星聴の話
第十三章 弟子による考察
黒猫の爪がクリノの腕に突き刺さっている。
「痛いって! 施設長代理、爪を引っ込めて!」
フウフウと興奮する黒猫をクリノは着ていたガウンの裾でくるりと丸めて包んでしまった。
「何かと思えば猫股か」
ハクビが空を駆けながらちらりとクリノの手元を見て言う。
「猫だけど、施設長代理なんだよ」
閃燿の城から離れると言って、ユニコのハクビと水竜ギンビはすさまじい速さで雲を切り飛翔している。その後ろを黒い羽蟻の群れ、グノムスもついて来ていた。空の風は冷たく、ガウンを着ていても寒さで震えが止まらない。
そのうち震えでハクビから転がり落ちてしまうのではないかと思った時ハクビが止まった。
「ギンビがお前に別れを言いたいと」
「ギンビはどこへ行くんだい」
「カルヤンを連れて富炎山脈へ」
「ギンビは炎の山の近くに行っても大丈夫なのか?」
「水と火は互いを消しあったりしない。水は火がなければ星を巡ることは出来ない。火は水がなければ己を焼き尽くして星が終わる」
ハクビが、停止飛行しているギンビへゆっくり近づく。
「ギンビ、大きくなったね。試合の時助けてくれたね。ありがとう」
大きな顔の頬の鱗に触れると、そこから虹色の輝きがギンビの全身にきらきらと波紋のように広がっていった。
ギンビの嬉しそうに吼える声が空に響く。まさしくドラゴンの咆吼であったが、その中からしっかりと、
「くれいゆの、ぎんび、ソバニ、イル」
と、クリノにはギンビの言葉が届いていた。
「私を忘れてもらっては困る、クレイユノ」
「あ、小刀。忘れてた」
ギンビの脚につかまっていた小刀の精霊は、その姿を緑色の光に変えて流れ、クリノの手の中で再び小刀の形に収まった。
ギンビは軽々と火の霊カルヤンを放り投げてその背にころりと乗せ直したが、青い日熊はすうすうと眠り続けている。
「ギンビ、カルヤンを叩き起せよ。クレイユノに礼をしろと」
「礼なんていらないよ。寝かせておいてあげよう」
人間の身勝手な五百年の使役から解放されたのだ。生まれ変わる前にせめてゆっくり休ませてやりたかった。
ギンビは富炎山脈を目指し、大きな翼をはためかせ、銀の尾をゆうらりゆらりと手を振るようにして飛び去っていった。
クリノは羽蟻の群れに向かって礼を言う。
「グノムス、ウルファで助けてくれたのは、グノムスだね。ありがとう。あの壁がなかったらあの術は使えなかった」
うわんうわんと羽蟻はハクビの回りを螺旋を描いて飛び回り、一瞬のその形を人間の女の姿にしたが、すぐにぱっとちりぢりになって地へと降りていった。
「ハクビも、試合の時いてくれたね。ありがとう」
「うるさいな。何度も人間に吹っ飛ばされるお前の未来が見えていたんだ。気をつけろと言ったのに。うん? クレイユノお前、震えているぞどうしたんだ」
「うん、寒いんだ、一回どこかへ降りてくれるか」
「なんだ、早く言え」
ハクビは風が冷たくなりすぎないようゆっくりと人気のない場所を探し、森の中へと降りた。
森で小枝を集めて火を焚いた。焦げそうなほど近づいてしばらくすると、ようやく震えが治まってくる。
「ハクビもずいぶん大きくなったんだな」
「当たり前だ。俺は風の霊司だぞ」
ハクビは出会った時の子馬ではなく、立派な若駒になっていた。体もたくましく角も長く立派になっている。
黒猫が尻尾をぱたりぱたりとさせて言った。
「クレイユノ」
「あ、はい、施設長代理」
「……それは、いつから気づいていたのですか?」
「ああ、ええと、施設長代理の本当の姿にですか? いつからでしょう。あまりおぼえていません」
黒猫は少し不満げであった。だがフッと息を吐いてから言った。
「あなたが閃燿の城にいることはセルゲイ様に聞いていました。でも、私が城へ行ったことをセルゲイ様は知りません」
「人間の主に秘密で精霊が動くのか、おもしろい」
「ハクビちょっと黙ってて。施設長代理の話を聞かせてくれよ」
「クレイユノ、セルゲイ様のもとへ戻ってほしいのです」
「そのつもりです」
黒猫は目を丸くした。
「光暁の賢者の弟子になったのかと」
「いいえ。まずは、破門された理由をうかがいに行きたいのです。その、沢山あるとは思いますが、一応」
「破門? セルゲイ様はあなたを破門になどしていません。あなたを案じてウルファ平原へ様子を見に行かれました。その後あなたを救うために閃燿の城へ連れて行った、それだけです」
レリディアの偽りであったかと合点がいった。しかしあの城での孤独な二十年を思うと責める気持ちにはならなかった。
「セルゲイ様は、ひどい魔傷を負っています」
「怪我をされているのですか」
黒猫は困ったように頷いた。
「とても悪い状態です。しかし、大四司の命令をこなすだけでなく、ご自身でも何かを調べていて、体を休めようとしません」
「どうしてそんな状態に?」
「閃燿の城は、光魔術の本拠地です。レリディア・レビオルはセルゲイ様と違って城を確かな基点として行動するため、結界が最も強い場所となっています。セルゲイ様はご自身の結界を意図的に弱めて、閃燿の城に近づいたのでしょう」
サミの高熱とひどい咳を思い出す。
「……ねえ、ハクビ」
「わかったよ。カルヤラのヴァレリアンだな。お前のためなら俺は馬車馬になる」
「ありがとう、でもその前に、森へ降りてくれて良かった」
クリノは薬草を探した。この国の医学、薬学が光暁の賢者と大四司だけのものである以上、闇夜の賢者であってもまともな薬を与えられはしないだろう。治療を行えるのは自分だけだと思った。
熱を下げるモナモミだけでなく、咳を鎮めるマルベリの木の根、シブキの葉。魔傷とはどのようなものなのかわからないのでできる限りの種類の草木を集めた。
冬に入っていたので落ち葉の中もひっくり返してまだ腐っていないものを拾い、腕いっぱいに抱える程の薬草を羽織っていたガウンでくるんでからはたと気づく。それはハクビも気づいたようだった。
「おまえ、空の上で寒くて震えていたのにどうする気だ」
「……我慢するよ」
困っているクリノを見てハクビはふふんと笑った。
「仕方がない、本当に馬車馬のように地を駆けてやる。空の上よりまだましだろう。俺はこの姿だと目立つから黒馬にでもなろう。人間の目があるから全力で駆ける訳にいかないが」
そう言うとハクビはたちまちその姿を黒馬に変えて、角も消してしまった。
つややかな黒馬に乗ったクリノと黒猫はその日のうちにカルヤラへ着いた。
夜中、ヴァレリアンの裏庭まで来て、ハクビはクリノと黒猫を降ろした。
「クレイユノ、お前はまだまだ人間に気をつけろ。我等、四霊司はお前の側にいる」
温かい鼻面を撫でると、嬉しそうにクリノの髪をやさしく噛み、飛跳ね、まやかしを解いた真っ白な姿で空へと駆け上がっていった。
黒猫の案内で初めてセルゲイの寝室へそっと入ったクリノは、「とても悪い状態」を理解した。
常にきちんと身なりが整っていた師が、ひどい格好をしていた。寝間着のボタンは取れて胸がはだけ、ガウンの紐は垂れ下がり、髪を振り乱している。部屋の中は足の踏場もないほどに本が散らかっていた。クリノと黒猫が部屋に入ってきたことも気づかず、あちらの本、放り投げてはこちらの本と読みあさり、読みながら部屋を歩き回っている。
クリノは無礼だとは思ったが、気づかれないうちに師の体の様子を観察した。
サミと同じように、高熱を発している。咳もひどい。手足や首筋、はだけた寝間着から見える胸元、師の彫りの深い顔にも、切り傷があり膿んでいる。
気づかれないままそっと部屋を出て、黒猫にどこか使っていない部屋を貸して欲しいと頼んだ。学生や職員に気づかれぬ夜の間にいくつか薬を作ってしまいたかった。
まず必要と思われる数種の薬を急いで作る。サミの時もそうだったが、煎じる、煮出す、すりつぶす、これには魔術はとても便利だった。普通は時間をかけて干して乾燥させなくてはならない物も、魔術を使えばあっという間だ。
でき上がった薬とティーセットを持って、再びこっそりセルゲイの寝室を訪れる。
師の様子は相変わらずでクリノに気づく様子もなかったので、当たり前のように声をかけてみる。
「お茶が入りました」
「そこに置いておけ!」
「はい、でも冷めてしまいますから一口どうぞ」
ティーカップを後ろからセルゲイに持たせると、無意識のうちにセルゲイは一口飲んだ。本を読みながら更に一口。そして、ばたりと倒れた。
黒猫は目を丸くした。
「クレイユノ、セルゲイ様が!」
「大丈夫、睡眠鎮静薬を盛ったんだ。でないと寝てくれそうにないからさ。クロノブトナツメの種を見つけておいてよかった」
ベッドにも山積みになっていた本をどかし、意識のないセルゲイを寝かせ、抗炎症薬と化膿止めを丁寧に一つ一つの傷に塗っていく。
結界から遠く離れ時間が経っても体がこの状態である。闇の賢者が光暁の賢者の結界に入るとはどれだけ大ごとだったのか手当をしながらクリノは理解した。
そして、そうしてまで自分を救ってくれた想いに時々、涙を拭った。
セルゲイの熱はなかなか下がらなかった。小さじで少しずつ解熱薬と軽い睡眠薬を飲ませ、傷の消毒も続ける。
魔法傷を治療する知識のない自分が情けない。そしてこの国の医療制度が恨めしい。
クリノはセルゲイの部屋から出ることなく看病を続けた。薬の材料が足りなくなりそうになると黒猫に頼んで同じものを森から調達してもらった。
黒猫から、料理長に滋養のあるスープやおかゆなどの病人食を作るよう伝えてもらう。自分が帰ってきていることを伝えられずにもどかしかったが、スープにはなぜか、病人にはとても食べられないローストビーフやカツレツのサンドイッチ、色とりどりのツァツァが添えられていた。
セルゲイに無理矢理スープを飲ませるのは施設長代理に頼み、その間はベッドの裏に隠れていた。自分の姿を見せて、驚かせてはいけないと思ったのだ。
数日経ってセルゲイの熱が下がり始め、傷がやっとのことで乾き始めた。少し安心してセルゲイのベッドの側でうつらうつらとしていた時、師に呼ばれた。
「クレイユノ、いつから、ここにいた」
ようやく名を呼んでもらえたのが嬉しかった。
「……いつだったでしょうか。あまりおぼえていません」
「お前は時々、大切なことを、簡単に忘れる」
「そうかもしれません」
「残念だが、父親譲りだ」
師が少し笑ったような気がした。
師の熱がすっかり下がってから、クリノは精霊結界を破って火の霊カルヤンを放ち、閃燿の城の輝きを失わせ、救ってくれたレリディアの申し出を断ったあげくに城を飛び出してきたと打ち明けた。
話を聞いてセルゲイは額に手を当てしばらくうつむいていた。本当に破門されるのではないかとクリノは心配していたのだが、セルゲイは肩を揺らせて、必死で笑いをこらえていたのだった。そしてこう言った。
「レリディアに感謝しろ。私もお前も大四司によって捕らわれることなくここにいるということは、レリディアがお前をかばってくれているからだ」
師の看病で考えが及ばなかったが、クリノが城を飛び出してこの国の中で向かう場所は限られている。レリディアにとってそれを追うのは簡単だったはずだ。
「五百年の大四司長寿の歴史を打ち壊したか。お前は本当に破壊の使になってしまったではないか」
この時、セルゲイの言葉は、まだ冗談の域であった。
「……師匠、私は、政治の難しいことはわからないのですが」
クリノの言葉を、師は遮った。
「難しいことを、わからないと言い訳するのはやめなさい。難しいと感じるのは恥ずべきことではない。難しくても学ぶ意思があれば理解できるはずだ。お前の質疑に応じるのは私の楽しみでもある。お前がわかるように言葉を探そう」
「はい。師匠、ありがとうございます。
まず、魔術を持たぬ貧しい国に、ラピナが侵攻する意味がわかりません。ウルファ平原の状態が二百年続いたということは、光魔術でも一度にたくさんの命を他の体に取り込むのは難しいんじゃないかって思います。
ラピナ人こそ破壊の使となってしまうだけなのに、大四司はなぜトラピスタリアに侵攻したいのでしょう」
「狙いはトラピスタリアではない。トラピスタリアの東隣国、ティクリートへの牽制だ。だが、この時期の侵攻には他にも理由がある。
ラピナ国民の好戦的な感情が高まりすぎているのだ。魔術界転換期の終末を迎えているせいで、人々は今ならこの国はどんなことも成し遂げられる、それが新たな千年を豊かにすると信じている。
それと、ここしばらく続いた天候不順や、凶作に対する大四司の無力さへの批判が高まっているせいもある。
転換期の終末に、二百年ただ防戦を続けるだけだったトラピスタリアへ侵攻し圧勝することで、国の権威に転化させようという、要するにごまかしの政治だ」
師は、祖国との戦争に悩む弟子のために、天変地異のような災害はクリノが負傷したことに怒ったユニコ、ゴリニチ、グノムスのせいであることは黙っておいてやった。
「いくつかの森に入って気づいたのですが、ラピナの土壌はトラピスタリアよりも豊かです。色んな薬草がすぐ見つかるんです。たぶん森だけじゃなく、農作物も良く育つはずです。魔術による職人の工芸品だって他国から求められているから、貿易による利益も、これといった産業がないトラピスタリアよりずっと大きいはず。
ラピナが、攻め入っても利益のないトラピスタリアを通り越して、先にティクリートと直接交渉することはないのですか?」
「ティクリートはラピナと同じくらい豊かな国だ。その方法や理論は違うらしいが、やはり魔術国家だ。おそらく同じように転換期や終末思想があるはずなのでティクリートの対トラピスタリア政策の変化も、そのせいだろう。
ティクリートとラピナは直接国交がない。今は緊張状態が続いているから、どちらかがトラピスタリアに侵攻でもしないと、交渉は開かれないだろう」
ラピナも、ティクリートも、魔術界の転換期のせいで戦争をしたがっている。国民が魔術界とは遠いトラピスタリアは板ばさみの上に餌食となっている。
「……千年前も、やはりこの辺りの国同士は戦争をしていたのでしょうか。破壊の使の退治で忙しいのに、戦争なんてしてる暇、あったんでしょうか」
高熱をおしてセルゲイが調べていたのも千年前の転換期と破壊の使についてだった。しかしまともな文献が残っておらず、わずかな言い伝えをもとに書かれた大まかなことしかわからない。
「クレイユノ、ラピナ魔術創史は覚えているか」
「いいえ」
ラピナでは子供でもそらんじるが、クリノはこれまで覚える暇もなかった。
「転換期の言い伝えのもととなったのが『ラピナ魔術創史』だ。だがその内容の一部しか一般的には伝わっていない。
『一年(ひととせ)の暦が千年(ちとせ)重なり、一つの暦は終りゆく。
魔術界の新たな千年に星歓び、清き風吹き、水豊かに流れ、火に温もりし大地より命新たに再び生まれる。
転換期を経て星の上、全て繋がり流れゆく。
揺るぎなき大四司と二賢に星は新たな千年、更なる豊穣を約束す』
歴史書や教科書にも転換期についてはこの部分だけが載っている。
しかし、大四司と二賢者、そして一部の国の有力者に代々伝えられる本当の文書はこうだ。
『一年(ひととせ)の暦が千年(ちとせ)重なり、一つの暦は終りゆく。
魔術界における新たな千年に星歓び、清き風吹き、水豊かに流れ、火に温もりし大地より命再び生まれる。
転換期を経て星の上、全て繋がり流れゆく。
邪悪な魔霊によりその流れ滞り、星、災いの転換期を迎える。
魔術界と異界の狭間に児(こ)が生まれ出づ。
児、邪悪な魔霊の声を聴き、破壊使となる。
滞り破られし土地にて人の光と闇、そして大四司、手を結び共に破壊使を撃つ。
揺るぎなき大四司と二賢に星は新たな千年、更なる豊穣を約束す』
終末を迎えるだけでなく、破壊の使を撃つことで新たな千年が豊穣になる。そう伝わっているために、大四司はずっと私に破壊の使についての探索を命じていた。しかし撃つべき使とは何なのか答えは未だに見つかっていない」
クリノは師に教わった魔術創史を自分の手で書き出したみた。そして一般的に伝わるものと、大四司と二賢者、国の有力者に伝わるもの両方を比べてみる。
ラピナの人々にとっては当たり前の創史だが、異国生まれのクリノには違和感があった。
「千年前の時は、光暁の賢者と闇夜の賢者はどうやって手をつないだのでしょうか」
「『手を結び』か。協力する、という意味だろう」
「でも『共に破壊使を撃つ』には、一緒にその場にいなくてはなりません」
「どちらの魔力が落ちていたか、どちらかが瀕死の重症で既に結界が壊れていた可能性があるな」
「そうすると、そのどちらかは破壊の使を全力で撃つことはできなかった……そうするとやっぱり『共に破壊使を撃つ』って、変な気がするんです。それに、『人の光と闇、そして大四司』っていうのも変です。大四司だって人間なのに。そういえばハクビはいつも自分たちのことを『四霊司』って言います。大四司じゃなくてここが四霊司だと、人間の賢者二人と、ユニコ、ゴリニチ、グノムス、カルヤンが協力し合う感じでわかりやすいのに。師匠、このラピナ魔術創史は、いつ書かれたのですか?」
「古代ラピニエル語で書かれたのは約千年前と言われるが、その原文は残っていない。五百年前に現ラピナ語で書かれたものが今に伝わる」
「一般的に伝わるものが省略されたのはいつですか?」
「同じ五百年ほど前ではないかと思うが」
「うーん、私には偉い人に伝わる文書の方が、後から書かれたように感じられるんです」
「混乱を招かぬよう災いについて秘めるため、民に広める創史が短くされたと言われるが」
「そうでしょうか……だって大きな災いが起きた時、それが繰り返されないように人は後の人々へ、それもできる限り多くの人へ伝えようとするのではないでしょうか。それこそ、偉い人たちじゃなくて民が自分たちでそうすると思います。でもこの災いが民の間に伝わっていないのなら、その災いは本当に起きたのかと疑問に感じるんです。
トラピスタリアの薬草学にそういう災いの伝承がいくつかありました。災害や天候不順が酷かった時、どういう植物が少なくなってどんなもので代用できるかとか、流行り病がいつどんな風に広がったのかという書物です。どれも国の偉い人が書いたのではなく、ごく普通の薬師や医者の記録でした。
国の偉い人たちよりも、子供や孫、そのまた子供に同じような辛い思いをさせたくないっていう気持ちは民の方が強いと思います」
弟子の言うことは素朴な言葉であるが、人間が後世に残す文書とそれにおける役割の、核心を突いていた。
「災いではない何か別のことが書いてあったのなら、順番に納得できるんです。その別のことをたくさんの人に知らせたくなくて、短くして伝え広めたんだったら」
「その、たくさんの人に知らせたくないこととは、何だと思う」
「……この国のちょっと意地悪な特性からすると、知っていると良いことだと思います。光魔術の知識のように」
「五百年前に創史が書かれた時、それを改ざんすることで利益を独占する者がいたと?」
この国でそれが出来るのは大四司の他にいない。
危ういと思ったが、セルゲイは無邪気な弟子の考察を止めるまいと自身に言い聞かせた。
「ねえ師匠、火の霊カルヤンが捕えられたのも五百年前です。光魔術の知識が大四司のためだけに城に閉ざされたのも、その頃なのでしょうか」
「光魔術と闇魔術は太古から秘術とされているが、ラピナが禁忌としたのはその頃だ」
「ああ、やっぱりカルヤンを叩き起してもらってその頃のことを聞けばよかったです。もう生まれ変わってしまったかなあ。師匠、五百年前から変わらずにあり続けているものって、閃燿の城の他にはどんなものですか?」
「この首都カルヤラだ。五百年前、南部のリーゲンにあった首都をこの地とした。最初に築かれた大四司議会堂と大四司尖塔、陰影の城も同じ頃だな」
「遷都の理由は何だったのでしょう」
「幼年課の教本にはこうある。
名前のない土地があった。名前のない土地には魔呼びの力を秘めたワガン湖があった。
火の司はその湖にカルヤンを呼び寄せて捕らえた。古代ラピニエル語で捕らえるは『ラーヌ』。名のない土地は、カルヤラと名づけられた。
時の大四司は幸運と恩恵の地カルヤラを新しい首都とした」
「魔呼びって、一般的な魔術ですか?」
「いや、最高位精霊のカルヤンを捕らえるとなれば相当な魔力が必要だ。特別に魔力が強い場所であっても、人が行う場合には大四司か賢者の域でなければ無理だろう」
クリノが「魔呼び」という言葉を耳にしたのは二度目である。
一度目はハクビから。ハクビが見つけた魔呼びの玉石はサミが祖母から受け継いだと言ってクリノに渡したものであった。
「玉に閉じ込めれたグノムスが、本当にサミが御祖母様から受け継いだかは怪しいけど、ともかくサヘリア家にあったということは、グノムスとギンビは僕が森に行くまで、一緒にサヘリア家にいた……精霊って、水が好きなのかな……待てよ、水?」
「どうした」
「ワガンっていう湖、今のカルヤラのどこに当たるのでしょう」
「さて。五百年前の地理を調べる術があるかどうか」
「あの、サヘリア家の館近くか、その場所ではないでしょうか」
「なるほど、水か。あの家の水は確かに魔力が強い」
「サヘリア家って、長くあそこにいるのですか?」
「貴族の中で最古参の一族だ」
「あの館を造った人は、ラピナ魔術創史の偉い人達用の方を知っていたでしょうか」
「遷都前から貴族議会でも大きな権力を持つ。知るには十分な有力者だ」
「でも……でも、だめだ。だめだ僕やっぱりわかりません」
それまで物事を一つずつ丁寧につなげようとしていた弟子が突然お手上げと言わんばかりに天井を見上げたので、師は苦笑とともに問いただした。
「クレイユノ、何がわからないのか私にきちんと話しなさい」
「ああ、すみません。
ええと、創史の『大四司』が『四霊司』だったらすっきりするって思ったので、書き換えられた良いことは四霊司に関わることなのかもしれないと思いました。魔術師はみんな魔力の強い精霊を欲しがるみたいだから、捕まえる秘訣とか、捕まえやすい場所とかが書いてあったのかもしれないって。
でも、五百年も前に、ただあいつらを捕まえるためだけに都を移動させたり、湖を館に造り変えたりするなんて、そんなのおかしいです。もっと違うことだった……でも魔術にあんまり詳しくない僕にはわかりそうにないなって」
セルゲイは、ひたすら質問するだけだった以前と違い、得た情報を元に必死で考察を重ねる弟子はずいぶんと頼もしくなったと思う。だがまだ、「私」の中に「僕」が出てきてしまうあたりは成長過程の現れであろうか。苦笑しながらセルゲイはもう一度たずねた。
「クレイユノ、お前はこの魔術国家をどう思う」
「おかしな国だと思います。魔術はとても便利だし、暮らしの助けになる術なのに、戦争で人を殺すために使うなんて。そのための教育に力を入れてるなんて。それなのに熱を出したらトカゲの尻尾の酒を飲まされる」
「今、トラピスタリアをどう思う」
「うーん、やっぱりおかしな国だと思います。とても便利な魔術を禁じているのに、それを使う国に頼って、誰かが長生きしている。そのために沢山の罪もない人々が焼かれるなんて」
「両方のおかしさがわかるのは、今両国でお前一人かもしれんな。だが、お前も大概におかしな奴だぞ」
「そうですか? そんなことないと思いますけど」
「まあ聞け。私はこの魔術国家に生まれて育ち賢者の地位まで昇ったが、ただの一度もこの目で最高位精霊を見たことはない」
「え?」
「お前の言う、ハクビやギンビ、グノムスもカルヤンも、私は見たことがない。おそらく私だけではない。この国の、いや、魔術を使う者のほとんどが一生その目にすることはない」
「本当ですか?」
「レリディアはその背を見送っただけなのだろう? 同時に居合わせ全てと言葉を交わしたのはおそらく、この世でお前一人だ」
魔術を使い始める前からハクビやギンビと触れあい、グノムスを見た。カルヤンの毛を撫でてあたたかいと思い言葉を交わした。
それはどうやらひどく稀有なことらしい。クリノは驚いて目を丸くしたままだった。
「さて、おかしな我が弟子よ。お前からすると世界は今、おかしなことになっている。だがおそらく五百年前の人々もお前をおかしな奴だと思うだろう。そのお前がおかしいと思うことは、本当におかしなことだろうか?」
「ああ師匠、ちょっと……」
何がおかしなことで、何がおかしくないことなのか。クリノは軽くめまいを覚えた。
「クレイユノ、落ち着いて物事を考えるために、お茶を一服入れてくれ」
熱が下がったばかりの師を質問攻めにしてしゃべらせ続けてしまったと、クリノは飛び上がってお茶を入れるための湯を沸かした。
この師弟が、共にゆっくりとお茶を飲むのは初めてである。
セルゲイの顔色は大分良く、寝巻きの上にきちんとガウンを着てカウチに座る。暖炉の火はやわらかく部屋をあたためていた。
クリノは暖炉の側の床に座り込んで、お茶と一緒に料理長が食事と一緒に届けてくれたツァツァを口の放り込んでいる。
セルゲイはこのような時間を再び他者と過ごすとは、この弟子に出会うまで思いもしなかった。
孤独のうちに賢者の役目を果たし、力になれなかった友人と加担した戦火に懺悔しながら死を待つようにして生きるのだと思っていた。
弟子は本人の知らぬ間に、国家の危険な領域へ踏み込もうとしている。それはかつての友の姿を思い起こさせる。
その弟子が、ため息をつく。
「レリディア様に破壊の使について聞いた時、私は自分が破壊の使かもしれないと思いました。でも、私に破壊できることなんて何もありません。
破壊できるなら、ラピナの医学や薬学を民に隠して他の国に攻め込むような国の在り方や、トラピスタリアの何もできないのに魔道師狩りなんてやってる馬鹿さ加減とか、そういうものを全部破壊してしまうのに」
友の思想を危険だと思ったのは、セルゲイが十六歳の時だった。二十年の時が経ち、今の自分に何ができるかと考える。
知識を得た。立場と名誉も得た。トリエルとレリディアを失い輪をかけて人嫌いになった自分が、弟子を得た。
全力で導いてやろうと、セルゲイは思う。危険な思想であると決めつけず、自分よりも本質を見抜く力を持った弟子の助けになるために、二十年の時を過ごしたのだと思う。
この弟子が危険な道を選んだ時は、自分の立場をもって守ってやればいい。
友によく似たくるりとした癖っ毛を眺めながら、セルゲイは弟子の導き出す答えを楽しみにしていた。
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