烏有はフラフラと、町中を歩いていた。どれもこれもが夢幻の景色のように、目に映る。これは現実なのだろうか。目が覚めれば旅の途中で、ひとりきりなのではないか。

 そんな思いに捉われながら、烏有は大地を踏みしめている感覚のないまま、気づけば明江の発展の要となっている、酒造所の前に立っていた。その先には、蕪雑と出会った山がそびえている。

「ああ」

 烏有は息を漏らした。この山での出会いから、明江は生まれた。夢が形になっていく早さに追いつけぬまま、いつの間にか取り残されている気分になり、疎外感そがいかんを覚えていった。

「僕が、領主に」

 蕪雑に計画を持ちかけたとき、そこまで考えてはいなかった。旅に出たことで、その資格は失せたと思っていた。財も身分もなにもかも、置き去りにしてきたつもりだった。

 烏有は目を閉じ、玄晶の両親を思い浮かべた。彼等はずっと、自分を案じてくれていた。どこに行ったかわからぬ自分の、財も身分も守り続けていてくれた。

 胸の辺りが熱くなり、烏有はそこに手を当てた。

 玄晶の気持ちも伝わっている。蕪雑たちの想いも、とてもありがたい。自分が領主になる道があるのなら、なりたいとも思う。けれど求め続けていたものが叶ったとき、自分がどうなってしまうのかという漠然とした恐怖もあった。

「僕は、弱いな」

 両親の死を受け止め乗り越えるのではなく、葬儀の席で聞こえた流言を理由に逃げ出した。そんな弱い自分が、領主になどなれるのかという不安に、彼等の信頼が痛いほどに突き刺さる。

「迷う必要なんて、ないじゃないか」

 また逃げ出すつもりかと、烏有は自分に語りかけた。望むものは目の前にあるというのに、そこから顔をそむけるつもりかと、自分を叱咤する。

 深い呼吸を繰り返し、不安と恐怖をなだめていると、声をかけられた。

「あれっ。烏有さんじゃねぇか」

 酒造所から出てきた、たくましい体つきの中年男が、親しげに近寄ってくる。たしか蕪雑とともに山で会った男だなと思い出し、烏有は笑みを返した。

「こんなとこまで、視察かい」

「視察、というわけではないよ。どうなっているのか、きちんと見ていなかったと思ってね」

「そうかぁ。忙しそうだもんなぁ。聞いてるぜ。市のあたりをうろついて、夕方になりゃあ食堂で笛を鳴らしてんだってな。そうやって、自分の目でたしかめて、理想の国にしていこうってぇんだろう」

 烏有は肯定とも否定ともとれる、あいまいな首の動きで答えた。

「すげぇよなぁ」

 男が腰に手を当てて、町に顔を向ける。烏有もそれにならった。

「なぁんもなかった、だだっぴろい平野がよぉ。こうして、国になってんだもんなぁ」

 しみじみとした男の声に、烏有は無言でうなずいた。

「夢を見てんじゃねぇかと思うぜ」

「僕も、そう思うよ」

「へっ? 烏有さんもかい。そんなら、本当に妖怪変化に化かされてんのかも、しれねぇな」

 カラカラと男が笑う。烏有もつられて、笑みを浮かべた。

「すまねぇな、烏有さん」

「え」

「俺は正直、アンタの言う興国ってのを、信用できていなかったんだ。剛袁が村を造るって考えりゃあいいって言ったときは、そんならできそうだと、話に乗ることにしたけどよ。あんまり派手はでなことをしちゃあ、甲柄こうえの、俺等を牢にぶち込んだ連中が、黙ってねぇんじゃねぇかと心配してた」

「それは問題ないよ。決着はついているからね」

「ああ。あの決闘は、興奮したなぁ。さすがは俺等の蕪雑兄ぃだよな」

 男が誇らしげに胸をそらす。

「拳で語り合うというのは、僕からすれば不思議な光景だったよ」

「烏有さんは、一発ぶんなぐられたら、ポッキリ折れちまいそうだもんなぁ」

 邪気のかけらも遠慮もない感想に、烏有は苦笑した。

「でも。あれのおかげで、俺等も寧叡への見方が変わったし、アイツ等が苦労してきて、追ン出されたってこともわかったし。蕪雑兄ぃは、さすがだよなぁ」

「決闘を見ているだけで、そんなふうに気持ちが変わるものなのかい」

「あれっ? 烏有さんは、そうはならなかったってぇのか。見ていてこう、ウズウズするっつうか、汗が吹き出すっつうか、血が沸騰ふっとうしそうっつうか。そんな感じになっただろう」

 烏有がうなずけば、男はうれしそうに顔をクシャクシャにした。

「肌で本気だって感じられりゃあ、それで十分だ。拳で語り合うってなぁ、自分の全部をぶつけるってこった。寧叡はそこに、なんの小細工もしなかった。全力で蕪雑兄ぃと、やりあってた。寧叡が連れてきた連中も、本気ンなって応援してた。むきだしで、ぶつかりあって、声を張り上げて本気で応援したんだ。本性がわからぁな」

「そういう、ものなのか」

「おう。そういうもんだ。あんなにしびれるやりとりは、めったとお目にかかれねぇ」

 男がうっとりと目を閉じる。烏有もあの日の光景を思い出した。表皮が淡い興奮にうずく。

「そうか。……ああ、そういうことなのか」

 烏有の中で、蕪雑の言いたかったことがひらめく。

「だからアイツ等はもう、仲間なんだよ」

 男の豪放な笑みが、烏有にはまぶしかった。

「あんなふうに、スパッとなんでも解決できりゃあ、いいんだけどなぁ」

 やれやれとぼやく男に、烏有は首をかしげた。

「なにか、問題でもあったのかい」

「こう、一気に人が増えちゃあ、いろいろとあらぁな。ないほうが、どうかしてるってぇのは、わかってんだけどさぁ」

 後頭部を掻きながら、男は酒造所を見上げた。

「こんなでっけぇの、場所があまって仕方ねぇって、はじめは思っていたけどよぉ。いろんなところに売るってなったら、そんだけ人も場所も必要ンなる。いまじゃあ、ちょうどいいぐらいなんだが、どっからか流れてきた連中が、仕事をくれって言ってくる。商売人が、自分とこに有利な条件で納品してくれって、交渉にくることもある。まあ、こんだけ人がウジャウジャ集まりゃあ、ずるがしこい連中だってまぎれて当然なんだがな。いきなり増えたもんだから、そういう手合いが多くてさ」

「そうだったのか」

「中枢の官僚が視察に来たろう? まいないを、さりげなく出そうとした奴がいてよぉ。案内役の剛袁が見つけてとがめたから、よかったものの。受け取られちまってたら、これから先、ずっとそれを要求されちまう。そういうとこまで、頭が回らねぇのかねぇ」

 烏有の眉間にシワがよる。

「おっと。そんな顔すんなよ。俺たちゃあ、アンタの理想を知ってる。だからこそ蕪雑兄ぃといっしょに乗っかったんだ。そういうのを、しようってぇ奴を見つけたら、叩きだすようにゃあしてるけどな。人や物が増えりゃあ、見えなくなることもあるんだよ。だから、今回のは未遂だったし、勘弁してくれよな」

「怒ったわけじゃないよ。……その。そういうときは、どうするんだい」

「そういうって?」

「人が増えると、見えなくなるんだろう? その対処法だよ」

「ああ。そりゃあ、簡単さぁ。きっちりとした元締めが、太い柱みてぇに、まっすぐに立ってりゃいいんだ。そうすりゃあ、それを見た連中が、それにう。そうなれねぇ奴ぁ、目立つから見つけやすくなるし、はじかれる。柱が曲がりゃあ、周囲も曲がる。柱が真っ直ぐなら、周囲も真っ直ぐだ。そうやって元締めが、気をつけていりゃあいいのさ」

「そういう……ものなのか」

「おう、そうさ」

 言い切った男が、身をかがめて烏有の耳元に顔を寄せた。

「で。どうなんだ。府になれそうなのか」

「いまのところ、問題はなさそうだ」

「てぇこたあ、領主がえられるってこったな」

「そうなるね」

 ふうむと男が思案げに腕を組んだ。

「不満なのかい?」

「不満っつうか、不安だな」

「どうして」

「府になりゃあ、いろいろと助かることがあるってぇのは、知ってるんだ。剛袁が説明をしてくれたからな」

「そんなことを、していたのか」

「おう。俺等が府になりゃあ、また甲柄のころに逆戻りなんじゃねぇかって、袁燕に言ったんだよ。そしたら剛袁が来て、いいところと悪いところと、両方をきっちり説明してくれた」

「……そうだったのか」

「蕪雑兄ぃが豪族ンなるってんだから、そこんとこは安心してんだ。明江の、ぶっとい柱は揺るぎねぇってな」

 烏有の脳裏に、烏有が領主にならなければ、豪族にはならないと言った蕪雑が浮かぶ。蕪雑を心底、信じている男の笑顔に、烏有は唇を堅く結んだ。

「けどよぉ。蕪雑兄ぃと領主が、うまくいかなかったらどうなるんだって思うんだよな」

「それは……」

 言いかけて、烏有はやめる。

「いや、なんでもないよ。きっと、心配ないんじゃないかな」

「だといいんだけどな。ああ、そうだ。いっそのこと、烏有さんが領主になれりゃあ、いいのにな」

「えっ」

「そうすりゃあ、俺等はなぁんの心配もしねぇでいられる。玄晶さんは、けっこう力のある官僚の一族なんだろ? なんとかして、そうなるようにしてくんねぇかなぁ」

 烏有は本気らしい男を見上げた。

「なんでぇ。そんな間の抜けたつらも、できるんだな」

「……驚いて当然だろう。そんなことを言い出すなんて」

「へへっ。そりゃそうか。けどな、けっこう本気で思ってるんだぜ。俺だけじゃねぇ。山の集落にいた連中や、その家族なんかは、そうなりゃいいと考えてる」

「そんな……、僕が領主になるなんて」

「夢物語だよな。忘れてくれ。でもさ、明江は皆で造った国だからよぉ。なんか、住まわせてもらってる、てんじゃあなく、住んで暮らしてんだっていう、いまの感じをなくしたくねぇんだよ」

 烏有は目を見開いた。

「うん? どうしたんだよ、烏有さん」

「ああ、いや。住まわせてもらう、ではなく、住んで暮らしている……という感覚というのに、すこし、驚いたというか、なんというか」

「あはは。あんま、深く考えねぇでくれよ。なんとなく、そんな気がしてるってぇだけだからさ。そうだ、烏有さん。せっかくだし、作業の見学していくかい?」

「邪魔じゃなければ」

「烏有さんなら、いつでも大歓迎だ。ついでに休憩中の奴等に、笛のひとつも聞かせてやってくれよ」

 裏表のない男の笑みが、烏有の心に響いている。男がなにげなく言ったものこそ、自分の求めている“民のための国”ではないかと、烏有はくりかえし胸中でたしかめた。

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