賢王記外伝 水竜の涙
黒い水面にぽっかりと、島が浮かんでいる。
つるりとした大きな山が一つ。海岸には二つの並んだ洞窟。それだけの島だった。
島の天辺に少年が一人あぐらをかいて、自分の膝の上で頬杖をついている。月明かりに少年の栗色の癖のある髪が輝き、翡翠色の瞳が山の裾を見下ろした。
「なあ、聞き分けろよ」
少年がそう言うと洞窟の奥から世界を揺るがすような轟音が響き、洞窟の入口からはどうどう潮が噴き出した。流れ出た潮は渦を作って海を荒らす。
「あんまり海流を乱すな、後で俺が面倒になるのはわかっているだろう」
少年が文句を言うと今度は島の沿岸から突如大波が起こり、島を中心に波紋となって広がった。
「泣くのを止めろって。お前の涙一粒がいくつの村を飲み込むと思ってるんだ。土が塩っぽくなったら後でグノムスにどやされるぞ」
ぐらりぐらりと島全体が揺れ、山が海から育つように大きくなる。白波を割って裾野がゆっくりと広がるが、そこは岩ではなく虹色にきらめく鱗に覆われていた。
裾野の先に、大きな目玉が二つ現れてぱしぱしと瞬く。その目から、ぽろりぽろりと涙が溢れて大波が起きた。
ギンビは言葉が得意ではない。
ハクビの話は全て理解しているのだが、ハクビに伝える言葉がギンビには見つからないのだ。
ハクビのように
だが、そのクレイユノは今、動かない。
グノムスの中の小さな水粒子を集めてクレイユノを守ろうとしたが、場所が遠く水は少なく、まだ力も足りず、ギンビには難しいことだった。
今もこんなに遠くにいては、コカゲブキの葉をうんと冷やして余計な熱を取り除いてやることしかできない。
人間の魔術に傷ついたクレイユノを見て、ギンビは怒った。怒り続けた。同じように怒ったグノムスとハクビよりも、ギンビは長く怒り続けている。
あの日、森の小川の水面にぷかりと浮き出て、街へ帰っていくクレイユノを見送ってからギンビは川を下って海に出た。
海に出るとクレイユノの匂いがどんどん薄くなって、急に寂しくなった。
また小川を昇ってしまおうかと思ったが、そう思った時には既に体が大きくなりすぎていた。
遠くに居るクレイユノの側にいたいと思えば思うほど、なぜか体が大きくなって入り込める河はなくなった。
クレイユノがいる土地の匂いがする者が乗った船が海に来ると、どうしようもなく食べてしまいたくなる。だが、その者がクレイユノの友であったりしたらお腹に収めた後どうしたら良いのかわからない、と思案するようになってからは船を食べるのを止めた。
海にはクレイユノと同じ言葉を話すものは少ない。
寂しさが募るとまた、体が大きくなる。
話す相手もおらず、食べたくなってしまうので船に近づくことも出来ず、海の底に沈んで一人ぼっちでいると、涙がこぼれた。ぽろぽろとこぼれた涙は新たなる潮の流れを生みだし、海の生き物はそれを喜んだ。
ある日、海底の地が唸った。グノムスが遠い地からクレイユノの危険を知らせてきたのだ。
波を逆立ててハクビに伝えたが返事がない。グノムスの中の小さな小さな自分を必死でクレイユノの周りに集めたが、人間の火の勢いは強く、クレイユノを守ることが出来なかった。
ギンビは怒った。
渦巻きが世界中の海のいたるところで次々と起こり、波が荒れ狂い、月にお構いなしで急激に潮が満ちては引いた。船が沈み、村が飲み込まれ、人間以外の海の生き物たちまでもが悲鳴を上げる。
そして怒っているギンビの元に、同じように怒っていたはずのハクビが現れたのが、今宵である。
「そろそろ終わりにしようぜ。あいつが目を覚まして俺たちが暴れたことを知ったら困るだろうからな」
もともとギンビはハクビに対しても怒っていた。なぜクレイユノが焼かれるのを黙って見ていたのかと。
「俺は強く魔力を使わないと火を消せない。近くで闇夜があいつを見ていた。あまり盛大に助けたら警戒されるだろう」
ギンビの怒りはおさまらない。巨大な銀色の尻尾をぶんぶん振り回してもおさまらない。
「よせよ、またおかしな波が立つ」
ギンビはただ、クレイユノが健やかであってほしいと願っているだけなのだ。
だがそれを妨げるたくさんのことに、ギンビは怒っている。
ギンビはただ、クレイユノが一日も早く元気になってほしいと願っているだけなのだ。
だが何もできず小さな水滴として側にいるしかない自分に、ギンビは怒っている。
「これ以上お前が怒ったり泣いたりすると、クレイユノが困るだけだぜ」
ハクビにそう言われると、また、急に寂しくなった。
クレイユノを困らせてはいけないと、渦巻きを鎮め波を鎮め、月の声を聞き入れる。
それを認めて、ギンビの鼻の頭である山の天辺に座っていた少年は、白い若駒に姿を変えて月の夜空に駆け上がっていった。
――くれいゆの、ぎんび、ソバニ、イル。
涙がこぼれるのだけはどうしても止められず、その後もしばらくは陸に向かって大波が押し寄せ続けた。
水竜が楽しい唄を覚えて水底で奏でるのは、まだ少し、先のことである。
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