第十四章 遺された言葉

 闇夜の賢者セルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフと、ヴァレリアン施設長代理が、サヘリア家を訪れている。

 正しくは、写し身の術でセルゲイの姿になったクリノと、初めて写し身の術を使って街へ出るクリノが一人では心許ないと、セルゲイに付き添いを命じられた黒猫である。

 命じられた時、黒猫は言った。

「アミ・サヘリアのような者に、クレイユノの泥縄術が見破れないはずがありません」

「いいのだ。アミ・サヘリアはクレイユノはウルファで戦死したと聞いているだろうから生存を喜ぶだろう」

 発端はクリノの疑問だった。

「師匠、光魔術は、医学や薬学などの人を癒やすための学問と魔術の合わせ技という考えで合っていますか?」

「おおよそ合っている」

「では、闇魔術とは」

「その逆だ。さまざまな方法で他を攻撃するための学問と魔術の合わせだ。だがお前にはわかるだろう、光は転じて闇になる。お前が私に睡眠薬を盛ったように毒を盛ってしまえば光魔術は強力な攻撃となる」

「あのう……怒って、いらっしゃいます?」

「怒ってはいないが覚えておこうと思う」

「もう盛ったりしません、たぶん。ええと、何だっけ。そうだ光魔術と闇魔術はどこで学べるのですか?」

「前任の賢者から直接指導される」

「方法はそれだけですか?」

「あやふやな記述の書物は出回っているが」

「サヘリア家でお世話になっていた時、紫橘むらさきたちばなの薬湯を飲みました。あれは、あやふやなものなどではなく根の皮をきちんと煎じてあって、苦さを消して飲みやすいよう丁寧に処方されていました。

 それと、サミは闇魔術を使うので、レリディア様が基地に来た時に高熱を出したんです。あやふやな闇魔術では、光の防御結界はあそこまで攻撃的にならないと思うんです。サヘリア家には光魔術と闇魔術が少しだけ伝わっているのではないでしょうか」

「ほう、面白い。お前とサヘリア家のつながりは強い。私も面識がある。お前にとっておかしなこの国の謎が解けるかもしれん。直接聞いて来い。ただし、その姿のまま街へ出てはならん」

 クリノとて突然教え込まれた写し身の術を使いこなせる自信はない。姿形はセルゲイであっても、セルゲイを演じる自信がまるでない。

 テーブルを挟んでアミが微笑む。セルゲイの姿のクリノもぎこちなく微笑み返す。黒猫はその隣で黒髪の女の姿でそっぽを向いている。

 アミは一目でこれがクリノであると見破っていたが、施設長代理が共に来ていたためセルゲイの差し金であると気づいていた。

「それで賢者様、今日はどのようなご用件でしょうか」

「うむ、私の弟子クレイユノが不思議なことを言っていた。その、軍に入る前に言っていたのだ」

「はい」

「ここで、不思議なお茶のようなものを飲んだと」

「クリノは我が家で何種類かのお茶を飲んでいますが、そのうちのどれが不思議だったのでしょう」

「目覚めたばかりの時に飲んだのが、体が温まる不思議なお茶だったと」

「ああ、あれはマロウが教えてくれたのです。入軍してすぐの頃ですね。外国のお茶だと言っていました。体は温まりますがあまり味はよくありませんので、病気の後など体が弱っている時だけですけれど」

「どこの国のお茶なのでしょう?」

「どこでしたでしょうか、北の方だったと思いますが……マロウの日記にあるかもしれません。お読みになりますか?」

「よいのですか?」

「ええ。賢者様のお役に立てるのなら、マロウも喜びます」

「是非お願いします!」

 声がクリノに戻ってしまっており、黒猫はそっぽを向いたまま眉間に皺を寄せていた。

 初めて入るマロウの部屋はきれいに掃除されていたが、生前の状態がそのまま残されているのがよくわかった。

 ペンはインク壺の隣に。

 読みかけと思われる本はしおりを挟んだまま机の上に。

 おそらくアミも、サミとサウも、この静かすぎる部屋で長い時間を費やしただろう。

 ――キミハ、タスカル、サア、イクンダ

 そう伝えてくれたマロウの手の感触をまだはっきりと覚えている。胸が苦しかったが、マロウに助けられた自分にできることを探すためにここへ来たのだと、クリノは一人、日記の表紙をめくる。

 その一冊はちょうど軍に入った頃から始まっていた。


「○月×日

 いよいよ明日、入軍だ。

 クパピルハールツムビで勝つためだった術を、これからは国のために使えるようになる。

 こんなに嬉しいことはない、父上、母上も喜んでくれている。

 特待枠に入れたことは今後の自信につながる。チーム全員が無事入軍できたのも主将として誇らしい」


 カティスリーたちと同じように、マロウは軍へ入ることを夢見てクパピルハールツムビを勝ち抜き、希望に溢れ、軍に入っている。

 ウルファ平原でクリノと同じように楽しい日々を過ごした様子も綴られていた。だが、実戦を目にしてからの内容は一変する。


「○月×日

 深夜。配置につけとの合図。訓練だと思っていたが教官に実戦だと言われる。

 その時心が躍った自分を、今、恥じている。

 人々が泣き叫び、ただ焼かれていく姿が頭から離れない。

 望遠術を使って焼かれる人々を見たのは自分だけのようだ。あまりにも凄惨な光景で、皆に望遠術を使えと強いることができなかった。

 想像していた戦場とあまりにも違う。敵とは一体、何か」


「○月×日

 昨晩の虐殺について、仲間と意見が合わない。

 あの光景を見ていなければわからないのは仕方がないが、皆、見ようとは思わないと言う。

 それは本当に軍人として生きていくためになるのだろうか。

 見るべきだと主張するが、理解されない」


「○月×日

 敵国トラピスタリアはグラスタール聖教を国教とし魔術を禁じている。たったそれだけしか、自分は知らない。

 なぜろくな装備もさせず、訓練も受けていない人々を、戦場に送ってくるのか。

 自国の兵が殺されるだけの戦争がトラピスタリアにとってどのような意味があるのか。どうしてもわからない。

 敵国民だから、それだけの理由で無力な人々を殺さねばならない。

 軍人になどならなければよかった」


 マロウの思考は行詰り始める。答の見えない葛藤の中に、クリノは父の名前を見つけて驚いた。

 マロウがトリエル・ティ・ラナイの軌跡を追い始めたのだ。

 

「○月×日

 敵国トラピスタリアを知りたい。行ってみたい。魔術を使わぬ人々の暮しを見てみたい。

 平原を飛翔魔術で越えればどうだろうか。空から眺めるだけでも何かわかるかもしれない。

 ここウルファで失踪したトリエル・ティ・ラナイを思い出した。二十年も前の人物だが、もしかすると自分と同じように疑問を感じ、あの国を見てみたいと思ったのではないだろうか。

 ラナイは、自分と同じ何かを感じてトラピスタリアに行ったのではないだろうか」


 クリノは一人、呟いた。

「ごめんなさいマロウ様。父は、母に惚れただけなんです」


「○月×日

 地形が見渡しやすく、哨兵に見つかりやすい。平原全体にまやかし術をかけて、飛翔して越えるのは難しそうだ。

 平原を越えるのが難しければ、高度を上げてベダリウ山を越えるルートはどうだろう。

 黒牙森にはどのような魔物がいるのかわからないので、高度を上げても危険に思う。ティクリートの兵に出くわさないとも限らない。

 明日、ウルファの訓練基地を離れる。次の赴任地は決まっていないが一時帰宅の許可が出た。

 カルヤラでベダリウ山の地形と国境、トリエル・ティ・ラナイについて調べてみようと思う」


 カルヤラに戻ったマロウは、ヴァレリアンの図書館を訪れていた。


「○月×日

 帰宅。家族、皆健在。だがサミの様子が気になる。

 ヴァレリアンの図書館を訪れる。軍幹部候補生の時に何度か来たが、施設長が替わってからは初めて。

 本棚の配置が変わっていた。本棚そのものが魔術陣になっていて、人がその間を動くと陣に力が加わり、図書館全体が学習効果を高めるまじないを強めている。あんな魔術陣の使い方は初めて見た。

 新しい施設長はできた人なのだろう。

 トリエル・ティ・ラナイ本人についての記録は見つからなかったが、クパピルハールツムビの試合記録があった。

 公式試合で攻撃に『光』を宣誓、認める旗が揚がらないうちに『ゲイ・ボルグの槍』を撃ち、防御に『闇の黒炎』を使ったとある。

 しかし真のゲイ・ボルグとはほど遠いものだったらしい。


○月×日

 某所にて、多大な収穫。トリエル・ティ・ラナイの日記を入手した。

 グラスタール聖教と光魔術の類似点など、メモ書きで記されている。視点が独特。

 しかしこれをどこに保管するべきか。戦地に危険がないとは言い切れない。自分で持ち運ぶよりもどこか安全な場所へ保管する方が良い。


○月×日

 ラナイの日記はあの場所が一番いいだろう。正式な入庫記録がなければ、口の悪い司書看板にも探せないはずだ。明日、隠してくる予定。

 新しい赴任地が決まる前にトラピスタリアへの潜入を決行しようと思う。


○月×日

 サミのこと。

 気がかりでならない。父が許せない。

 母上にこのことを打ち明けるべきか迷っている。

 父を殺してしまわなければ、サミは闇から解放されない。サウは気づいているに違いない。

 サウよりも前に――」


 そこから先をクリノは読むことができなかった。サヘリア家の秘密に関わっている。サミの闇魔術のことだろうとわかるが、これ以上読んではならないと思った。

 アミは家族の秘密を晒してでもクリノを助けてくれようとしている。だが助けられている自分が打ち明けなくてはならないことがあると、クリノはマロウの部屋を飛び出した。

 客間では、クリノがヴァレリアンへ行く前には全く話のかみ合わなかった黒猫とアミが、ネズミの髭のまじないについて妙な意気投合をしていた所だった。

 駆け込んできたのは、既にセルゲイの姿を失い賢者の服だけをぶかぶかにまとったクリノ本人だった。

「アミ様!」

「まあまあ。どうしましたか」

「アミ様にお話ししなくてはならないことがあります。本当はこちらでお世話になっていた時にお話ししなくてはいけないことでした。私は、ここから放り出されてしまうのが怖くて言えなかったんです。本当にごめんなさい」

「どのようなことですか?」

 アミはやさしく問うた。

「マロウ様が亡くなったのは、私のせいなのです。魔道師狩りの人が私をマロウ様と入れ替えて牢から出そうとして、その時マロウ様を、魔道師狩りの人が、刺しました。マロウ様が亡くなったのは、私のせいなのです」

 アミは静かに言った。

「クリノ、違いますよ。マロウは言っていました。あなたに会う前に既に血を失いすぎていたと。この国に帰る力を失っていたと。

 マロウの傷をふさぎ、魔力を吹き込んでくれたのはあなたです。

 学ばずして光魔術を使えるほど、心の優しさと強さを持ったクリノ。

 マロウの死はあなたのせいではありません。あなたがマロウを私たちの元へ返してくれた恩人であることは変わりません。

 もうこのことであなたは苦しんではいけません。マロウも、それを望みません」

 部屋にサミが入ってきていた。

「クリノ、サウから全部聞きました。助けてくれて本当にありがとう」

 アミが微笑む。

「そうですよクリノ。あなたはマロウだけでなく、サミも救ってくれた」

「サミ、すっかり、いいのかい?」

「ええ、すっかり」

 サミは初めて会った時よりも美しくなり、薔薇色の頬にえくぼを作って笑った。

「そうかよかった……よかったね」

「あんなに熱が出たのに助かるなんて、思っていなかったもの」

「風邪や流感でなくてよかったわ。クリノが原因をきちんと見定めてくれたのね」

 二人の話は薬を扱うクリノの認識と大きく違っている。

「待ってください、魔術結界にやられるよりも風邪や流感のほうが怖いのですか」

「もちろんです。死に直結しますからね」

「風邪や流感にかかると死に到る?」

「運がよければ助かりますが」

 この国の医療の話に相変わらずクリノはあきれてしまう。だが、それがこの国の本質なのかもしれない。

「それは、薬が効かないから、ではありませんか」

「そうね、薬は飲むけれど気休めのようなものだわ」

「確実に治せる病や痛みもあるのに。しっかり熱や咳を鎮めたり、痛みを軽くしたりする薬をなぜ求めないのですか。この国はこんなに便利で豊かな魔術があるのに、なぜ健康を取り戻すことに対してはそんなにいい加減なのでしょう。健やかでありたいと願わない人はいないはずなのに」

「その理由を、ラピナ国民はみんなうっすらとわかっていて、どうしようもないと黙しているのです」

 アミは静かに、しかしはっきりと言った。

「かなわない願いもあるでしょう。例えば、あなたの祖国のトラピスタリアで『王様になりたい』と願ってもかなうのは皇太子だけ。他の人がそれをかなえてしまったらどうなりますか?」

 アミの静かさは、それが子供の願いとは違うものを指していると告げている。

「……国王や皇太子対する反逆が、成立したことになります――」

「同じなのですよ、クリノ」

 クリノは決して同じだとは思わない。だが、今のクリノには違うと明確に示す手段がなった。

「闇夜の賢者様、この館について聞きたいことがあるのでは」

 黒猫がクリノに目的を思い出させる。同時に自分が賢者の姿を失ってしまったことに気づきクリノはあたふたと慌てた。

 心が落ち着いてから、クリノは改めてアミとサミに問うた。

「この館についてと、いくつか他にも込み入ったことをお尋ねします」

「何なりとどうぞ」

「この館は造られて五百年くらいになりますか?」

「ええ。ここに都ができた時に造られた館です」

「以前、この場所は湖だったでしょうか」

「はい、ワガン湖です。よくご存知ですね」

「湖の魔呼びの力は、まだ残っているのでしょうか」

「さあ、それはどうでしょう。私たちも精霊を捕らえるのには大変な苦労をしますので、残っていると感じたことはありません」

「ねえサミ、僕が森に行く時にくれた魔よけの玉石なんだけど、あれはいつどんなふうにしてここへ?」

「あの時は本当にごめんなさい」

「いや、いいんだ。あれをもらっていたおかげで素敵なことがたくさんあったよ」

「あの玉石、本当は御祖母様からの物ではないの。どこから来たのかわからないけれど、ある日突然お父様の部屋にあって。お父様が亡くなった後だし、使用人があんなもの持っているはずがないし、私にもわからないわ」

「そうか。アミ様、庭にいる水霊なのですが、いつからここにいるのですか?」

「一番大きなのですか? あれは二十年ほど前です。とある人から買い入れました」

「その人はあの水霊をどうやって捕まえたんでしょう? どうしてここに?」

「確か、釣ったと言っていましたね。水魔法を得意とするサヘリア家なら買うだろうと思ったと」

 グノムスははっきりとしないが、水霊は魔呼びの力によってここへ来たわけではなさそうだ。

「マロウ様の日記からは、紫橘むらさきたちばなの薬湯がどこの国の処方かわからなかったのですが、本当に、マロウ様が?」

「ええ。たしかウルファから帰った時に、知り合った上官に教えてもらったと。その上官は外国の方に聞いたと、マロウは言っていました」

「お兄様、私に無理矢理飲ませたのよ。あまり美味しくないから嫌だったわ」

「他に、この家だけに昔から伝わる独特の薬のようなものってありませんか?」

「いいえ、あれはちょっと特別ね」

「サミ、闇魔術はどうやって学んだの」

「お父様よ。悪いことだってわかっていたけれど……特別な術を使えるのがあの時は嬉しかったの――」

 うつむくサミに代わって、アミが話す。

「私の主人、亡きオウディ・サヘリアはこの家の婿養子でした。若くして先代の闇夜の賢者の秘書官となり、陰影の城に勤めていたんです。ですが、闇夜の賢者は代替わりしてから陰影の城に来ることはほとんどなくなり、賢者に仕えていた者は皆、別の職につきました。

 オウディだけは別の職を拒み、一人、誰もいない陰影の城に通い続けたんです。陰影の城には闇魔術に関する禁忌本が多く残っていて、それをサミに読ませていたそうです。

 サヘリア家を背負う重圧もあったのでしょう。あの人の力に慣れなかった私の責任です」

「あれえ、僕の考えとまるで違っているかもしれない。まいったな」

 クリノが急に素っ頓狂な声を上げたので、アミとサミは驚いて目を丸くした。

 クリノには闇魔術や光魔術が禁忌魔術で大罪であるという意識がまるでなく、二人の話の中の罪悪感を汲み取っていないのだった。

 そんなクリノの様子に、アミもサミも拍子抜けしてなにやら可笑しくなってきてしまった。

「クリノは一体何のために何を知りたいの?」

「ラピナ創史の成り立ちについてなんだけど。アミ様、長い方はご存知ですか」

「破壊の使について記述がある方ね?」

「そうです、それについて何か、サヘリア家だけに伝わっていることってないでしょうか」

「いいえ。国を支える家の者として知っておくように、としか」

「そうですか。うーん……」

 アミとサミに話を聞く前のクリノの予想はこうだった。

 民に伝えられている短いラピナ創史には、破壊の使についての記述がない。また、邪悪な魔霊とされているのは、精霊の中で最高位にあたるユニコ、ゴリニチ、グノムス、カルヤンの四霊司ではないかと考えた。

 四霊司を大四司は今も昔も捕らえたがっている。

 五百年前、カルヤンを捕らえた湖の跡地が大四司議会堂ではなく、一貴族のサヘリア家の館だとすると、サヘリア家は随分前から大四司が精霊を得るのに協力してきたのではないか。今でもその協力体制が残っていて、グノムスとギンビの父親はこの館に縛られていたのではないか。

 そしてサヘリア家は大四司への協力の報いとして、他家に伝わることのない光魔術と闇魔術の恩恵を得ているのではないか。

 そうであれば、破壊の使や邪悪な魔霊について、五百年前の遷都や千年前の転換期について、サヘリア家だけに伝わっていることがあるのではないか、と思ったのだ

 アミもサミも、マロウの日記を読ませオウディ・サヘリアについても語った今、それ以上に隠したいことは何もないだろう。

 全く違っていたようだが、クリノは自分の考えを率直に二人に述べてみた。

「それで、お二人に確かめてみようと思ったんですけれど、どうも最初から考え直さなくちゃいけないみたいです」

 感嘆とともに、アミは嬉々としてクリノに言った。

「力に慣れなくて残念だけれど、面白いわ。それに、あなたの予測はあながち間違っていないかもしれませんよ」

「そうでしょうか?」

「紫橘の薬湯と闇魔術については違っていたけれど、五百年前、サヘリア家は今より大四司に近い存在でした。二代前の水の司はサヘリア家の者です」

「そうなのですか? え、待ってください、二代前で五百年?」

「ええ。大四司は皆、長命なのですよ」

 クリノは長命の域をひどく超えていると思ったが、サヘリア家の先祖についての話なのでウルファから送り込まれている命については黙っていた。

「私たちにはわかりませんが、古い魔呼びの力はそっと残っているのかもしれませんね。グノムスは閉じ込められて自らこの館に逃げ込んだとも考えられますし、水霊を売った方も魔呼びの力に引き寄せられてサヘリアに売ろうと思ったのかもしれません。それに」

 アミは言葉を選ぶように、一度息をついた。

「伝承は長い時を経て、伝える者の感情が混じる場合もあると思います。そのために、伝えられなくなることも。

 例えば、闇魔術はこの国の禁忌です。それは明確にこの家の子孫に伝えるべきことです。でも、オウディの行いについて、私は孫たちに伝えたいと思いません。なぜ禁忌とされるのか、サミの苦しみを伝えるのが一番わかりやすくても。私がもし孫たちと話す機会があるとしたら、オウディの良いことだけを話すでしょうね、きっと……」

「それは、伝承されずに消えてしまう歴史があるということですか?」

「今起きているすべてが、次の世代に伝わるわけではない、ということね。伝えるべきことでも、伝える者の思いによって、消えていったり、曲げられたりする事象があると思いますよ」

 黙って聞いていたサミがぽつりと言った。

「『セルゲイとレリディア』の作者も、そうだったかしら」

「『セルゲイとレリディア』? 何だいそれ」

「クリノあなた、闇夜の賢者の弟子なのに知らないの? ラピナでは有名な恋愛小説よ。二十年前にお二人が賢者に任命された時、その同級生が書いたの。学生時代恋人同士だった二人が、国の発展のために賢者になって引き裂かれる、実話の恋の物語」

「実話!」

 クリノは開いた口が塞がらなかったのだが、これについては当分、師の前で話さない方が身のためだと思った。

「ええと、その作者が何だって?」

「小説には魔術を使うと結界が強まっていくとは書かれていなかったわ。二人が賢者に任命された瞬間それぞれに魔術結界ができて、以来二人は会えなくなったってあったの。確かに徐々に会えなくなるよりもその瞬間から会えなくなった方が劇的で切ないから、作者が変えてしまったのかしら。

 賢者に任命されたら結界ができるのだと思っていたから、私は何の迷いもなく入軍してしまったの」

「劇的で切ない方に事実を曲げるなんて!」

 目を瞬かせるしかなくなったクリノの隣で、黒猫が『セルゲイとレリディア』の話になってからはとくに、不機嫌そうにそっぽを向いていた。


 帰る前に、アミはクリノに写し身の術をかけ直してくれた。しかしヴァレリアンに戻ってからは解き方がわからずセルゲイに解いてもらうこととなった。

 セルゲイは情けないとため息混じりだったが、クリノの言葉に目を見開いた。

「トリエルの日記だと?」

「はい、マロウ様はそれを見つけて、ここの図書館に隠したみたいです。あの、私は他の図書館を知りませんが、司書看板ってどれも口が悪い訳ではありませんよね?」

「うちのは特別に汚い口をきくよう私が作った。甘やかされて育った青少年たちを絶望させてやりたくてな」

「では間違いないと思います。でもマロウ様が勝手に持ち込んでいるので入庫記録はないはずです。どうやって探したらいいでしょう」

「あのトリエルが、日記帳や白紙本に日々の記録を残すとはどうしても考えられん。授業のノートすら持ち歩かぬ奴だった」

「では父はどのようにして勉強していたのですか?」

「記憶力と、わずかなメモだ」

「個人的なメモ帳が図書館にあったら目立ちますけれど」

「マロウ・サヘリアの日記はどのような装丁だった」

「布張りで、表紙も分厚くて、立派な本のようでした」

「そういった装丁にマロウ・サヘリアが作り替えた可能性はあるな」

 夜になってから二人は図書館へ行った。

「会ったことのあるお前の方がマロウ・サヘリアに近い。思考をたどってみろ」

 マロウは「隠す」と書いていた。だがここを訪れた人々が絶対に手にしない本などあるだろうか。

 慣れ親しんだはずの山脈のような膨大な書物がしまわれた本棚を眺めて、ため息が出た。

 だがふと、マロウがこの本棚の配置について書いていたことを思い出す。

『本棚そのものが魔術陣になっていて、人がその間を動くと陣に力が加わり、図書館全体が学習効果を高めるまじないを強めている』

 クリノはゆっくりと、そして隅から隅まで本棚を見ることもせずにその間を歩き続けた。

「学習効果が高まるんだ。思考力だって……」

 クリノは歩き続ける。マロウが手帳を隠した方法を考えながら。

「あ」

 突然クリノは入口に向かって走った。

 司書看板はいびきをかいて眠っている。クリノはその横にある小さな棚を見るためにしゃがみ込み、一冊の本を抜き出した。

 司書看板が威張りちらすこの入口で、あって当然だが誰も手にしない本がある。

『図書館内本探しの手引き書』

 そう書かれた本を開いてみると、中のページはくり抜かれており、一冊の汚い古い手帳が出てきた。

「師匠!」

 セルゲイに持って行き、数ページ開いてみる。セルゲイがうなずく。

「たしかに、汚いこの癖字はトリエルのものだ」

 二人は頭を付合わせて手帳をめくった。しかしクリノは再び自分の父にがっかりする。

「これ、賭け事の、お金の出入りじゃありませんか……?」

 日付と場所、選手名、掛け金と儲け、負け金額。

「あいつは賭けクパピルハールツムビをやっていたからな。自分が戦うよりも賭ける方が好きだった――いやまて、ここを」

 師が指した先には

『釣った水霊、サヘリアへ。二万エルン、金貨にて』

 と、ある。それを見てクリノは更にため息をつく。

「サヘリアの庭園に太った魚の精霊がいます。それが私を見て父の名を呼びました……釣った水霊を売ったのは父だったんですね」

 だが、師は更にその先を指す。

『水霊から、精霊の秘密

 大四司と四霊司の入れ替わり、ラピナ魔術創史』

 クリノもはっとする。

「入れ替わり?」

「クレイユノ、お前は既に父と同じ見地へ辿り着いているのではないか? 人に歴史が伝わるように、精霊にも語り継がれる歴史があるだろう。トリエルは水霊から、人の間では

『人の光と闇、そして大四司』

とされているこの部分がお前の思った通り、

『人の光と闇、そして四霊司』

だったと知ったに違いない」

 更にページをめくると、賭け事の数字記録の間に、言葉のメモの走り書きが増えていく。

 土地の名前、そして人の名前。その横には○と×の後に文字が並ぶ。


×転換期を経て

○なし


×邪悪な魔霊により

○人により


×災いの

○なし


×邪悪な

○星の


×破壊使となる。

○人の世が築きし流れの滞りを破壊し、星の霊使となる


×なし

○使により


×大四司

○四霊司


×破壊使を撃つ

○調停を結ぶ


× 揺るぎなき大四司と二賢に星は新たな千年、更なる豊穣を約束す

○ 四霊司とニ賢、星の霊使に更なる豊穣を誓う



 セルゲイは興奮気味に言った。

「――土地の名前はトリエルが赴任した戦地だ。人の名は古めかしい女性の名が多い。土地ごとに必ずいる老いた女性は産婆か語り部だ。この場合は語り部だろう。お前の言った通り、人は災いに限らず、世界に大きな変動があった時はそれについて後世に残そうとする。トリエルは書物にはない伝承を求めて軍に入って戦地を回り、各土地の語り部から魔術創史を聴き、その違いを一つずつ書き出した……これはその記録だろう。

 二十年も前に、トリエルはたった一人で、大四司二賢者に伝わるラピナ魔術創史が改ざんされていると発見していたのだ。」

 ラピナ魔術創史がまだ頭に入りきっていないクリノには、○と×との、違いによって生まれる意味の違いをすぐに実感できない。

 セルゲイはペンを手元に寄せて、○と×を見ながら書き出してくれた。

「○がトリエルの聴きだした語り部の言い伝え、×が大四司二賢者に伝わる創史文だ。×を○に置き換えるとできあがる文は、こうだ。

一年ひととせの暦が千年ちとせ重なり、一つの暦は終りゆく。

 魔術界における新たな千年に星歓び、清き風吹き、水豊かに流れ、火に温もりし大地より命再び生まれる。

 星の上、全て繋がり流れゆく。

 人によりその流れ滞り、星、転換期を迎える。

 魔術界と異界の狭間にが生まれ出づ。

 児、星の魔霊の声を聴き、人の世が築く流れの滞りを破壊し、星の霊使となる。

 使により滞り破られし土地にて人の光と闇、そして四霊司、手を取り調定を結ぶ。

 四霊司とニ賢、星の霊使に更なる豊穣を誓う』

 ――これは、お前の考えたとおり災いの伝承などではない」

 ようやくクリノにも全貌が見えてくる。

「破壊の使ではなくて、『星の霊使』の伝承。これを改ざんした人は『星の霊使』の存在を隠して、悪者にしたかった……」

「星の霊使は人が滞らせた流れを破壊し、二賢者と四霊司の調停を行っている。そして二賢者と四霊司は星の霊使に豊穣を誓うのだから、この中で最上位にあると言えるだろう。改ざんした者は大四司よりも魔力が強い、または存在として上位にあった星の霊使を、邪魔な存在として認めたくなかったのかもしれん。だから歪めて撃つべき災いとした」

「となると、これが改ざんされたのは五百年前じゃなくて千年前、星の霊使が死んだ頃かもしれません。五百年も後の人は、会ったことのない星の霊使を悪者にする必要はありませんから。もしかしたら、千年前の星の霊使は……」

「当時の大四司に、撃たれたのかもしれんな」

 ふぅ、とクリノは小さく息をつく。

「悪者にしてしまいたいほど、怖い人だったのでしょうか」

「いや。調停を行った者だ、平安を好むものだったのではないかな」

「今の大四司も、星の霊使を破壊の使に置き換えようとしているのですか」

「おそらく、今の大四司はこの星の霊使についての創史を知らん」

「千年に一度の大事なのに、改ざんしたことすら伝承されていないのですか?」

「大四司は入れ代わる際に、継承は行われない。他の三司と二賢者立会いの下、命を賭けたクパピルハールツムビで先代を倒す」

「何ですかそれ……僕には違和感しかありません。民の平穏のために政治を行う人たちがそんなことで……四霊司に対してもそうです。あいつらちっとも邪悪な奴等じゃないのに、悪者にして捕らえようとする」

「悪者であれば捕らえて使役しても、誰も文句を言わない。それどころか捕らえれば賞賛されるだろう」

「そんなの身勝手すぎます!」

 自分の中にあった、魔術を使いながらの違和感。人も星の一部であるのに、星の霊を捕らえ使役し使い果たす人間の傲慢。生死を無駄にし、他者の命まで独占する強欲。それを支える国の在り方。権力のためだけに、有益な学問と歴史を隠匿する支配者の驕り。

「父は、どんな想いで、何をしようとしていたのでしょう」

 父は確かに自分と同じ想いを抱いていた。そしてその想いを遂げることを、その命をかけて自分に託した。

 胸に手を当てる。小刀が温かい。

「クレイユノ」

 ふと顔を上げると目の前に小刀の精霊がいた。

「三重の封印だったのだ。今、お前の手によって解放された。トリエルからの言伝がある。聴くか?」

 クリノはうなずいた。精霊は、トリエルの目で、声で、クリノに伝えた。

「お前は私を恨むだろう。苦難ばかりを背負わせ、助けることも導くこともできずに混沌の中心へと運命づけるだけの私を、恨まずにはいられないだろう。

 私を恨み、憎むがよい。ただ、どうか、お前が生きるその世界から目をそらさずに生きて欲しい。お前の目に映る世界は時に美しく、時に残酷で、時に、歪んでいる。

 美しさの真実を、残酷の中の愛を、歪みの根本を。生きる日々の中でこれらを見出す力を培うのだ。

 私を信じてくれた人々が、お前の力になってくれるはずだ。この世界の希望よ、叶うことなら、心のままに人を愛し、愛されて欲しい」

 涙をこらえきれなかった。

「父さん、ずるいよ……」

 泣き崩れそうなクリノの背を、温かく大きなセルゲイの手が支えていた。

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