だった……」

 額の汗を拭う動作をしながら、潰れた太田先生を見下ろす匂坂部長。自分は一滴も飲まないで先生と勝負していたつもりらしい。

「フランス、ドイツ、スペイン、ポルトガル、イタリア、チリ、最後にロスチャイルド家まで出てきてやっと倒せたか……」

 だから勝ったのは中之森先輩の財力でしょうに。


 と、テーブルに潰れていた先生が、ズルズルと床へ横すべりに崩れ落ちた。片脚だけが椅子の上に乗ったままなので、その……えらいことになっていた。


「見るな見るな見るなあっち行け!」


 リョーコがソファのクッションで俺の顔をボコボコ叩いて、コネクティングルームの向こうに押し出そうとする。

「いや、バカ、こっち、じゃなくて、アレ、止めろよお前!」

 クッションの襲撃をかいくぐってリョーコの顔を掴み後ろを向かせた。視線の先では匂坂部長がスマホで太田先生の酔いつぶれた姿を撮影している。


「彩香、あなた何してるの?」

 硬質の瞳で中之森先輩が訊ねる。

「いやー、ずっと狙ってたのよねー。酔いつぶれた恥ずかしい写真撮られたらさ、先生もやかましく注意できなくなるでしょ?」


 鬼だ……。


* * *


 太田先生を写したスマホを奪おうとするリョーコと逃げ回る部長がスイートルームで追いかけっこしている中、こっちは先生をベッドに寝かせようと悪戦苦闘していた。


 いわゆる「お姫様抱っこ」をしてみようかと考えたが、じっとこちらを見続けている中之森先輩の瞳に気圧されて断念した。あの硬質の瞳に見つめられると、内心を見透かされているようで息苦しくなる。

 次に、先生を背後から抱えて引きずっていこうとしたが、先生の身体がグニャングニャンで、うまく運べない。

 中之森先輩の視線が痛い。別にわざとやってるんじゃないんですよ。そりゃ、腕に当たる胸の感触に「わーい」となったのは認めるけど、必要以上に作業長引かせているわけじゃないんですよ。

 ホントですよ。

 ホントですって……。


 先輩の瞳を見ていたら、「照魔鏡しょうまきょう」という言葉をふいに思い出した。

 空調効いてるはずの室内で汗が出てくる。


 その先輩が、俺の前にしゃがみこんだ。先輩は太田先生の両腕を掴むと、左右反対側の肘を掴むように先生の腕を合わせた。首を頂点とした三角形を作った感じだ。

「脇の下から手を入れて、そしたら先生の手首を掴んで、そう、これで動くはずよ」

 半信半疑で力を入れる。お! 動いた! 身体がグニャグニャしない!

 驚きのあまり中之森先輩の瞳を直視してしまった。なんでこんなこと知ってるんだ?


 ま、いいや。とにかく運ばなきゃ。


* * *


 一番近いベッドに先生を引っ張り上げて、俺は同じベッドに腰掛けて一息ついた。いやー汗かいた、いろんな意味で。

 隣のベッドでは、リョーコと部長がまだスマホを奪いあってる。

 一旦はリョーコがスマホを奪ったが、匂坂部長はリョーコのシャツの裾から中に手を入れて、おもいっきりくすぐりはじめた。両親が見たら嘆くこと間違いない声と表情で笑い出したリョーコから、あっさり奪い返したスマホを手にして、匂坂部長は今度はベッドからベッドへ飛び跳ねている。

 この部屋には、ベッドが人数分用意されている。おそらく別の部屋から移動してきたのだろう。

 そんなホテル側の心づかいなど一切気にせず、我らが部長どのはフィールドアスレチックにしてしまっていた。


 二人がうるさいためか、さっきまで穏やかだった太田先生の寝顔だが、少し眉間にしわが寄ってきている。

 ひょっとして飲み過ぎで苦しいのかな? 少し心配になってきた。


 大田先生が寝返りをうつ。少しうなされたように、寝言を口にした。


「すみません……すみません……。」


 隣のベッドで取っ組み合いをしていた匂坂部長とリョーコも、突然の先生の寝言に動きをとめた。


「すみません……私からもしっかり言ってきかせますので……あの子達に悪気は無いんです……お願いですから……」


 騒がしかった部屋が、一転して重い沈黙に包まれた。


「綾香……」

「はい……」

「削除も」

「わかってるわよ……もう……」


 中之森先輩からの指示に対し、口調ほど嫌そうな表情ではない匂坂部長。スマホを操作して画像を削除する。リョーコが画面を覗き込んで確認している。


 終わったよ、とスマホを振る部長。

 中之森先輩は軽く嘆息たんそくしてから言った。

「コーヒー、持ってきてもらう?」

 全員が賛成した。



* * *


「あのさー、ほいへのーるといういいからも……」

コーヒーポットとあわせて運ばれてきたフルーツの盛り合わせを口いっぱいに入れたまま、匂坂部長がしゃべり始める。だらしないことに、口の端から果汁かヨダレか分からんものが垂れてきた。

「彩香、食べ終わってからにして」

コーヒーカップを口にしていた中之森先輩が、さすがに眉をひそめて言った。


匂坂部長、うんうん頷き、もぐもぐごっくん、コーヒー飲んで開口一番

「あのさー、ポリフェノールっていう言い方も、ずいぶん大雑把だよね」

「どうしたのいきなり」

コーヒーカップを手にしたまま、中之森先輩が尋ねる。

「だってさ、植物成分でベンゼン環に水酸基すいさんきが結合したのがいっぱいあれば、みーんなポリフェノールでしょー。赤ワインもコーヒーも同じポリフェノールって、結構乱暴じゃない?」


 なんか難しい話してるな……


「そうね、フラボノイド系のタンニンやカテキンやイソフラボンと、クロロゲン酸を同列に扱うのも妙な話よね」

「でっしょー! 糖類やアルコールだってちゃんと分けて呼ぶんだから、ポリフェノールだってキチンと……」

「あのあのあの! イソフラボンって、大豆に含まれてるヤツですよね?」


 意外にもリョーコが議論に割って入った。


「ポリフェノールって、その……、胸大きくなるんですか?」


 そっちか!


「平山さん、ポリフェノールで女性ホルモンに似た作用があるのはイソフラボンだけよ。イソフラボンはエストロゲンと働きが似てるの。でも研究者によっては効果が無いと主張する人もいて、まだよくわかっていない部分も多いみたいよ」

 中之森先輩の説明に少し残念そうな顔をするリョーコ。

「そうそうそうそう思い出した! 思い出したら腹立ってきた!! 胸といえば今日のプールでさ……」

「あれは彩香の方が悪いわよ」


 へ? なに? 話が見えない。


「太田先生がプールでビーチボールを彩香にぶつけたでしょ」

「あー、はい、部長がプールにいた女性客を指差した時ですね」

 匂坂部長、胸の大きなビキニのお姉さんを突然指差したんだ。すごく大きな胸をした女性だったからよく覚えてる。

「あの時、彩香が何を言おうとしてたか覚えてる?」

「えーと、胸がどうとか……言ってる途中でビーチボールが部長に当たったのでよく分からなかったですけど」

「彩香はこう言おうとしたのよ『あの人、胸が水に沈んだ』。ね、そうでしょ?」

「ピンポーン!」


??? よくわからない???


「あのねー、人体の比重は0.9で、水より軽いの。しかも胸なんて脂肪しかないから絶対水に浮くはずなのよねー」

「あ、分かった!」リョーコが叫ぶ。「豊胸用パック詰めてたんだ!」

「あ、なるほど。だから重たくなって水に沈んだと。で、それ大声で言うつもりだったんですか? そりゃ先生も強行手段で止めますって!」

「アッタマくるわよねー! あのあと起き上がろうとする度に足払われて何度も沈められてさ」

「いや、騒ぎを未然に防いだだけだと思いますよ」

「彩香、あなた一旦考えてから行動した方がいいわよ」

「え、なんで? そうだ涼子ちゃん、堀川くんに胸揉んでもらえば大きくなるかもよ」


 俺とリョーコが飲みかけのコーヒーをそろってむせた。絨毯じゅうたんに吹き出さなかったのをお互いほめてやりたい。


 その後、部長がブラジャーのサイズとデザインと価格の話を始め、横にいるのが気まずくなったので、俺はコーヒーカップを置いてコネクティングルームの二重扉の向こう側に移動した。


 しかし豪華な部屋だよなあ。

 一人っきりの部屋で、高そうなベッドにフライングボディアタックをし、スプリングの具合を存分に楽しんで、それからカーテン開けっ放しの窓へと移動した。


 既に夜もふけて、窓の外は静謐せいひつさと華やかさが溶け合った都会独特の夜景が広がっている。

 都内のよく知られた街並みだが、夜になるとライトアップされてまるで別の表情になっている。


 キレイだな……。


 窓辺のチェアに座り込んで、しばらくの間ぼーっと夜景を眺めていた。


 しかしいろいろあったな、と、入学してからの四カ月あまりの出来事を思い返す。

 成り行きで入部した化学部がいきなり廃部の危機になったり、情報部の活動に思いっきり関わったり、考えてみればずいぶん濃密な期間だったな……。


 どのくらい経ったろう。コーヒーの香りに気づいて振り返ると、リョーコがカップを二つ持って立っていた。


「あ、コーヒーありがとう。向こうはいいの?」

 リョーコも窓辺のチェアに腰をおろした。

「うん、なんかポリフェノールの水酸基がどうの酸化防止がどうので話についていけなくなっちゃったから」

 そうか。会話そのものは結構盛り上がっているようで、空いてるドア越しに隣から議論のカケラが聞こえてくる。


「ねえ、一人で何してたの?」

「ん……夜景見てた……キレイだなって思って……」

「そうよね、ほんとキレイ……」

 リョーコと二人そろって夜のビル群に見入る。家族旅行とか中学の修学旅行では、こんな都心の一流ホテルなんて利用しなかったから、見慣れた風景の夜の美しさを実感したことも当然なかった。

「今日は、楽しかったな」

「うん、ホント! 先生もプールやゲーム施設とかで子どもみたいにはしゃいでたしね!」

「でもちょっと羽目外し過ぎかも」

「そうよね、先生あんなにワイン飲むなんて思わなかった!」

「楽しんでくれた証拠だと考えましょうか」

 実際、今回の合宿の目的はそこにあったのだから、そうでないと困る。


 でも、本当に今日は楽しかった。

 またいつか、こんな楽しいホテルリゾートをしてみたい。キレイな夜景を見たい。

 学生の身分でバイトしたくらいでは無理かもしれない。でも、こんなに高そうな部屋でなく、食事もあんな高級なレストランではなく、それでもいずれまた……。


「また、来たいね」

「…………うん!」


……なんだったんだ今の返事の前の妙な間は? そう思ってリョーコを見ると、上気して瞳が潤んでいた。あれ、変なスイッチ入れてしまったかと危惧した途端


「お待たせいたしました」


 背後にトレイを持った匂坂さきさか部長が立っていた。


「ご注文のお品をお持ちしました」

 そう言ってトレイを俺とリョーコとの間に下ろす。食べ物でもお皿に載せてきたのかと思ったら


 コンドームだった!


 空気にヒビが入る音が確かに聞こえた。


 部長、この場に持ってきていたのか!

 とある事情で化学部のみんなが何度も触ったモノだし、今更目にしたところで恥ずかしがることもないはずだが、さすがにこのタイミングで出されると破壊力がある。


 固まってる俺とリョーコを無視してコネクションルームの扉前まで戻った部長は

「では、ごゆっくりお楽しみ下さい」

 と、ぬかして扉を閉めようとしていた。


 部長の意図が読めたので、俺は椅子を蹴ってトレイのコンドームを引っ掴み、コネクションルームの扉に向けてダッシュした。

 あの野郎コネクションルームの二重扉の向こう側の鍵を閉めて、俺とリョーコをコンドームごとこっち側に閉じ込めるつもりだ!


 二重扉の内側にはドアノブが無い。こちら側の扉を開けても向こう側のノブを握ることは不可能だし、鍵をかけられたらこちらからは開けられない。

 俺はまだ閉まりきっていない扉に勢いを殺さず体当たりした。開いた扉は部長さんを弾き飛ばし、俺もそのまま床に倒れこんだ。


「あなたたち何やってるの?」

 ハンカチで手を拭きながら、中之森先輩がバスルームから現れた。床に転がっている俺たちを硬質の瞳で見下ろす。

「見て見てサオリン、堀川くんスゴイ積極的よ」

 あらためて今の自分の状況を確認すると、コンドームを握りしめながら部長さんに覆いかぶさっているではないか!

「ご、誤解ですからね! それより先輩! 何で部長から目を離すんですか!」

「私だってお手洗いくらい行くわよ。で、この状況の説明をしてもらえるかしら?」

「堀川くんもやっとエロゲの主人公として自覚が出てきたの。先生は寝てるし、女性キャラ全員攻略するまたとないチャンスよ。それとも寝てる先生から先に攻略する?」

「誰がエロゲの主人公ですか! つか何ですか攻略っ……」

 抗議に声を荒げた俺の後頭部に、何かがコツンと当たった。一瞬で身体中に冷汗が流れる。その感触と力のベクトルから、リョーコのかかと蹴込けこみの寸止め状態にあることが容易に想像できた。

「誰も誤解なんかしてないから、早くそこどいたら?」

 リョーコの蹴りの威力を熟知している俺は、喉の奥が干上がり声が出ない。

「平山さん、ここからだと丸見えよ」

 絨毯じゅうたんに仰向けになりながら、少し顔を赤くした部長さんが楽しそうにかつ他人事のように喋るのを見て、この野郎と思ったが、ふとある事に気づいた。とっさに顔を部長さんの顔に近づけてクンクン匂いを嗅いだ。

「いやん、堀川くんなんかヤラシイ!」

「ちょっとコーチン何してんの!」

俺はそのまま四つん這いになって絨毯の上を虫のように走った。テーブル脇にい寄り、並べているワインのびんを確認する。最後に先生が飲んだのは……。

「部長! これ飲んだでしょう!」

「ん? 何の話?」

「このワイン、先生はグラス一杯しか空けてないのに、ボトルの半分以上ワインが減ってますよ!」

「堀川くん知らないの? アルコールは蒸発するんだよ」

「いきなりグラス何杯分も蒸発してたまりますか! ここは砂漠じゃないんですよ!」

 部長は人差し指を立てて、チ、チ、チ、と顔の前で指を振る。

「堀川くん、観測に基づかないただの推論は、正しい結果にたどり着かないのよ。誰か、私がワイン飲んだの観測した?」

「少なくとも私は見てないわね」と中之森先輩。いやたぶんお手洗いに立った隙にじゃないかな……。

「仮によ、仮に私がワイン飲んだとしたら、問題よねえ。監督責任者は何してたのかしら?」


う……鬼だ……。


「というわけで、今は何やっても無かった事になるのよ。じゃあ堀川くん先にお姉さんとする?」

「どういう理屈ですか!」やっぱり酔ってるぞこりゃ

「ちょっとコーチンはモノじゃないのよ!」

「いーじゃない、少ないリソースは共有しましょうよ。電子を仲良く共有すれば結合も強くなるわよ。サオリンもそう思うよね」

「なんで私に振るわけ?」

「どーでもいいけど、自由電子の俺に自由意思は無いのか?」

「圧力に流されるだけよ」

自由電子というのは、言葉でいうほど自由ではないのだな。

「とにかくコーチンの共有はダメ!」

「まるで誰かの独占物みたいな言い方も止めろよなリョーコ」

「うーん、わかった! 一番の問題は平山さんの欲求不満ね」

「部長! ちょっとそれヒドくない?」

「何言ってるのよ、協力してあげようというのに」

 言うやいなや、匂坂部長がリョーコのTシャツを一気に剥ぎ取った!

「キャー!」

 リョーコの口から「キャー」なんて初めて聞いた。

「な、なにするんですか部長!」無い胸を押さえながら抗議するリョーコ。

「なにって、堀川くんがその気になるよう協力してあげてるんじゃないの。ほら下も!」

 悲鳴を上げてコネクティングルームの向こう側へ逃げるリョーコ。それを追う部長。扉の向こうでドタバタと大騒ぎが始まっている。俺は頭抱えてうずくまってしまう。

「いやー、助けてコーチン!」

 うーん、いつまでも放っておくわけにもいくまい。

 中之森先輩も、長い髪を揺らして無言でうなずいた。しょうがない、介入しよう。


 コネクティングルームの向こう側の部屋は、先ほどまでの静けさは跡形もなかった。椅子やテーブルは倒され、二つあるベッドは両方ともベッドメイクがメチャクチャになっている。

 シャツに続いてスカートも剥ぎ取られたようで、ベッドの脇にスカートが投げ捨てられていた。

 現在戦闘はベッドの上で継続中で、部長はリョーコの下着をぎ取ろうとしてベッドの上でリョーコを押し倒しているという、目も当てられない状態。

「ちょっと、部長、ダメ! いい加減にして!」

 部長はキャッキャいいながらリョーコのブラを剥がそうとしてる。うーん、近づいていいものやら。

「部長、ホント冗談はやめ……げっ、デカッ!」

 部長を下から押しのけようとしたリョーコの両手が、部長の巨大な胸を掴んだまま固まった。これは、来るぞ。

「……ちょっと……ちょっとくらい……胸が大きいからって……このォ!」

 殺気を感じた部長がベッドを飛び降りる! リョーコが「何を言っても無駄モード」に突入した!


「待て!コラ 逃げるな! 胸が大きくて頭がよくて美人なんて絶対許さん!!」

 ムチャクチャな理屈で反撃に転じたリョーコは、下着姿のまま部長を追いかけまわす。部長はキャッキャいいながら部屋中逃げ回る。

 俺はまた頭抱えてうずくまってしまった。

 でもいい加減リョーコを停止かけないと部長危ないかな。部長相手にリョーコが空手の技を使うとは思わないけど……。


「こらぁ! お前たち!!」


 この場の全員が電気に触れたように反応して声の方を見た!


「何時まで騒いてるつもりだ!」


 唐突に太田先生が怒りの形相で現れた! 髪の毛が獅子のたてがみのようだ。そのままズンズン進んでリョーコと部長の首を両手で掴み、間髪入れずに二人の額にガツンガツンと頭突きを食らわす! スゴイ! 今まで騒いていた二人を一発KOした! さすが空手大会優勝者!


「だいたいお前たちはいつもいつも……」


 と、叫んだところで、先生は糸が切れたように膝から崩れ落ち、そのまま寝息を立ててしまう。


 え? なんだ? ひょっとして寝ぼけてたの!


 さっきまでの騒ぎがウソのように、一瞬で静かになってしまった。空調の音しか聞こえてこない。

絨毯の上にはリョーコと部長、そして太田先生の三人が折り重なるように横たわっている。しかもいろいろと丸出しで。やれやれだ、こーゆーのはチラリと見えるからいいのであって、これではありがたみのカケラもない。

 まあ、このままにしてもおけないので、ベッドから毛布を引っ張ってきて三人の体にかけてやる。


ふぅ、とりあえずはこれでいいか。しかし皆ダウンしたから静かになっちゃったな。騒がしかったから余計に静かに感じてしまう。


 と、振り返った途端、硬質の瞳と視線が合いギクリとなった。部屋の静けさに溶け込んでいたから副部長の存在を一瞬忘れていた!

 よかった、何もしないでホントよかった。


「あ、あの、あの、なんか、静かになっちゃいましたね」


 空調効いてるのに汗が出てきた。

 中之森先輩は無言のままだ。


「みんな、ダウンしちゃって、ハハハ、静かですね……」


 痛い、沈黙が痛い。


「あんなに騒がしかったのに、今は二人だけで……」


 汗がどっと出た。


 二人だけ。


 この広い部屋で。


 ベッドとか、さっきまで握っていたコンドームとか、急に意識してしまう。


 えーと、どうしよう……リョーコ起こそうか?


 中之森先輩は硬質の瞳でこちらを見据えている。

 息が苦しい。うまく唾が飲み込めない。


「みんな静かになっちゃったし、もう夜も遅いから、ボクたちも寝ようか?」


 うわー、言ったそばから汗が出る! 違うんです! 誤解しないで下さい! そんな意味じゃないんです!


 どうしよう、あの瞳から逃げ出したい。でもどこに?

 とりあえず寝てる三人を起こそうか。


 そう考えた時、中之森先輩が、それまでこちらを見据えて微動だにさせなかった視線をなぜか落とした。

 そして、少しうつむきながら近づいてポツリと


「きて」


 え?


 言葉の意味を図りかねた。


 うつむいた先輩の表情は、長い髪に隠れてよくわからない。硬質の瞳はこちらを向いていない。


 お互い、一言も発せず、しばらく立ち尽くしていた。


「きて、こっち……」


 中之森先輩の背後には、コネクティングルームの扉が開いている。

 その向こうには、さっきまでみんなで談笑していた部屋がある。今は誰もいない、ベッドのある部屋が……。


 呼吸が苦しい。心臓が早鐘を打っている。


 中之森先輩だって、石や鉄で出来てるわけじゃないことはよく知っている。でも、これは本当にそういう意味なのか?


 こちらが一歩も動けないでいたら、中之森先輩が近づいてきて、俺の手を握った。細い手だった。しっとりと汗ばんでいるようだったが、俺の手の方が汗をかいていたのかもしれない。


 先輩は俺の手を握り、扉の向こう側の部屋へと引っ張った。

 情けない事に膝が震えた。

 手を振り払う理由も見当たらず、これでいいのかと自問自答しながら、俺は先輩に引かれるままにコネクティングルームの扉をくぐった。


 心臓が痛いくらいに脈打つ。ノドの奥が干上がっている。状況の急変を理解しよう飲み込もう、そうがんばってみたが頭がうまく働かない。


 先輩は引いていた俺の手を離し、俺に向き合った。そして俺にぶつかるように踏み出し……


 脇をスルリと抜けて扉の向こう側へ行って


「おやすみ」


 と、一言残して扉を閉めた。


 あ、そーゆーことね。

 確かに三人運ぶより合理的だ。


 俺は閉じた扉を見つめたまま、ヘナヘナとその場に四つん這いにへたり込んだ。ちょっとしばらくは動けそうにないダメージだ。


 何分くらいそうしていただろう。

 全く思ってもみなかったが、扉が向こうから開いた。

 そこには、シャワーを浴びてガウンに着替えた中之森先輩が立っていた。濡れた髪が艶やかに光り美しい。

 信じられない思いで呆然と見惚みほれている俺に、先輩は言った。


「あなた、秘密は守れるわよね」


 その後、俺と先輩は、お互い少しだけ顔を赤くしていた。ちょっとした秘密を共有した後、先輩は扉の向こう側に戻っていった。


 正直言って少し期待したのとは違いましたけどね、念のため。


 シャトー・ラフィット・ロートシルトのボトルは、今は完全にカラになっていた。もちろん部屋が乾燥していたのがその理由だ。誰も不祥事なんて起こしていないのだよ。


 いい気持ちになって部屋の灯りを消し、フカフカのベッドに潜り込む。

 しかしイロイロあったよなぁホント。

 この化学部の人たちとの出会いの時を思い出しながら、俺は眠りについた。

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