第十二章 閃燿の城

 クリノは時折目を覚まし、また眠る。

 以前にもこのようなことがあったと思いながら、ふかふかのベッドに寝かされ、薬を飲まされ、眠り続けた。

 モナモミの実はサミの熱を下げるのに森中を探し回ったが、今は自分がその煎じ薬を飲まされている。火傷に効くコカゲブキの葉が体中のあちこちに貼られ、その独特の匂いがたちこめていた。

 どうやらちゃんとした治療ができる人がいるらしい、トカゲの尻尾の酒を飲まされなくてよかった。おぼろに、そう思いながら、また眠る。

 この時、ラピナ国内は大荒れであったのをクリノは知らない。

 各地で嵐や竜巻が起り、川は溢れ海は荒れ、山が崩れて畑では育っていた作物が一夜にして根から腐る。大四司の内、風、水、大地の三司はカルヤラのそれぞれの尖塔に篭り、昼夜を問わずまじないをあげたが、一向に届かぬ。

 この天変地異とも呼べるラピナ国内の荒れ方は破壊の使などではなく、ユニコのハクビと、ゴリニチのギンビ、そしてグノムスが、クリノが傷つけられたことに怒り心頭大暴れしていたせいなのだが、それに気づいていたのはセルゲイだけだった。

 セルゲイはもちろん生きていることすら内密であるクリノと霊のつながりについて、大四司にも黙っていた。

 ――破壊の使が現れたのではないか。

 大四司はそれぞれに内心そう思い始めた頃、災いは終息した。

 それは、クリノの体が癒えて起き上がれるようになった頃と一致している。


 ひんやりと、頬に冷たさを感じて目を開ける。白く細い指が、頬の火傷に薬に浸したコカゲブキの葉を貼ってくれている。

「どなた、ですか?」

 クリノを見た瞳は金色で、形の良い唇が静かな声を奏でる。

「私は光暁の賢者、レリディア・レビオルです。ここは閃燿の城。何も心配せずに傷を癒しなさい」

 火傷の傷が癒え、熱も下がると、クリノは閃燿の城から抜け出して城を囲んでいる森で過ごすことが多かった。サヘリアの家にいた時と同じく、昼夜問わず寝間着一枚だけで出て行ってしまうので、レリディアは困って白虎を常にクリノにつけた。

「クレイユノ、そんなにこの城が気にくわないのか」

 白虎は人の姿をしている時は白髪の大男である。クリノが今まで接してきた精霊の中ではもっとも人間のように振る舞い、人間のように相手に気を配る。

 大男白虎は白いガウンを手にしてクリノにどこまでも付き添って来た。

「気にくわないんじゃなくて、何て言うかその、明るすぎて落ち着かないんだ」

 城の中はどこもかしこも明るく、影が出来ぬよう全ての物が光っている。

「レリディア様も、その前の賢者様も、その前も、ここへ来たばかりの頃はそう言っていた。お前も慣れる」

「白虎は平気なのかい、いっつもあんなに明るくて」

「俺はこの城ができてからずっとここにいる」

「慣れたんだね。この城ができてどのくらい経つんだい?」

「五百年が経つ」

「へえ、長生きなんだね。ずっと代々の光暁の賢者に使役されてきたの?」

「賢者はたくさん見たが、レリディア様が一番美しい」

「そうだろうね」

 白虎が人のような気配りをするのは、五百年もの間ずっと人間と一緒に過ごしているからかもしれない。

 白虎はそのうちレリディアに言われなくても自分からクリノの世話をするようになった。レリディアの次にクリノが好きだと言い、甲斐甲斐しく世話をする。

 レリディアは使役精霊が自分以外の者の世話を懸命にするようになったのを、初めは不思議に、しかしやがて当然に思った。

 人であろうと精霊であろうと、クリノ自身は変わらず人懐いのだ。人懐こい少年は、賢者のレリディアに対しても臆さずに様々な質問を投げてくる。それは心地の良い質問攻めだった。

「レリディア様、眠っている時私が飲んでいたモナモミの実は煎じたのでしょうか、煎じたにしては何か、新鮮な匂いを感じたのです」

「レリディア様、コカゲブキの葉ですが、火傷の具合によってあぶり具合を変えていらっしゃるのですか」

「レリディア様はずっとこの城にいるのですか、お寂しくはないですか」

「ああ、そうでした、基地にいらした時にご挨拶できずにごめんなさい。あの時はちょっと、立て込んでいて」

 精霊たちとの孤独な城の生活に、突然にして翡翠色の目によって快活さが加わった。

 光暁の賢者にむかって、知りたいという思いのままに質問を重ねた者はこの二十年で誰一人としていなかった。レリディアはクリノの質問に答えるのを楽しみ、セルゲイのクリノに対する評価は正しいと思うだけでなく、何としてもクリノを自分の弟子にしたいと思うようになっていた。

 そのようなレリディアの思いは知らず、クリノは白虎と他愛のないことを話しながら、森を歩く。

 過去と、今と、これからについて考えていた。

 軍を追われてしまった。師には迷惑をかけているだろう。

 父は、あの戦場で何を思っただろうか。なぜトラピスタリアへ行ったのだろうか。

 トラピスタリアと、ラピナがあのような戦争を続ける理由がどうしてもわからない。

 救えなかった人々が燃えて死んでいく姿が目に焼き付いて離れない。

 自分はどこへ行き、何をしたらいいのだろうか。

 心が混乱して何から考えればいいのかわからなくなったので、ひとまず目に見えている不思議から知ろうと、クリノは今、歩いている。

「クレイユノ、ここから先は散歩には勧めない」

 白虎が立ち止まって言った。

 クリノは森の傍らにある、開けた庭に向かっていた。

「窓から見えたんだ。この城の輝きの『もと』みたいなものが、この先にあるだろう」

「ある」

「それが何なのか知りたいんだ」

「知ってどうする」

「昼も夜もこんなに輝く城を初めて見たんだ。知りたいんだよ」

 白虎はため息をついた。

「それなら俺は本来の姿に戻ってお前を護らなくてはならない」

「そんなに危険なものなの?」

「危険だ」

 白虎はガウンをクリノに着せてしまってから、白い毛並みの大きな虎となり、四つ足でクリノの側を歩いた。

 森が開けて庭に出る。

 城近くの庭と違い、長らく手入れがされていない。昔は東屋があったのか、白い石の柱が崩れて短くなり、土台と共に残っていた。

 彫刻なども置かれていたのだろうか、石台が点々としている。

 草の生え方が冬とはいえあまりに弱々しかった。寒さに強いフユゲショウですら花をつけそうにもない。しゃがみこんで地面に触れてみる。空気の冷たさとは反対に、妙に土が熱い。

「クレイユノ、白虎、なぜこのような所に」

 紅鹿が走ってきた。紅鹿は城では赤毛の背の高い男だが、今は立派な角を持つ雄雄しい鹿の姿に戻っている。

「クレイユノが、どうしても知りたいんだそうだ」

「レリディア様は」

「止めろとは言われていない。いずれは知らなくてはならないことだ」

 紅鹿は白虎とは反対側を歩き、クリノを挟むようにして進んだ。

 大きな鹿と大きな虎の心配をよそに、庭の廃れ方、草の弱り方、それを見てクリノは思う。

 この庭は使われないのではない。庭としては使えないのだと。憩い、安らぐ場所として使用できない原因がこの先にある。

 白い石の階段が見えてきた。その上に、祭壇のような物がある。しかしそこは眩しすぎる光のベールで幾重にも覆われて、目を開けて進むのも難しい。クリノは杖を出した。

 杖の先を細かく振って宙に水の膜を作る。その中へ土を加えて半透明にする。そして一気に冷気の風を当てて冷やして固めた。それを顔の前に持ってくるとまぶしさを少し遮ることができ、前も見えないことはない。

 白虎が楽しそうに言う。

「クレイユノは面白い。元素をそんなふうに組み合わせるのを初めて見た」

 紅鹿が鋭い角を下げ気味に、たしなめるように言う。

「白虎、注意を怠るな」

 どれだけ恐ろしいものがこの先にあるのだろう。クリノは一歩ずつ慎重に進み、光のベールを一重ずつくぐっていく。

 ぼんやりと、青い大きなものが見えてきた。くすんだような青さの塊が、祭壇の上で山のような形を成している。

 祭壇の周りをくるりと回り、クリノはそれが生き物であると理解した。不思議な青い青い毛並みの、大きな日熊である。日熊はすうすうと寝息を立てている。

 しかし、日熊にしては紅鹿や白虎が警戒するような獰猛さが感じられない。ラスケスタの森でもっと小さな熊に出会った時の方が冷や汗をかく程の勢いがあった。

 青い毛並みにそっと触ってみた。普通、熊の毛は固く強く、水をよく弾くので旅人が防寒にと持つことが多いが、この青い毛並みは柔らかで、カルヤラで見た貴族の襟巻きのようだ。

「……これ、なんだい?」

「火の霊、カルヤンだ」

「これが? ここで何してるんだ?」

「霊力を城へ送っている」

 城を振り返ったはずみで熊が乗っている台に手が触れた。

「あっ熱っ!」

 クリノはその熱さに驚いて飛び上がる。

 地面の熱さはどうやらこの火の霊によるものらしい。

 すうすうと寝ている熊は自分が知っている三霊司に比べると儚さすら感じる。熊としては見たことのない青い毛並みのせいだろうか。

 ハクビも、ギンビも、グノムスも、人間の大四司に追われていた。ハクビは子馬で、ギンビはオタマジャクシ。蟻の群れが羽をつけるのは女王が新しく生まれ変わる時だ。この火の霊はどうだろう。

「いつからここにいるの」

「この城が出来た時」

 とするとこれは子熊ではない。生まれ変われずにいるのではないだろうか。

「クレイユノ、離れろ」

 紅鹿が言った時、熊が目を開けた。毛並みとはかけ離れた、澄みきった美しい緋色の瞳だった。クリノは離れずに、ゆっくりと瞬きをした。だが予想に反して日熊が口を開く。

「こんにちは、ごきげんよう。どなたでいらっしゃいますか」

 熊から人間式の挨拶をされると思わなかったので、クリノは慌てて人間の挨拶を返した。

「こんにちは、はじめまして。クレイユノ・トマ・ラナイです」

「はじめまして、火の霊カルヤンです」

 台の上に乗って動かぬままであるが、きちんと挨拶ができる精霊がいることにクリノは驚いていた。

 迷ったが、今までと同じ様に疑問に思ったことを率直に聞いた。

「転換期に、霊司は生まれ変わるのかと思っていたのですけれど、あなたはここで生まれ変わるのですか」

「いいえ。私は富炎山脈へ行かないと生まれ変わることができません」

「行かないのですか? 他の三霊は生まれ変わりを済ませていますよ?」

「行けないのです。何やら重くてここから立ち上がることもできません」

「この、台のせい?」

 青い熊はゆっくりとうなずく。

「……ここを、離れたい?」

 熊はうなずく代わりに、クリノを見てゆっくりと瞬きをした。

「クレイユノ、ここにいたのね」

 レリディアの声がしたので振り返る。

 声の主の白い戦衣と光のベールが反射しあってきらきらと瞬いていた。

「これは火の精霊カルヤンです。五百年前の火の司が捕えてこの城を築く力の基としました。ラピナの首都の名、『カルヤラ』は、古代ラピニエル語でカルヤンを捕えた土地という意味なのよ」

「この光のベールは?」

「精霊封じの結界です。カルヤンが外へ出られぬように」

 熊はまた目を閉じて眠ってしまった。先程熊の毛に触った時に感じた暖かさが、胸の奥で、チリ、チリリと音を立てる。

 この熊は霊であると同時に生き物である。それが五百年、ずっとこの祭壇の上で動くこともままならず、霊力を使われ続けるだけだとはどういうことか。

 ハクビやギンビ、グノムスも、人間につかまったら骸のように生かされるのだろうか。それが、転換期の災いを防ぐためになるのだろうか。そのような犠牲の上で強い魔力を持った所で、人間とは、何であろうか。

 クリノは腹が立ってきていたのだが、レリディアは気づかなかった。

「先程、私は二通の手紙を受け取りました。一通はセルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフから。あなたの具合を心配していましたよ」

「師匠から……」

「もう一通は、大四司議会からでした。いよいよトラピスタリアへ侵攻するので、私は軍と合流しなくてはなりません」

 ラピナがトラピスタリアへ攻め込む。仕立屋で聞いた話がとうとう現実のものとなった。

「それであなたに、この城の留守番を頼みたいのです」

「留守番、ですか」

「ええ、この戦争はあなたにとって辛いでしょう。ウルファでのことは私が取りなしておきます。ここで静かに薬草の勉強を続けていたらいい。私が戻ったら薬学だけでなく、医学も教えてあげます」

「私は、ずっとこの城にいるのですか?」

「そうなさい。白虎も紅鹿も喜びます」

「一度、師匠のもとへ帰ろうと思っていたのですが」

「残念だけれどクレイユノ、セルゲイはあなたを手放すそうよ。破門、とういうことね」

 レリディアはセルゲイの言葉をやや曲げてクリノに伝えた。セルゲイはクリノが望めばそれも一つの道であると言ったのだが、レリディアはどうしてもクリノを弟子に欲しかったのだ。

「あなたを私の弟子にしてあげましょう。この城で将来の光暁の賢者となる勉強をしましょう」

 セルゲイに破門された。それはクリノをひどく傷つける言葉であり、クリノはしばらく黙り込んだ。

 だが、ここまでの全ての出来事が、少年を少しだけ成長させていたのかもしれない。傷ついても、進まなくてはならないと思った。知らなくてはならないことのために、進まなくてはと。

「……レリディア様、この城は何かから、何かを、護っているのでしょうか」

「この城は、光暁の賢者に伝わる知識そのものです」

「光魔術ですか?」

「ええ。欲する者は多いでしょう」

「なぜ、伝えてはいけないのでしょうか。私は光魔術についてはよく存じ上げません。でもレリディア様がラピナの貴族さえ知らない薬事や医学をご存知ということは、治療は光魔術に含まれるのですか?」

「その通りです。光魔術は国にとって重要な役割を果たす人のための特権でもあります」

「貴族ですら、軍医ですらその知識を得られないということは、その特権を使えるのは大四司のみ、という解釈で正しいですか?」

「クレイユノ、お前は賢いのね。その通りよ。大四司は代々、長く生きられる方が多いのもこの城の知識によるものです。優れた魔術師が長く国を平定するためです」

 クリノは質問を変えた。

「……レリディア様は、転換期の災いとは何であるとお考えですか」

「千年に一度、破壊の使が現れると言われています。千年前の破壊の使は人間の姿をしていたけれど、魔術界と異界の間に生まれた児(こ)だったと記録には残されています」

「破壊の使は、何を破壊したのですか」

「この世界の多くを。沢山の国が滅びたそうです」

「……ラピナが魔術界とすると、魔術を使わない外国は、異界でしょうか」

「そうかもしれません」

 クリノは少し考えて言った。

「私は破壊の使かもしれません。私の父は、トリエル・ティ・ラナイ、母はトラピスタリア人です」

 レリディアは息をのんだ。そして同時にセルゲイの真意を知った。この者を四司に突き出せばすぐに殺されるだろう。だからセルゲイは密やかに、クリノをこの城に隠したかったのだ。

 これはレリディアにとって好都合であった。クリノを完全に独占する理由が見つかったのだ。

「……トリエル。懐かしい名前。よく似ていると思っていました。確かに……聡いお前の言うように、お前は運命づけられた破壊の使である可能性がある。でも」

 レリディアはその腕にクリノを抱き寄せた。

「大四司も、お前が私がのもとで静かに暮らすとわかれば、災いへの心配も薄らぐでしょう。お前も運命を呪う必要がなくなります」

 ここまでクリノは「なぜ自分が?」と思うことは度々あった。しかし、運命を呪うという言葉はクリノの生き方と違っているようだ。

 そしてクリノはレリディアの腕の中で、すばやく動く黒い小さな陰を遠くに見つけていた。それは白虎や紅鹿にも気づかれないように密やかに物陰から物陰へ、足音も立てずに動く。クリノはその動きと気配に覚えがあった。

「レリディア様、もうしばらく私の好奇心におつきあい下さいますか」

「何ですか、知りたがりのクレイユノ。答えられることには、何でもこのレリディアが答えます」

「ありがとうございます。ウルファで倒れた私をここまで運んでくれたのは、誰だったのでしょうか?」

「私です。セルゲイの見込んだ者がどのような者か会ってみたかったのです」

「そうでしたか。それから、二重の封印をされた父の形見があるのです。一つの封印はシュワルツニコフ師匠が解いてくれましたが、もう一つを解けるのはレリディア様ではないかと思うのです」

「見せてごらんなさい」

 クリノは首からさげていた小刀を取出し、レリディアに渡した。

「父が魂込をしてできているそうです」

「……なるほど。これは簡単です」

 レリディアは小刀を撫でて言った。

「トリエル・ティ・ラナイに作られし精霊よ、レリディア・レビオルが命じる。その姿を現せ」

 小刀が緑に光り輝いたと思った瞬間、例の、クリノがやや苦手に思う青年が二人の前に立っていた。

「レリディア・レビオル、美しさは二十年前と全く変わらぬ」

「私に封印を解かれたらそう言えと、トリエルに仕込まれましたね」

 ふっと、青年は笑った。

「そう言返されるだろうとも、言っていた」

「さあクレイユノ、契約してしまいなさい」

「なにを、でしょうか」

「この精霊を使役するのでしょう?」

「いいえ……あの……嫌です」

 からからと青年は笑った。

「嫌? なぜ」

 驚くレリディアにクリノは慌てて言った。

「私は、父と会ったこともないのです。父に似ているそうですが今のところこの精霊の性格が、何ていうか、その……私には面倒です」

 今度はレリディアも青年と共に声を上げて笑った。

 青年は笑ったまま問う。

「さて、クレイユノ。お前は私に聞きたいことがあって封印を解いたのではないのか」

「ああ、そうでした。私が聞きたかったのは、トリエル・ティ・ラナイ、父はなぜ、トラピスタリアに行ったのかということです」

「ウルファ平原から失踪した理由か」

 クリノはうなずいた。わからないことが一つ、解けるはずだ。

「お前の母に出会ったからだ」

「え?」

「まあ、トリエルらしい」

「え? レリディア様?」

「そうだろう、レリディアはわかるだろう」

「待って下さい、私にはわかりません」

「よし、詳しく話そう。

 トリエルは自分が行ったことのない新兵訓練基地を見てみたかった。自分以外の若者たちはどのような辛い訓練で日々這いつくばって過ごしているのかと興味があった」

「そんなことに興味を?」

「うるさいな、息子。お前の父はそういう男だよ」

「ええと……」

 レリディアはクスクスと笑っている。

「とにかく、トリエルはウルファへ行った。ある晩、敵の進軍があった。お前が知ってるのと同じように多くのトラピスタリア人が死んだ。その晩、トリエルは平原を一人、歩いた。

 赤い大地に、焼け爛れた屍が山積みになっていた。

 その時、トラピスタリアの城壁から言い争う声が聞こえた。兵士たちが女騎士を引き留めている様子だった。

 トリエルは面白くなって、しばらくの間目くらましの術で身を隠し、女騎士が出て来るのを見ていた。

 女騎士は単身、馬を駆って城壁から出てきた。灰がかった後れ毛が風にそよぎ、その身を甲冑に包んではいたが、見え隠れする艶やかな肌が月明かりに照らされていた。女騎士は馬を降りて、焼けて転がる屍を見て歩いていた。時折、涙を拭いながら。

 その姿は、まるで戦の女神が戦死者の館ヴァルホールで魂をねぎらうかのようだった……」

 見知らぬ父と母の馴初めの話を聞かされるのかと、クリノはうんざりした。実際、小刀の精霊の話は延々と続き、レリディアはその話をうっとりと、時折うなずきながら聞き入っていた。

 話の途中で、小刀の精霊がレリディアに気づかれないよう、クリノに目配せをした。そして更にレリディアに見えぬよう人差し指を地に向けた。

 地を、クリノに向かって小さな小さな羽蟻が必死で歩いている。クリノはそれがレリディアに見えないよう体の位置を変え、そっとすくい上げた。

 小刀の精霊はレリディアに向かって話を続けたが、またふとクリノに目配せをし、さりげない仕草で自分の耳を触る。

 合図に気づいたクリノは羽蟻を耳の中へ入れた。むずがゆさに声が出そうだったが必死で耐えた。

 そして、羽蟻から大事な言伝を受け取った。

 お陰で幸か不幸か、長い長い父と母の話は全く耳に入らなかった。

 話が終わった時、レリディアは何度もうなずきながらクリノに言った。

「なんという素晴らしい愛の物語か。クレイユノ、お前はやはり大切に大切に思われて生まれてきたのです」

「その実感はあまりありませんがレリディア様が楽しく聞かれたのなら良かったです」

 レリディアは微笑んでうなずいた。

「あの、レリディア様、もしも私が光魔術を学ぶとして、その前にもう少し光魔術について知りたいことがあるのですが」

 レリディアはうなずいて言った。

「クレイユノ、私に何かたずねたいことがある時には遠慮せずに、何でも、いつでもたずねていいのですよ」

「ありがとうございます。でもこれは少し、身の程知らずの質問なのかもしれないと思って」

「言ってごらんなさい」

 聞かねばならない。だが、その答えを聞くのに恐れもあった。ふう、と一つ息を吐く。

 知らなくてはならないことのために、進まなくてはと。

「……光魔術には、死に逝く人間の命を材料に、生きたいと願う人間を長らえる魔術がありますか?」

 今までの質問と違い、レリディアは答えるまでに少し間を置き、逆にクリノに問うた。

「なぜ、そう思ったの?」

 いつも以上に言葉を選んでクリノは答えた。

「ウルファ平原の戦いに、ひどく違和感を覚えます。あのような一方的な虐殺が二百年あの場所のみで続くことは、ラピナとトラピスタリア両国にどのような意味があるのかと考え続けていました」

「……それで?」

 まっすぐに、ただ、まっすぐにクリノはレリディアに話し続ける。

「ラピナの軍指令本部が城壁からやって来る人々を殲滅せよと命ずるのは防衛のためではなく、他に理由が、何か利益があるのではないでしょうか。それは、長い間、軍の関係者にもその理由が知られていないことから、軍よりも大きな権力を持った方々の利益ではないかと。

 先程、レリディア様は光魔術は、国にとって重要な役割を果たす人のための特権でもあると仰いました。

 人間の命を材料にする魔術は、他の人間の命につながるとしか思えません。一部の、強い権力を持った人間の、命に」

 レリディアは微笑みをたたえたままクリノを見つめて黙っている。

 クリノは一息ついてから、言葉を続けた。

「それから、ラピナとトラピスタリアは真の戦争状態ではないのではと思いました。トラピスタリアは民の命を長きにわたりラピナにすすんで差し出しているのではないでしょうか。同じように、トラピスタリア国内の、一部の、強い権力を持った人間の利益のために」

 レリディアはそっとクリノの頬をなでて言った。

「我が弟子クレイユノ、よくできました。一人で我が国とトラピスタリアの最高機密にたどり着くとは」

 確信はあったが、レリディアの答えにクリノの呼吸は浅くなった。

「……それで、この城は、首都ではなくウルファ平原の近くに?」

「その通りです。南部での戦乱は混乱を極めているから、私が出向いて光魔術で命を吸い上げるのは難しい。けれどウルファ平原での人々の死に方は命を吸い上げやすいように単純化されている。集めた命を光魔術で不老の延命術にし、カルヤラの大四司とトラピスタリア王宮に送るのです」

「トラピスタリア王宮にも?!」

「大四司に送った残りものをくれてやっているのです。真の戦争状態ではないというお前の考察は、的を射ています」

 クリノの考えていたトラピスタリアの一部の人間にとっての利益は、政権の安定や保身というもっと漠然としたものだった。

「……いつから、なのでしょうか」

「『戦争』が始まった時、二百年前からです。しかしその盟約も終りを迎えています。トラピスタリアに侵攻し、ティクリートとの戦争が始まれば細々と命がウルファへ送り込まれるのを待つ必要がありません」

 祖国と今を生きる国の真実を知り、心を落ち着けるには時間が必要だった。

 しかしクリノの中で明確になったことがある。まずそれを、レリディアに告げなくてはならない。

 息を整えてから、これまでの自分を支えてくれた存在全てを思い返す。それらに応えるべく、クリノは静かにレリディアに告げた。

「レリディア様、お礼を申し上げます。火傷を負って軍にも追われた私の命を助けて下さって、本当にありがとうございました」

「いいのです、クレイユノ。お前の命を救った判断は間違っていませんでした」

「ああでも、これからすぐに間違っていたと思われるかもしれません」

 ふう、と、もう一度息をつく。

「まず、私はレリディア様の弟子にはなれません。今のお話を聞いて、この国の光魔術に関わりたいと願いません。そして破門されたとしても、私の師匠はセルゲイ・キヴィ・シュワルツニコフただ一人です」

 レリディアの表情が固くなった。だがクリノは続けた。

「それから、私はこの世界は歪んでいると思います。小さな生き物でも名も知れぬ民でも、その命は、生まれた体の持ち主のものです。

 生き物は生きるために食べたり食べられたりします。でも、同じ種類の人間が、一部の人のためだけに、死を積み重ねても良いなんてこと決してあってはいけません。他の国の人であっても、それは変わらないと思うのです。

 私が出会ったどんな国のどんな生き物も、自分の体いっぱいの自分の命で生きていました。だからこそ、みんな、永く健やかでありたいと願うのではありませんか。その願いこそ、自然なことではありませんか。その自然な願いのために、薬学、医学はできうる限り多くの者が学び、また人々に惜しみなく与えられるべき学問です。それが支配者のためだけのものとされる世界なら私は」

 もう一度、ふう、と息をつく。

「私は喜んで破壊の使となります」

 レリディアが立ち上がる。恐ろしかったが、クリノもうつむきがちではあるが立ち上がった。

「愚かとお思いでしょうが、まだあります。あの火の霊の在り方は不自然です。あれは温かく血の通った生き物です。あのような所に五百年も縛り付けて、それで護られている学問がほんの一部の国の支配者だけのものなんて。やっぱり、歪んでいる思います」

「それで、どうするというのだ」

 レリディアを、自分を散々ぶちのめした師匠シュワルツニコフよりもはるかに恐ろしいと思った。しかし、自分は一人ではない。

「レリディア様、ごめんなさいっ」

 クリノは杖を振った。

 火の霊カルヤンが乗せられている祭壇が砕けると同時に、轟音がして光のベールが空から押し潰された。

 白虎と紅鹿がさっとレリディアの両脇に駆け寄ったが、精霊にできたのはそれだけだった。

 空には巨大な水竜が虹色の鱗輝く翼を広げている。銀の尾を振り上げ更に光のベールを叩き壊し、その回りを角の生えた白馬が駆け回り、尾を打ち下ろす場所を指示している。

「ゴリニチと、ユニコ? どうしてここに」

 レリディアがはっとした時、うわん、という音と共に真っ黒な羽蟻の大軍がその場を包んでしまった。

「グノムスまで!」

 どこに大地の司が求めるグノムスの女王がいるかわからないレリディアには、羽蟻を攻撃することができない。

 羽蟻の群れの中へユニコが突進してくる。クリノは辛うじてその背に飛び乗った。

「ハクビ、もう一人連れて行く!」

 クリノの指す先ではヴァレリアンの施設長室に座っていた黒猫が逆毛を立ててこの状況を見ていた。

 ハクビは黒猫に向かって走る。クリノはハクビが空へ舞い上がる直前にその背から手を伸ばし、黒猫を地面よりかっさらった。

 更に羽蟻の群れの中へ水竜ギンビの大きな脚が突っ込まれ、青い日熊をしっかりつかんだ。その脚にはトリエルの姿の小刀の精霊がつかまる。ギンビは巨大な翼を羽ばたかせるとあっという間に空高くはるか上空へと飛び去った。その後をクリノを乗せたハクビと黒い羽蟻の大群が続いてゆく。


 残されたレリディアは、呆然と輝きを失った城を見上げた。

 白虎と紅鹿が心配そうにその横顔を見つめる。二精霊の予想に反してレリディアは、クスッと笑った。

「父の魂込した精霊の性格が苦手だと? 何を言うか。自分も父トリエルの無鉄砲さにそっくりではないか!」

 苦笑をこらえきれずに、レリディアは心から笑った。

 セルゲイの言う通り、クリノと過ごした時間はレリディアにとっても二十年ぶりに、楽しき歓びに溢れた時間だった。

「この事態。出撃の準備よりも四司に対する言訳を先に用意しなくては」

 ため息をつきながらもレリディアはまだ、笑い続けていた。

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