第2話 原稿
影(1)
「ん……」
カーテンの隙間から差し込む日差しで、由美子は目覚めた。
隣では、真子が微かな寝息を立てていまだ夢の中だ。タブレットで時間を確認すれば午前7時15分。太陽の光で目を覚ましたおかげか、とても目覚めが良い。
真子を起こさないようにベッドから出れば、由美子は顔を洗いキッチンに立つ。仕事へ行く真子の為に弁当を作るのだ。冷蔵庫の中を覗弁当によさそうな食材を探す。卵を取り出せば、殻を割り茶碗の中に浮かべ菜箸で卵黄を
かき混ぜれば、膜からこぼれ出た卵黄が卵白と絡まってゆく。
「砂糖、牛乳、みりんとめんつゆ」
調味料を混ぜ合わせれば、フライパンに流し込む。
真子に絶賛された、由美子自慢の出汁巻き卵だ。
「おはよう……」
溶いた卵をフライパンに流し込み、
「おはよう。今、お弁当作ってるから」
「ウチの?」
「うん」
「おおー! ありがたやー!」
だから、早く支度をしなさい。
そう伝えようと真子を見た瞬間、
「っ……!」
真子の背後から伸びた両腕が、彼女の首元に
顔が確認できないため詳しい年齢の判断はできないが、身体が小さいところをみると、子供だと由美子は感じ取った。
どこの子を、背負っているのか。
いや、それは人なのか。この団地に住む、住人では、ないのだろうか。
真子に問いたいが、由美子の口は動かない。
言葉が、そこまで出てきているのに、唇が震えるのだ。
「……ま、こ」
やっとのこと呼んだ名もあまりに小さくて、自分の目の前で空気に溶けた。
「!」
しかし、その言葉はちゃんと届いていた。
よからぬ方向へと。
真子の背後から抱き着くそれは、ゆっくりとこちらを向こうとしている。
レースカーテンから入り込む日差しが、部屋の中を爽やかに照らすがそこだけは暗く、重い。
テレビを眺めている彼女の背後で、もう一つの頭が、動く。
真っ黒な右瞳が、由美子の姿を
「ぁ、……ま」
瞳だけじゃない。
顔も、腕も、手の甲までも真っ黒で、焼け
鼻腔を刺激するのは、焦げ臭い匂い。
「や、見ないで……こっちを、見ないで……!」
由美子の声は小さく、掠れていた。
菜箸を持つ手まで震える。
――オネ、エ……チャン?
聞こえた声が、
今目に見ている映像が、
揺れる。
揺れて揺れて揺れて揺れて揺れて、壊れる。
『お母さん、きょうはこうえん……いける?』
―― ……ネ、……ン
『きょうもお母さんいそがしいって。だからおねえちゃんとあそぼっか』
―― オ……チャ
『ほら。――のすきなあやとり、しよう?』
―― ……オネ……ン
『これにする! だって、お姉ちゃんが選んでくれた着物だもん!』
「!」
「お姉ちゃん!」
「っ、あ……」
息苦しさに、呼吸を荒げる。
今、自分は何を見た。低い目線で上ばかりを見上げていた世界は知らない景色。
誰。お母さんって誰。誰と遊んでいた。真子は、あやとりが好きだったか。知らない知らない。そんなの知らない、あのとき真子の着物を選んでいた時に、家族に紛れて知らない男の子が居たなんて、由美子の乱れる記憶が見せた何かの間違いだ。
「ま、こ……」
「お姉ちゃん、出汁巻き卵焦げてる!」
「あっ……うん」
そう言われて、ガスを止めた。
よく見れば、真子の背後に子供なんていないし、焦げた匂いだってこれのせい。
そう。
全部、何かの勘違いだ。気のせいだ。気にすることは、何もないのだ。
*
真子を送り出し、支度を整えれば由美子は団地敷地内の公園へと足を運んだ。本当は掃除をしたかったのだが先程のこともあってか、今は一人であの場所にはいたくなかった。
午前10時。斜めに上ってきている太陽は、雲に隠れてしまった。今朝はあんなに暖かな日差しを運んでくれていたのに。
厚着をして、コートに身を包み、マフラーも首に巻く。
それでも秋の風は、由美子の肌をチクチクと刺した。公園のベンチに腰を掛けるが、冷えたベンチがお尻から体を冷やしていく。
「はあ……」
口からこぼれた溜息が、白く天に昇る。
ここに長居はできそうにない。せめて、太陽が顔を出してくれたら我慢できるのに。真子が仕事から帰って来るまで、どこで時間を潰そうか。
「どうして」
こんなところにいるのだろう。
あの家には居たくなかった。
「なにが」
起きているのだろう。
昨晩といい今朝といい、影や子供の正体はなんなのだろう。
「なんで」
両親は、離婚してしまったのだろう。
やはり自分のせいではないか、そんな予感が由美子の胸の中を掻き乱す。喧嘩は多かった両親だが、翌日にはいつものように仲は戻っている。父はよほどのことがない限り喋らない、無口な人だ。
『呑気なものだな』
そんな父が私に言ったひとこと。これは、よほどのものなのだろう。
でも、それはちゃんと言葉にしてくれなくちゃ分からない。何をしてしまったのか、何がいけなかったのか、それを伝える為に”言葉”というものがあるのだ。それを活用しないで、空気を読んで察しろなんて、さすがの由美子でも理解できないものがある。父親であっても、他人であっても、由美子はそれほど気長ではないのだ。
「でも……私に原因があるなら、謝らなくちゃ」
北風に吹かれた枯れ葉が、カラカラと音を立てて地面を駆けていく。
「きゃはは!」
子供の笑い声に、由美子の肩が微かに跳ねた。脳裏に浮かぶのは、今朝の子供の姿。恐る恐る辺りを見渡せば、団地内に住んでいる子供たちが元気に駆け回ってやってきた。
そんな子供たちの後に続く、母親たち。
「……あ」
その中に、向かいの家の
小さく声を上げれば、目が合う。そうだ、まだ謝罪をしていなかった。と立ち上がれば、由美子の膝に置かれた文庫本がドサリと音を立てて地面に落ちた。
「あ」
拾おうとしゃがもうとしたとき、
「はい、由美子ちゃん」
「カズくん……ありがとう」
文庫本を拾ってくれたのは、幾日ぶりに会う少年だ。ほこりを払いながら笑顔で差し出すそれを、由美子は受け取った。
「久し振りだね、元気だった?」
「うん、元気だ――」
「カズ!」
会話を遮ってやってくるのは、少年の母。少しばかり息を荒げながらやってくる姿を見て、少年を首を傾げた。
「どうしたの、お母さん」
「どうしたのじゃないでしょ。はら、早くみんなのところに戻るわよ」
「え、おれ由美子ちゃんとあそびたい」
「駄目よ。忙しそうでしょ?」
少年の腕を引っ張り無理やり連れて行こうとする母親の姿に、由美子は苦笑した。目が合ったきりこちらを一度も見ないで何が忙しそうなんだ。と。
「あ、あの……日向さん? 私は、忙しくないですしそんなにカズくんの腕を引っ張らないであげてください……」
「ほら、由美子ちゃん忙しくないって!」
「いいから、行くの」
由美子の言葉は、届いていないようだ。否、届いているのだろうが反応がない。
「お母さん!」
「日向さん。もし、以前のことについて勘違いをされているなら訂正させてください。私たちはカズくんとお話をしていただけで――」
「ほら、カズ!」
「日向さん、少しでもいいのでお話を……」
「カズッ!」
ぷつん。
由美子の中で、何かが切れた。
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