第六章 労働

 クリノは、珍しく腹を立てている。

 今夜こそ犯人を捕まえてやろうと、図書館で棚の陰に隠れ、満月が皓々と輝く夜空が見える窓を見張っていた。

 

 ヴァレリアン国軍幹部候補生訓練施設に来て三ヶ月。クリノは命じられた仕事を十分すぎる程にこなしてきた。

 アミを立腹させた施設長代理は、クリノよりは年上だがまだ若く、ピクリとも表情を変えない冷たい印象の黒髪の女だった。質問をしても一切の返事はなく、ただ、命令を告げられた。

「クリノ・トマ・エーレイ、ヴァレリアン国軍幹部候補生訓練施設の下級労働職を任じます。職務内容に不満があればいつでも解雇するので私の所へ」

 施設内にある図書館の屋根裏部屋を住処として与えられる。サヘリアで過ごしていた部屋と違いクリノ一人でいっぱいになる小さな部屋だったが、やけに落ち着きを感じた。丸窓から見える空は、小さくても施設内では一番空に近い窓だった。

 最初の一ヶ月、クリノは魔術によって操られている掃除道具に混じって、施設中を掃除させられた。訓練室、教官室、実験室、武術館、食堂、トイレ、寮。尖塔のてっぺんまで登らされて雨樋(あまどい)のゴミ取りもした。

 魔術で勝手に動いている箒やモップに混じり、一人汗を流して働くクリノを、三百人程いる七歳から十九歳までの国軍幹部候補生たちは、指差して笑った。

 一人で薬の調剤や実験、森歩きを楽しんで生きてきたクリノは、人とあまり関わらず道具と共に働く日々を苦痛には感じなかった。

 しかし時に、ふと夜空を見上げて生まれ育ったラスケスタの街や、大切な人々を思い出すこともある。そんな時は、じっと目を閉じて、ギンビの光り輝く尾びれが揺れる様や、ハクビに触れた時の温かさを思い出すようにした。するとなぜだか、このラピナでも何とかやっていけるような気がした。

 二ヶ月目になると、施設長代理はクリノに食堂の厨房の手伝いをするよう命じた。食料の買出しや残飯処理、コックや他の用務員たちの小間使いも兼ね、休む間もなく施設と街中を走り回った。

 どのようなことを頼まれても、どれほどの急ぎであっても、この少年は厭わず引き受けて明るさを失わない。わからないことは教えてほしいとはっきり聞く素直な翡翠色の目を見ると、コックたちや用務員やがては教官たちまでもが、何か手を貸してやりたいと思うようになった。

 料理長に至っては、クリノを貴族の軍幹部候補生の中に放り出すのはかわいそうだ、いっそのこと料理人の見習いとして自分のもとで働かせたいと施設長代理に申し出たのだが、却下された。

「細っこいクリノ、お前さんはもっと食わなくちゃいけない。腹が減った時はいつでも厨房に来いよ」

 そう言っては、余り物にしては上等で美味しすぎる差し入れをクリノに度々届けてくれた。

 三ヶ月目は、図書館の整理と掃除を命じられた。ヴァレリアンの図書館はカルヤラでも蔵書の多さが有名で、現施設長が集めたという専門書を求めて、施設外からも多くの者が訪れる。

 重厚な建物は広く大きく天井が高く、そびえ立つような本棚が山脈のように連なっている。

 司書はおらず、看板板に口だけついている「司書看板」で目当ての本の場所を探す。

 今、一人の候補生が司書看板に向かって読みたい本の名前を告げようとしている。

「ええと、『馬の虫歯を治す呪術』!」

 司書看板は口を口をもごもごさせてから、ぺぺぺぺっと候補生に向かって唾を吐きかけた。

「正しくは『奇蹄目の虫歯治療呪術』だ! このアホ野郎、そんなことじゃ故郷に帰って家畜治療呪術師になっても、動物の方からお前なんぞに診てもらうのは願い下げだな!」

 つくづく、口の悪い看板である。

 次の候補生は紙切れに沢山のメモを書いている。

「舟の種類、操舵方法、天候と航海、風のまじないを強くする物」

 そしてそのメモ書きをバッタの形の折り紙にして司書看板の口へ放り込んだ。

 司書看板は放り込まれた折り紙をもぐもぐと食べていたが、やがて候補生に告げる。

「棚七千四百二十番、三列の五。『フィロタール航海術と風魔術』! しかしお前、航海術について学ぶなら折り紙はフナムシだろう、気がきかない間抜け野郎だ!」

 司書看板は、正しい本の名前を告げるか、まじないのかけられた紙に調べたい内容を書き、それを虫の形の折り紙にして看板に喰わせると、本のありかをぺらぺらとしゃべる。本の名前が正しくなかったり、折紙虫が上手く折れていなかったりすると唾を吐きかけてくる。

 過保護に育った貴族出身の多くの候補生たちが、この司書看板によって心を折られる。しかしそれでも知識を求め、術に磨きをかけられる者がこの図書館を大いに利用し、優秀な成績を修めていた。

 身の回りの世話を焼かれて育った候補生に、読んだ本をもとの棚にきちんと戻す者は、滅多にいない。読みっぱなしで机に置いてあったり、間違った棚に押し込んだり、借出したまま返さなかったり。

 クリノはそれを集めては片付け、時には本を返さない候補生の寮部屋まで行って回収する。

 幼い頃から魔術の幼少教育を受けて育った候補生たちは、魔術を使えないクリノを小馬鹿にしていた。

 この時流行っていたのは「棚上げ」といって、読んだ本をもとに戻さずに、浮かせて高い棚の上へ乗せてしまうという遊びだった。

 見えている物を浮かせる、手元に呼ぶという魔術は、平民の子供でも幼年科で習う。クリノはそれができないため、本を片付けるには一冊ずつ手で運び、棚に戻す。時にははしごを使って自分の身長の十倍もの高さまで本を運ばなくてはならない。

 候補生たちは面白がってクリノの目の前で本を次々と浮かせては載せて、仕事を増やした。

 だがクリノはこういった嫌がらせや、仕事そのものをあまり苦に感じない質(たち)であった。

 はしごで高い天井近くまで登り、図書館の中を見下ろすと、候補生たちの動きを全て見通すことができる。

 今日行う悪戯のためだけに調べ物に熱中する者、食べても太らないお菓子の作り方について毎日文献を探す者、魔術とは関係がない物語や詩を好む者、本を読んでいるふりをして、ただただ、見つめ合ったりはにかんだりしている者たち。

 そして本棚は、床から見上げているだけではわからないのだが、上から見ると何か紋様のような、マークのような形になるように配置されており、その間を候補生たちが歩くことによって紋様が変化するように見えて面白かった。

 人が沢山いても保たれる意図的な静けさも、閉館後の空気の中にありとあらゆる知識が濃密にせめぎ合うような激しい静けさも、クリノはとても気に入っていて、候補生になれなくてもこのままここで働いていたいと思うようになっていた。


 しかし、今、クリノは腹を立てている。

 ここ二週間程、毎日クリノが丁寧に片付け、掃除し、施錠した図書館を、毎夜窓から侵入し、散らかし、汚す輩がいるのだ。

 泥だらけの足跡が床はもちろん机の上にまでつけられており、いくつもの棚から取り出された本は床に積み上げられ、出入りしているらしい窓の側には黒い鳥の羽が散らかっている。

 足跡は大きく大人の男のようで、候補生なら高等科以上だと思われるが、大人であっても子供であっても関係なしに、図書館を誰もいない夜中にひどく乱雑に使うことが腹立たしい。クリノにしてみればこの厳かな雰囲気のある図書館が軽んじられているような気がして、「棚上げ」よりはるかに不愉快だった。

 そして今夜。

 犯人を捕まえてやろうと静まりかえった図書館の中で息を潜めていると、突然強風が窓を叩いた。がたがたと窓は揺れ、クリノがしっかりとかけた鍵がひとりでに動き、窓が勢いよく全開になって風が吹き込んでくる。

 あまりの風の強さにクリノは一瞬目を閉じてしまったが、犯人を捕まえてやるという意気込みは変らない。クリノは本棚の陰から走り出た。

 強風吹き荒れる真夜中の図書館でクリノが見たのは、黒い大きな翼の生えた男が、ゆっくりと床に降りてくる所だった。

 男はわさわさと翼を羽ばたかせて黒い鳥の羽をまき散らし、ふう、と息をつくとその翼はするりと背中にしまわれるようにして消えた。

 靴こそ泥だらけであったが、立派な身なりをした背の高い男で、歳は三十代半ば程であろうか。紺の生地に金の紋様が入った美しいマントがゆらりと風を含んで揺れる。

 男は両手に大きな古い本を抱えており、ドサリとそれを机の上に置くと一冊ずつタイトルを見て、ぽいぽいと投げた。投げた本は重たい腹を抱えた鳥が無理をして飛ぶようにばさばさと表紙と背表紙で羽ばたき、それぞれ本棚へと消えていく。

 今度は泥だらけの靴で机にひょいと上がり、手招きをしながらすらりとした長い指を細かく動かすと、あちらこちらから沢山の本が男のもとへ飛んできて列を作っては積み重なっていった。

 一番上の本を手に取り、数ページめくる。図書館の暗さはまるで気にならない様子で、月の光はその彫りの深い愁いを帯びた顔だけを照らしていた。

 男はクリノを見向きもせずに言った。

「そこで何をしている」

 クリノは男に見入って当初の目的を忘れかけていたのだが、我に返って言った。

「その泥だらけの靴で、机の上に上がらないでください」

 男は返事をせずにページをめくっている。

「それに、閉館は二十時です」

「施設長代理の許可は得ている」

「前もって言っていただければ、入口の鍵を開けます」

「何時になるか、いつ来られるかはわからない」

「……でも、そんなに羽をばらまかないと入ってこられないのですか?」

 そこで男は初めて、その深い青い目でクリノを見た。

「君は……」

 男は何か別のことを言おうとして、その言葉を飲み込んだようだった。そしてクリノに尋ねた。

「父親の名は?」

「知りません。孤児です」

「名は」

「クリノです。成人後はクレイユノ・トマ・エーレイです」

「……エーレイ。サヘリア家の推薦でこの訓練施設に来たというのは、君か」

「はい」

 男はクリノの頭の毛の先からつま先まで眺め、

「で、どうだね?」

 と聞きながら、また手にした本に目を落とした。

「何がですか?」

「この施設へ来てしばらく経つのだろう」

「言われた仕事は、しっかりやっているつもりです」

「……それだけか」

「あの、あなたは、誰なんですか?」

 男は本を閉じてクリノを見た。

「幼くもない君に一切の無駄な時間はないはずだ。トラピスタリア人の君がこの訓練施設で暮らしていくために、この施設はそれなりの理由をもって、君に下級労働を命じたと聞くが」

「理由、ですか?」

 何も聞いていないクリノはぽかんとするしかない。

「残念だよ、クレイユノ・トマ・エーレイ。もっと貪欲に日々、時の意味を問うべきだ」

「教えて下さい、何かご存知なんですね? 確かに、日々この施設で過ごしながらも、この先、候補生になれるのか、魔術なんて使えるようになるのか、このままこの国で生きていけるのか、わからないことしかありません。ここまでの労働にどのような意味があったのか、教えて下さい」

「クレイユノ・トマ・エーレイ、こちらへ来たまえ」

 クリノが言われるままに男に近づくと、男はいきなりクリノの髪を数本ぶちりと引き抜いた。

「痛っ」

 驚くクリノを見もせずに、男はクリノの髪をつまんだ指を、指揮者のように宙でゆらゆらと動かした。

「この施設で君が何をしたのか、まずは私が知らねばならない」

 するとゆらゆら動かされた髪の先から、掃除するクリノの姿が浮かび上がった。独りでに動く箒やモップに突き飛ばされたり、強風に煽られながら高い屋根の上でゴミ取りをしていた時の姿が次々と映し出される。

「なるほど、施設中を掃除したならば、幼年科からこの施設にいる候補生と同じように、もう案内されずとも施設内を一人で歩き回れるだろう。候補生が、職員が、どのように日々過ごしているのかも知ることができたはずだ」

 男の言う通りクリノは今、誰よりも建物の細部まで知り尽くしている。掃除に明け暮れていた時に、実験室のひさしで巣作りに忙しかったメルアサシ鳥の雛が、飛翔の練習をしていること、その糞を避けて歩くコースまで熟知している。

 そして教官や事務職員たちの仕事場や、こっそりさぼって息抜きをしている場所、その場所の煙草の匂いやヤニの付き方、飲み物や食べ物ゴミによってその嗜好までもを知っている。

「さてその次は」

 男はまた予告もなく突然にクリノの髪を更に数本引き抜いた。

 そのやり方に文句を言いたい所であったが、いくつかの謎が解けるような好機の気配を感じて、クリノは黙っていた。

 先程と同じようにクリノの髪が宙で揺らされる。今度は厨房で働くクリノの姿が映し出された。街へ買い物へ出たり、実習に必要な道具を揃えたり、用具を修理に出したり……。

「なるほど、職員たちの小間使いだな。ならば、この国の通貨と物価について、それから君の国では認められていない魔術が人々の暮しにどのように関わっているか、更に商人、職人階級の者たちの暮らしぶりについても知ったはずだ」

 男の言う通り、トラピスタリアでは紙幣が主だったがラピナの通貨は「エルン」という単位であり、エルン金貨、銀貨、銅貨と、その価値も今はわかる。サヘリア家では知り得なかったことだった。

 教材や用具の修理を頼みに様々な店に入り、仕立屋のヨーギスが言っていたように、その職人や商人にとって大切なことは自分の手で、便利なことは魔術でと使い分けている姿をよく目にした。

 パズルのピースがきれいにはまるように、クリノの中で沢山のことが同時にすとん、と腑に落ちた。

「……今まで、僕にああしろこうしろと言う人は沢山いたのですが、行動の理由を教えてもらったのは、故郷を追われてから初めてです!」

 クリノは、感動していた。だが男は冷たい声で言う。

「現在の仕事は、それ程君に学習をもたらしていないようだ。おい、司書看板!」

 男が手を鳴らして呼ぶと、メリメリと壁から司書看板が生き物のように抜け出してきた。真っ黒な細い手足を生やし、えばり腐った態度で歩いて来る。

「司書看板、エーレイ君の仕事はどうだ」

 すると司書看板は思いっきり、クリノに向かって唾を吐き散らした。

「ぺぺぺっぺっ! この青白い針金のようなガキは全く、ひどいったらない。最低だよ、人間の中でも最低のガキだ!」

「どのように」

「三週間経っても、本の分類や正しい場所を覚えられもしない、そのくせ綺麗に片付けたと思い込んで自分の仕事に満足していやがる」

「分類が正しくないとは、どのように」

「こいつはな、ゲルガン草薬学書を、自然生物学の棚に毎日しまうんだ、それだけじゃないっ……」

 まだ話し続けようとする司書看板に向かって男が指をぴんっとはじくと、瞬く間に司書看板はもとの壁に吸い込まれて口も無理矢理閉じられた。

「君は、ゲルガン草がどのような魔術に使われるかを知らない、ということだな?」

「はい」

 顔にかかった唾を拭いながらクリノはうなずいた。

「魔術を使わぬ者に育てられたという、幼年科以前の問題か。なるほど」

 男はしばらく何かを考えていたようだが、突然何かを払いのけるように手を動かすと、男とクリノの周囲の机と椅子が壁際まで勝手に動いて、動き回れる程の場所が開けた。

「魔術は、学習と実践、あとは魔力の問題だ。ほう、良い物を持っている」

 男はクリノの胸のポケットからのぞいていたセルゲイの羽をすっと抜いた。

「アウスグスの羽か」

 そして羽の根本から先へ向かって丁寧になでつけるとクリノに返した。

「これに、君の魔力を増幅させるまじないをかけた。さて、君の故郷のトラピスタリアでは、じゃんけんはするか?」

「はい、しますけど」

「グーはチョキに勝つ、チョキはパーに勝つ、パーはグーに勝つ。さて、これをラピナ流にすると、次の四手になる。

 火を水で消す

 水が溢れたら土で流れを変える

 砂埃は風で吹き飛ばす

 風が強ければ火を放つ

覚えたか?」

 クリノが返事をする間もなく男がすっと、クリノの足下を指さすと、ズボンの裾がめらめらと燃え始めた。

「熱っ!」

「熱ければどうする。火は何で消す?」

「水! 水です!」

 ズボンはめらめらと燃え続けている。

「水を念じてアウスグスの羽を振りたまえ」

「水!」

 クリノが力一杯セルゲイの羽を振ると、どこからかザブン、と水が溢れ出てクリノを頭の上からずぶ濡れにした。火は、消えた。そして水もどこかへ消えた。

「上出来だ、エーレイ君。では次だ。水が溢れたら?」

 男が言い終えないうちに図書館の奥から、どうっと轟音が聞こえた。見ると、ものすごい勢いの水がクリノめがけて流れ込んで来る。

「つ、土で流れを!」

「変えたまえ」

「土!」

 無我夢中でセルゲイの羽を振り回すと、床がむくむくと盛り上がり、クリノの回りに土壁ができて、間一髪、水を防いだ。

「その土が君を襲ったらどうする」

 男がパン、と手を鳴らすとクリノの回りの土壁が崩れて細かい砂粒となり、クリノに向かってビシビシとぶつかってきた。目も口も開けられず、クリノは風を思ってセルゲイの羽を振る。

 その時、一瞬、ハクビの温かい鼻面がクリノの髪を食むほど側にあるように感じた。クリノが「風」と言葉にする前に体の回りで旋風が起り、砂粒を吹き消した。

「最後の一手は、今までと少し違って、攻めが防御と同化する。さあ、私に仕返しをしてみろ」

 男のマントが、髪が、風をはらみ揺らいでいる。

 理屈は理解できていた。男を火で囲んでしまえばよく燃えるだろう。しかしクリノはセルゲイの羽を振ることができなかった。

「どうした。攻めは苦手か。では守ってみろ」

 男が左手の小指をくい、と動かした瞬間、クリノは全身を殴られたような衝撃を受けて床に倒れた。

「随分手加減したつもりだが、守らないと死ぬぞ」

 男がクリノに向かってやんわりと手のひらを広げ、伸ばす。倒れた体を上からものすごい風圧で押さえ込まれた。息ができなくなり、気が遠くなる。

 男は、これをラピナ流のじゃんけんだと言った。じゃんけんで相手を燃やすことには抵抗があったが、たかがじゃんけんで死んでたまるかと思う。クリノは必死で、わずかに羽を振った。

 クリノの指が動くのを見て男は瞬時に風を弱めた。

 刹那、セルゲイの羽の先から、チロチロと、弱々しい火が上がり、細い筋となって男に伸びていったが、ぷすりと小さな音を立てて消えた。

「……得手、不得手は誰にでもある。気にするな。発動はした。

 さて、君が自然生物学の棚にしまっていたゲルガン草薬学書だが、今後は君が苦手な火魔術術の棚にしまいたまえ。ゲルガン草は、火術を増幅させるまじない薬にしか使わない」

 クリノはようやく立ち上がった。殺されかけていたというのに、この少年は今、初めて魔術を使ったということにのぼせていた。

「それから、その羽はこの先もっと大切な時に使うように。もう一度貸しなさい、まじないは解いておく」

 男はクリノからセルゲイの羽を受け取ると、片手をゆっくり、羽を丸く包むように回した。

 羽はセルゲイが生きていた時のように艶を取り戻し、小さな、濃く青い宝石のついたブローチとなった。

 返されたブローチにクリノが見入っていると男は言った。

「エーレイ君、明日は空いているね。今のラピナ流じゃんけん大会が開かれる予定だ。君と同世代で熟練者たちの大会だから勉強になるだろう。武術館へ見学に来なさい。必ず」

 そう言うと男はバサリと真っ黒な大きな翼を広げ、羽ばたいたと思った時にはもう、クリノの前から消えていた。

 自分に初めて魔術の使い方を教えてくれた男に感謝を述べる間もなかった。一体男が誰だったのか、名を聞くこともできなかった。

 そして、この夜、クリノはすっかりのぼせており、ハクビに言われた言葉をすっかり忘れていた。

「クレイユノ、お前は人間に気をつけろ」

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