守りたいもの(2)
「もしもし?」
帰宅途中、タブレットが音を立てた。母からの着信だ。
『もしもし……お母さんだけど』
「うん、どうしたの?」
『いや、真子と仲良くしてるかなって思って……』
「してるもなにも、まだ2日しか経ってないって」
『そうよね、大丈夫よね』
「あはは、心配性だなー」
一般道から団地敷地内に足を踏み入れると、すうっと空気が変わったのに気がついた。秋の肌寒さとは違う何かが、ピリピリと由美子の肌を引っ掻く。
『その……大丈夫、よね。何も……無いわよね?』
「え、なに? どういう意味?」
歯切れの悪い母の言葉に首を傾げながら、視線は目の前の団地を見つめていた。団地の背を見上げれば、リビングに明かりがついている。妹の真子が居る証しだ。自然と家に向かう足が早まる。
「っ……?」
早まるが、団地入口に目をやれば、その異様な光景に由美子の足はぴたりと止まった。
入口の前に、誰かがいる。住人だろうか。ならば、立ち止まる必要もないのだが、由美子の足は地面に張り付いたように動かなかった。
『由美子?』
画面向こうの母が、由美子に問いかける。
「!」
距離はある。距離はあるのに、タブレットからの声が、冷たい空気に乗って聞こえてしまいそうになる感覚に由美子は息を飲み、スピーカー口を手で覆った。
というのも、肌を刺す空気は、それが原因かと思わせるかのように目の前の人物は、暗闇の中不気味に佇んでいた。
「ごめん、お母さん。また今度、電話するね」
小声で囁く由美子の声に、母は何事かと尋ねる。物陰に隠れながらも、由美子は「大丈夫、気にしないで」とのこと。これでは余計に母に心配をかけてしまうのだが、今はそれ以外の言葉が出なかった。
もう一度謝れば、由美子は通話を切る。
建物を見上げているそれは、暗闇の中にはっきりと浮かび上がる。髪の長い、女性だ。秋の夜だというのに上着を羽織らずに薄い布きれ一枚身に纏って、由美子が電話を切ったのと同時に裸足で建物内の階段を上がっていったのだ。
その途端、そちらから流れてきた風の中に焦げ臭い匂いが混じっていることに、由美子は気づき眉を寄せ、ゆっくりと後を追った。
*
――ツー、ツー
電話が切れた音が、頭の中に響く。由美子に電話を切られて数分、母・
由美子が何かを発見したのかもしれない。
何を見つけたのだろうか。それは、あの事に関わること? それとも、普段の生活の中での些細なこと?
「ごめん、お母さん」と、由美子の声が耳に張り付き、
ごめん。と謝りたいのは自分の方だ。今すぐ大切な娘たちを、あの団地から連れ戻して自分の目の届く範囲に置いておきたい。できれば、真子だけでも。
「っ、も……なんなのよっ、どうしたらいいのよ……私は、ただ……」
助けを求めて、叫びたい。
今でも愛している夫に
「ごめん、ごめんなさい……ごめんね、ごめん……本当に、ごめんなさい……」
携帯を両手で握りしめて、嘉子は畳の上に
直接伝いたい言葉を、ただただ繰り返す、誰に対しての謝罪なのか最早嘉子自身も分からなくなっていた。
でも、そうしていないと聞こえてきそうなのだ。
あの日見た、光景が。
あの日聞いた、声が。
逃げる私に
苦しい苦しい苦しい苦しいっ! 心臓を撫でられているような感覚に体の震えは大きくなるばかり。
母は、悪魔に我が子を売ったのと同然なのだ。
「ごめんね……お姉ちゃん……」
*
階段を上がるにつれ、匂いが強くなる。
これではまるで火災現場に居るようだ。由美子は口元をハンカチで押さえながら、自宅の玄関を目指した。
不気味な女は、いつの間にか消えていた。
念のため、階段を上る前に近寄り、物陰から上がっていく様を確認していたのだが、少し目を離した隙に見失った。
3階にたどり着くと、玄関が少し開いていた。
「不用心だ」
ドアノブを握りしめ、ゆっくりと手前に引く。
もし、先程の女が家の中に入っていたらどうしようなんて気持ちが浮かんだが、すぐさま掻き消した。冗談じゃない。
「……真子?」
玄関先は電気が消えていて、鍵を掛ければ片手でスイッチを探る。
目の前のキッチンとリビングに繋がる二つの扉から、光が漏れている。
「真子、いるの?」
返事はなく、聞こえるのは男女様々な笑い声。
指先が、スイッチに振れる。かちり、と音を立てて、玄関の電気が付けばやっと心が落ち着いた気分だ。
靴を脱ごうと地面を見れば、妹の靴は無かった。
リビングの扉を開ければ、ゴールデンタイムのお茶の間を盛り上げるバラエティ番組が付いており、由美子は溜息を一つ。
「あいつは、また電気つけっぱなしで出かけたのか」
テレビを消した時、由美子の背後を何かがゆっくりと通り過ぎる。
キッチンに向かえば、ダイニングテーブルの上に1枚のメモ用紙を見つける。
”出かけてきます。真子”
帰ってきたら、戸締りをして居なかったことを注意せねば。以前にも、何度か注意したのだが「はいはい」と聞く耳持たずに話を流す。これには、呆れた。
今晩はお説教だ。真子が帰ってくればの話だが。
「で、晩御飯は作ってない、か……」
メモ用紙以外何も乗っていないテーブルを見て由美子は呟く。
「とりあえず、お風呂入ろう。なんか、焦げ臭い匂いが
コートを脱げば、由美子は浴室に向かった。
「はあ……」
熱い湯が、冷えた体に
顎まで湯に浸かれば、ほうと息を吐く。極楽だ。目をつむり、無になる。何も考えず、体が温まっていくのを感じる。体中念入りに洗って、あの匂いも落ちたようだ。愛用のシャンプーの匂いに包まれて、気分が良かった。
「明日は、休みだ。何をしようかな」
引っ越してきて初めてのオフ日。周りが働いてる中の休みというのは、少し……いや、かなりの贅沢さがある。何をして過ごそうか。近所を散歩するのも良い。特にこの敷地内はとても広く、公園がいくつかある。秋の空の下、紅葉を背景に好きな本を読んで過ごす……悪くはない。心が跳ねた。
「……でも、まあ」
その前に、向かいの家の日向宅に挨拶をしよう。
「そういえば、この前作家さんが亡くなって何十年がどうのこうのっていうニュースやってたなあ。……気になる」
風呂から出たら、検索をしてみようか。人の死についてあれこれ調べるのは不謹慎かもしれない。しかし、ニュースの最中にも関わらず母にテレビを消されてしまい、由美子はとても気になっていた。好奇心を、強くさせたのだ。
目を開けて、浴槽から出ようとしたとき。
浴室の扉になっている曇りガラスに違和感を覚えた。
いや、違和感なんてものではない、扉の前は洗濯機が置いてあるのだが、その洗濯機と扉の間に、人影が浮かび上がっていた。
「真子?」
いつの間に帰ってきたのだろうか。
声を掛けるが、返事がない。
「おい、聞いてるの? 今出るから、退いてくれる?」
顔が見えないということは、こちらに背を向けているのだろう。由美子の言葉に従うかのように、その影は、ゆっくりと歩き始めて視界から消えた。
しかし、そこで由美子は気が付く。
あの影は、確か、外で見たそれに似ていた。確かに、真子に声を掛けても返事をしないことはいくらでもある。だが、それにしては
影の動き方が、いびつだったのだ。
「っ、誰かいるの?!」
もしかしたら、先程追っていたそれが家の中に入り込んでしまったのかもしれない。大変だ。女性だと信じたいが、男性なら警察沙汰であろう。どちらにせよ、不法侵入だ。
扉を開けて外に出ると、由美子はバスタオルを体に巻き付けて、近くにあった浴槽洗剤を手にする。
「誰?! 居るなら、出て行ってください!」
脱衣所と玄関に続く廊下を隔てる間仕切り。そのカーテンへと近づく。
髪の毛から肩へと垂れる
息が、細長く……まるで、侵入者を刺激するかのようにふう、ふうと伸びる。
もうこちらの居場所はばれているんだ。今更隠れようったって無駄なだけ。
「誰か居るんですか?!」
再度口にする言葉が震えそうになるのを、我慢する。怖くないわけが、ない。
洗剤を握る手を、前に突き出すようにして一歩進めば、
焦げ臭い匂いが、鼻をかすめた。
「っ……」
匂 い は 、上 か ら や っ て く る 。
無意識に、天井を見上げると、
「!」
真っ白い天井に、ひ と つ 。
真黒な、手形が ひ と つ 。
息を飲み、言葉を無くす由美子に向かって、手形が、
ひ と つ 、
ふ た つ 、
み っ つ 。
と、近づいてくる。
「なっ……ぁ、」
やっと出た声が、
手形は天井を這うように、滲み線を引いて――――
―― シャッ
「きゃあああああああ!」
目の前の間仕切りが開けば、一瞬見えたのは、男の子の姿。
「お姉ちゃん」
……だと、思ったが、声を上げて震える由美子の目の前に居たのは、妹の真子だった。
「……なにしてるの?」
「っ、……真子」
重い息を吐いて、天井を見上げた時には手形が消えていた。
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