カッサンドラーは語らない

テイル

1章 それぞれの孤独

1-1 それぞれの孤独

 今に語り継がれる神話において、その女性は強く美しい神の寵愛を受けた。

 神により授けられた祝福は、未来を知る力。立ち込める闇を祓い、茫漠たる世界に道を拓く一筋の光。

 しかし予言の力が彼女に見せたものは、幸福と希望に満ちた未来ではなく、その神に捨て去られる絶望の光景だった。

 破局の定められた愛を拒絶したことで彼女は神の怒りを買い、未来視による予言を誰も信じなくなるという残忍な呪詛を受けてしまう。


 その目はすべてを見通し、その声は誰にも届かない。終焉の到来を知りながら、ただ一人の信頼すらも得られない。

 誰一人救えず、何一つ変えられず、残酷な未来を迎えてしまった預言者。彼女の生涯は万人が悲劇だと感じる凄惨なものだった。

 しかし、彼女の心はどうであっただろう。


 神を拒んだことを後悔したか。

 ――――気紛れな愛などいらぬと、自らの高潔を誇ったか。

 迫りくる破滅を諦観のままに受け入れたか。

 ――――最期まで足を引きずり、声を張り上げ抗ったか。


 今際のとき、なにを思っていたのだろう。


 数奇な人生を歩んだ彼女を想像し、涙することはできても、その境遇を経験して理解できた者は、誰もいないはずだった。



 ◇ ◆ ◇ 



 永井ながいりょうの鞄が緩やかな放物線を描いて飛んだのは、うららかな春めいた朝、桜花の舞う通学路でのことだった。

 背後から私物を奪われた挙句に遠投を決められた永井は、しかし憤ることもできず驚愕に声を失っていた。慌てて振り返ったところに見えた光景が、理不尽な仕打ちに対する怒りを静めてしまったのだ。

 白昼夢のように儚げな女子が、そこにいる。

 肌は触れれば抜けてしまうような白。異様なほど色の薄い長髪は、彼らの通う高校の風紀を鑑みれば、地毛なのだろう。青味がかった灰色の瞳は、湖面の静けさを湛えて永井を見つめていた。

 透明感――というより、希薄さを思わせる。瞬きをすれば、次の瞬間には消えてしまいそうだった。


「ごめんなさい」


 彼女は慇懃いんぎんに頭を下げたかと思うと、簡潔な一言を残し、魅入られたように立ち尽くす永井を足早に追い越していった。横断歩道を渡って通学路を脇に逸れていく。当の学校は、もう遠くに見えているのに、いったいどこへ行こうというのだろう。

 儚い雰囲気と反比例して清々しいほどに悪目立ちする外見、そして人の迷惑をはばからない奇行――――その異質さは悪い噂として学年中に広まっている。永井もまた彼女のことを、八丈野やえののことを知っていた。遠目にも見たことはある。まさか、同じクラスで過ごすことになる一年間の初日に、直接関わり合いになるとは思いもしなかったけれど。

 永井は呆然と彼女の後姿を見送ってから、はっ、と我に返る。なにはともあれ鞄を拾わねばならなかった。八丈野に投げられたそれは車道を飛び越えて反対側の歩道に墜落し、半分開いたままだったファスナーから筆箱やら文庫本やらを吐き出している。

 道を少し先に進んで、八丈野も通った横断歩道の信号が青になるのを待つ。道路を渡って鞄の方へ向かうと、そこには自転車を止めて屈み込んでいる女子がいる。散らばっていた荷物を集めてくれていたようだった。

 近づいてくる人影に気づいて面を上げた女子生徒は、それが永井であることを知って息を呑んだ。不愉快げに眉をひそめると慌てて立ち上がり、目を合わせることもなくその場を立ち去っていく。今ほど集め終わった永井の私物を横目にしたのは、それをのだろうか。それを思い止まってくれただけ、やはり彼女は親切だったのだろう。永井は嘆息することも傷心することもなく、ただ無感動な心のまま、砂埃にまみれた鞄を持ち上げる。

 なにかが変わるかもしれない。そんな気配を感じる、最初の一日。なにも変わらないことを願っていた永井は、期待する必要もなくそれが叶うのだということを、知っていた。

 ふと歩道に打ち捨てられたものが目に入る。先程の暴挙を働いた、八丈野の鞄だ。永井は今度こそ深い溜息を吐くと、腰を曲げてそれに手を伸ばす。思いも寄らぬずっしりとした重みに、つい眉根を寄せた。


 校内に入ると、雑多な話し声と物音とが薄膜のように身体を包み込み、浮ついた雰囲気を肌で感じられるようだった。永井は独り、二年生として一年間を過ごす新しい教室に向かった。

 永井の通う高校では毎年クラス替えが行われる。とはいえ、クラスや出身中学校の垣根を超えて広がっていた人間関係のネットワークは綻ぶこともなく、すぐに生徒達は自分の立ち位置というものを見出していくのだ。賑やかな集まりの中に、穏やかな集まりの中に、あるいは孤独の中に。この日の立ち回り方が一年間ずっとついて回るということはないはずだが、そこで固定されてしまう生徒がいるということもまた事実だった。一年間を針のむしろのような環境で過ごした、昨年の永井がそうであったように。

 教室に踏み入れたとき、粘度の高い視線が投げかけられるのを永井は痛いほど感じていた。それは二人分の荷物を持った奇妙な姿だけが原因だけではない。独りに慣れた者特有の負の感情に対するアンテナは、自虐的なまでの感度でいくつかの嫌悪の視線を捉えていた。しかし席に着いた永井を後ろから小突く手には、確かな親愛の感触がある。振り返れば、見覚えのある巨漢が永井を見下ろしていた。


「おぉ、クマ。でかすぎて気づかなかった」

「この野郎」


 自然と飛び出した軽口には、笑い混じりの悪態が答える。名は体を表すというべきか、まさに熊のような巨体の熊倉とは、長い付き合いだった。小学校からの友人との距離感など、本来はこんなものだ。

 しばらく他愛もないことで話し込んでいると、チャイムの音を引き連れるようにして担任の教師が現れた。たるんだ顔の皮と厚ぼったい瞼から、陰でガマなどと呼ばれている高齢の女教師だ。彼女に引率され、永井とクラスメイト達は体育館へ向かった。

 締めつけるような寒さの残る体育館に整列してしばらく、始業式が始まる。

 式はつつがなく進行した。歌詞もうろ覚えの校歌、一本調子な校長の長話、最後に連絡事項を教育指導の教師から。いつもどおりの代わり映えのしない集会ではあったが、近くに不審者が出没して本校の生徒が被害に遭ったということだけがぴりぴりとした緊張感をもって伝えられた。

 まぁそういう季節だし、と他人事のように考える生徒がほとんどの中、永井のクラスの生徒だけはいやな予感を覚えていた。この始業式に一人の女子の姿がなく、彼女についての噂話が流れていたからだ。皆の予感が裏づけられたのは、始業式の直後のことだった。


 ホームルームが始まるまでの休み時間、がらりと音を立てて開かれた扉が招き入れたのは、始業式に姿を現さなかった八丈野だ。すっ、と静まり返る教室。やはり件の不審者に遭遇したのは八丈野だったのだ、と皆が確信していた。彼女が警察官と道端で会話しているのを見た、という話が広まっていたのだ。

 彼女は周囲の関心に興味がないのか、あるいは気づいてすらいないのか、まっすぐ前を見ながら静寂の中を音もなく歩んでいく。机と机の間を縫うように進み、永井の隣の席まで。そしてそこに自身の鞄が置いてあることに気づいて細い首を小さく傾げた。道端に放り投げてきたはずの自分の持ち物がなぜここにあるのかと不思議がっているのだろう。

 それが今朝方奇行に巻き込んだ男子が運んできたものだとは思いもよるまい、と思っていた永井だが、八丈野がぐるりと頭を巡らせてきたのには小さく身体を震わせた。

 透徹した――――という言葉が、これほど似合う瞳があるだろうか。その色彩も、視線そのものも。目と目を合わせるつもりはなかったというのに、永井は吸い寄せられるように八丈野を見つめてしまっていた。

 そのとき、大きな咳払いが聞こえてくる。驚いて皆が教壇を見れば、いつの間にやらガマが現れていた。彼女に気づいた生徒が少なかったのは、ガマの影が薄いというよりは、八丈野の存在感が圧倒的すぎたせいだ。担任教師の登場に気づいて慌てて着席した生徒達を、ガマは細い目の隙間から鋭い視線で一瞥する。

 ――察しなさい、と無言の圧力。射竦められた生徒達は事件のことに触れるなという警告に心の中で頷くしかなかった。もっとも八丈野は誰よりも孤立した人間であったため、釘を刺されずとも彼女に無遠慮な質問をする生徒などいないのだろう。

 隣のクラスの騒ぎ声すら聞こえてくる静かな教室の中、淡々とガマによる連絡事項の伝達が行われる。学校からの配布物を受け取り、提出物をガマに渡す。これで今日のカリキュラムは終わりで、明日からが本格的な学校生活の再開だ。終礼を終えると全員が我先にと、重い空気から逃れるために教室の出口へと殺到した。

 彼らを尻目にのんびりと帰り支度をしている永井を見下ろす人影がある。永井は座っているのだから自然と見上げることになるが、そうでなくとも彼は学年どころか学校で一、二を争うほどの巨体だった。しかしその熊倉は、丸まった背、疲れた声と表情のせいで、本来よりも一回り小さく見える。


「諒。俺、先に帰る」

「これから病院か?」


 永井が問うと、熊倉は弱々しく頷いた。憔悴してはいるが彼自身は健康体そのものだ。だから、病院に行くのは別の用事。


「遠いんだろ。気をつけろよ」


 永井の気遣いがこもった言葉に安堵したような微笑を浮かべ、熊倉も教室を出て行った。ほんの少しだけでも安らげる時間がほしいのだと、彼の痛切な視線が語っていた。

 のそのそと去っていく大きな背を見送る永井は、隣の席にまだ人が残っていることに気づく。

 八丈野だ。

 立ち去る熊倉の背を、どこまでも見通すような眼差しで追いかけている。そこにはどこを見ているのかわからないという気味の悪さはなく、彼女が見ようとしているなにかを、確かに見ているのだと思わされた。

 奇行と悪名が広く浸透している八丈野。ただの変わり者だと勝手に想像していたが、それにしては、どこか様子が違う。視線を感じたのか、彼女は驚くほど唐突な動きで永井を振り返った。日本人離れした淡いグレーの瞳に自分の姿が映る。貫かれるような感触を、覚えた。


「その鞄、道端に落ちてたから持ってきたんだけど、余計なことだったら悪かった」


 ばつの悪さを誤魔化すように言うと、八丈野はゆっくりと首を横に振った。金糸のような髪が漂うようにして揺れている。


「ううん、ありがとう。交番に取りに行く手間が省けてよかった」


 まるで、それが日常茶飯事のような口振りだった。それも気になったが、永井は彼女の芯のある声音に気を取られている。

 あまりにもイメージが違っている。奇行や挙動不審が原因でいとわれているというのだから、もっと不安定で危うい人間を想像していたのに、彼女は永井の知る誰よりも強い眼をしていて、誰よりも穏やかな声をしていた。

 必死で返す言葉を探す永井の心中を知ってか知らずか、彼女はおもむろに自身の鞄に手を伸ばした。ひどい扱い方をしているようで、ところどころが擦り切れていて小汚い。しかしそういう扱い方を想定しているかのように丈夫な代物だった。

 そして彼女が取り出したのは絆創膏だ。一体なぜこのタイミングで、と思っていると、彼女は自然にそれを差し出してくる。思わず受け取ってしまった永井に向かって、彼女は言う。


「それ、あげる」


 それきり永井の返答を待つこともなく、彼女は突然に教室を去っていく。さよならもなにもない本当に唐突な帰宅だった。

 取り残された永井は意図不明な絆創膏を眺めていた。帰り道、怪我でもしてしまえ、という意味だろうか。だとしたら彼女は怒っているのかもしれなかった。イメージとは大変異なっていたが、少なくとも変わり者なのだということは、この突拍子もない贈り物が証明してくれている。

 八丈野に少し遅れて永井もまた帰路につく。とんだ変人と同じクラスになってしまったものだと思っていたが、同時に自分には関係ないとも思っていた。少なくともこのときは、深く関わり合いになる気など毛頭なかったからだ。


 その帰り道、永井はグラウンドの隅で陸上部の女子が怪我をしているところを目撃する。マネージャーが備品の補充を怠っていたのか、数人の部員が救急箱を覗きながら悪態をついていた。

 ちょうどいいと思い、永井は彼女らに近づいて未開封の絆創膏を押しつける。永井のことを知らなかったらしい女子部員は頭を下げて礼を言っていたが、他の部員はそうではなかった。永井のことを、のことを、知っている様子だった。それは一歩退く足、歪んだ表情という形で現れている。

 改めて下校する永井は、しばらくしたところで振り返った。先程会話した陸上部員達が身を寄せ合って話し込んでいるのが見える。なにかを気味悪がっているような、不快そうな様子で。ちらちらと永井を盗み見る視線には、ほの暗い悪意が垣間見えた。

 八丈野の不思議な贈り物は妙なところで役に立ったが、もしこの仕打ちを知っていたら、同じことをしただろうか。

 意味のない想像を鼻で笑い飛ばして歩き出し、もう永井は振り向かなかった。

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