「いい機会だと感じたのだがな」

 ゆったりと長椅子の背もたれに体重を預けた玄晶が、人の悪い顔になる。烏有は彼から目を逸らし、茶杯に手を伸ばした。

「部屋に来てくれというから、どれほど重大な話かと思ったら、それか」

「重大な話だろう。先ほどは袁燕のおかげで助かったとでも、思っているのだろうが、問題が先伸ばしになったにすぎない。近いうちに、このことをどうすべきか、決めておかなければな。剛袁も、気にかけている」

 烏有はゆるゆるとかぶりをふった。

「僕は楽士の烏有。それでいいじゃないか」

「いいや。よくない。だから私も剛袁も、気をんでいるのだよ。ごまかしたりしないよう、酒ではなく茶にしたのだが、酔いの手助けがなければ吐露できないというのなら、用意しようか」

「必要ない。僕の考えは、変わらないよ」

ねているくせに」

「拗ねる?」

 顔を上げた烏有の目に、優位者のほほえみを浮かべた玄晶が映る。

「のけ者になっているとでも、感じているのではないか」

 烏有は息を呑んだ。そらみろ、と玄晶が表情で示す。

「このところ、私と蕪雑、剛袁にまかせきりで、昼はあちこちを歩きまわり、夕方には食堂で楽士の仕事をしていると聞いている。自分がいなくとも問題はないとでも、勝手に思いこんでいるのではないかな」

「それは……」

「思っていたのだろう」

 烏有は床に視線を落とし、膝の上で拳を握った。

「実際、必要がないだろう。僕は玄晶から教わっている立場なんだ。あれこれと意見をするほどの知識や見解を、持ち合わせてなどいないからね」

「袁燕とおなじことを言う」

「え」

「袁燕に、会議にどうして出ないのかと聞いたら、いても仕方がないからだと答えられた。烏有もそう考えていたとはな」

「……」

「まったく。勝手に疎外感そがいかんを持たれても、困るのだがなぁ」

「僕や袁燕がいなくとも、なんの問題もなく、物事は進めていけているだろう?」

「だから、必要などない。……そう言いたいのか」

 玄晶の声が低くなり、烏有は気迫にたじろいだ。

「会議で発言をする必要がないから。会議にいてもいなくても、とどこおりなく進むから。会議の内容が、よくわからないから」

 言いながら静かに立ち上がった玄晶は、表情を消して烏有に近づく。

「だから、自分は必要ない、か」

 平坦な玄晶の声音に、烏有は呆然と、そびえるように立つ彼を見上げる。腰を折り曲げた玄晶は、鼻先がつきそうなほど顔を近づけ、歯の隙間からうなるように、烏有に言葉をたたきつけた。

「無責任、この上ないな」

 ビクリと震えた烏有の顔を、玄晶の長い指が乱暴に掴む。無理やり視線を合わせられ、烏有は玄晶の怒りにたぎる瞳に映る、自分を見た。

「責任を放棄して、自分は必要がないと勝手に拗ねて。そしてこれから、どうするつもりだ。夢を託したのだからとでも、自分に向けて言い訳をして、どこかへ流れるのか。そしてまた、蕪雑のような男を見つけ、興国を持ちかけ、新しい明江を造りあげる? ふざけるなよ」

 玄晶の怒りの原因がわからず、これほどたける姿を見るのもはじめてで、どうしていいかわからぬ烏有は、石のように身じろぎもせず、彼の怒りを浴びていた。

「私がなぜ、これほどまでに明江の建国に尽くしていると思っている。蕪雑がなぜ、あんなふうに、君が領主になることを勧めたと考えている。――必要がない、だと? それは自分で決めることではなく、君の周囲にいる人間が感じることだ。どうして周りを信用しない。なぜ、ひとりで抱えて決めつける。あのときだってそうだ。君はひとりで抱え込み、誰にもたよらず、勝手にどこかへ消えてしまった。……周囲のことなど、私のことなど、すこしも信頼していなかったからなのだろう」

 語尾を落とした玄晶は、なにかを振り払うように烏有に背を向けた。

「もっと、周囲に目を向けてみるといい。この国の機軸がどれほど淡くもろいのかを、確認すればいい」

「淡く、もろい――?」

「ここまで急速に発展した理由を。建設途中の国に、府とするための視察団が来た意味を。……じっくりと、考えてみるがいい」

 玄晶は疲れ切った様子で、烏有に背を向けたまま長イスにもたれかかった。

「玄晶」

「話は、終わりだ。呼び出してすまなかったな」

 拒絶を汲み取り、烏有は腰を上げた。

「ああ。それじゃあ」

 重苦しい霧に心を包まれ、烏有は玄晶の部屋を後にした。

 玄晶のあんな姿を見るのは、はじめてだ。

 扉を閉めた烏有は、薄暗い廊下の先に目を向けた。自分の部屋はすぐそこなのに、永遠にたどり着けない暗闇に迷いこんでしまった心地になる。

「ばかばかしい」

 つぶやいて、烏有は自室へ足早に戻った。扉を開けて、寝台に倒れこむ。烏有の脳裏に、激昂げっこうした玄晶の姿と声が、こびりついている。

 しばらくそれに苛まれていると、扉が軽く叩かれた。起き上がり、声をかける。

「はい」

「袁燕だよ。入ってもいいかな」

 不思議に思いつつ、烏有は扉を開けた。不安そうな袁燕が、暗い室内をうかがいながら問う。

「寝てた?」

「いや。さっきまで、玄晶の部屋にいたんだ。すぐに灯りを点けるよ」

 どうぞと身振りで招きいれ、烏有はろうそくに火を点けた。

「どうしたんだい」

「……うん。あのさ、烏有も俺っちとおなじこと、玄晶に言われたのかなって思ってさ」

 袁燕をイスに座らせ、烏有は水差しを寝台の枕元から卓へ移動させた。茶杯を袁燕に差し出すと、力なく「ありがとう」と受け取った彼の隣に座る。

「おなじこと、とは?」

 もじもじと茶杯に指を這わせた袁燕が、うつむいたまま答える。

「必要ないのかなって思ってたこと、玄晶にばれてた」

「ああ」

「烏有も、そのことで呼ばれたのかなって」

「……そう。僕も、その話をされたよ」

「そっか」

 袁燕の茶杯に、烏有は水を注いだ。飲み干した袁燕が、顔を上げる。

「烏有のこと、言ったわけじゃねぇよ」

「わかっている。玄晶は、僕のことにも気づいていた。あの様子だと、けっこう前から、勘づかれていたんじゃないかな」

「そっか」

「袁燕が玄晶に言ったと、僕が考えていないかどうか、心配だったのか」

「いや。違うけど、なんかちょっと、気になったから」

「そうか」

「うん、そう。でさ、玄晶に、どんなことを言われた?」

 烏有はわずかに目を逸らし、言葉を探した。

「必要かどうかは、自分で判断するものじゃなく、周囲が決めることだと言われたよ」

「俺っちも、そう言われた」

「そうか」

「うん」

 沈黙が、ふわりと部屋に舞い降りる。しかしそれは、共通の苦悩を抱えた者同士が、わかりあうための無言の会話のようで、居心地の悪いものではなかった。

「あのさ」

 袁燕が口を開く。

「玄晶の言う通りかもしれない」

「……」

「たとえばさ、水を飲むかって言われて、いるかいらないか、決めるのは俺っちだろ。勧めた奴が、俺っちに水がいるかいらないか、決めるわけじゃない」

 袁燕が指先で茶杯をもてあそぶ。クルクルと回る茶杯の柄を、烏有はながめた。

「それみたいな感じなんじゃないかな。俺っちが、いるかいらないか。それは相手が決めることで、俺っちが勝手に判断するモンじゃない。俺っちは、小難しい話はサッパリで、いてもいなくても会議は進むし、置いてかれてるみたいな気がして、もういらないんだなって考えたけどさ。そうじゃないんだって、玄晶に言われた」

「なんて言われたのか、聞いてもかまわないかい」

「袁燕がいることで、息が詰まらずに会議ができるって。いざというときに、すぐに動いてくれる人がいるのは、たのもしいって。民のこまごまとした情報を、なにげなく拾ってきてくれるから、ありがたいって。だから、わからなくても参加してほしい。役にたっているかどうかは、自分じゃなくって、周りが決めるものなんだって。――だからさ、烏有」

 袁燕が茶杯を置いて、烏有の手を握る。

「もっと、皆を信用しよう。信用していないから、疑っちまったんだ。そうさせてすまないって、玄晶には謝られたけどさ。信用していなかった俺っちも悪いなって、思ったんだ。だからさ、だから、烏有。俺っちたちを、信用してくれよ」

 真摯な瞳に、烏有は笑みとも悲しみともつかぬものを浮かべ、袁燕の手を握り返した。

「ありがとう、袁燕」

 不安そうに、袁燕は身を乗り出して烏有の顔を覗きこんだ。

「大丈夫か、烏有」

「ああ。……じっくりと、考えてみることにするよ」

「そっか。そんじゃ俺っち、部屋に帰るな。なんか、言いたいことだけ言い捨てて帰るみたいで、ごめんな」

 烏有は首を振った。

「袁燕のおかげで、言われたことがわかりやすくなった。ありがとう」

「えっ。烏有のほうが、頭がいいのに? ああ、そっか。頭がいいから、よけいなことを考えちまったりすんのかな」

「袁燕のほうが、よほど頭がいいと思うよ」

「へへっ。ありがとな、烏有。それじゃあ、おやすみ。また明日な」

「ああ、明日。おやすみ、袁燕」

 訪れたときよりも明るい様子で、袁燕が去っていく。闇に吸い込まれるように、自室へ戻る袁燕の後姿をながめつつ、烏有はつぶやいた。

「信用、か。……していないはず、ないじゃないか」

 胸に痛みが走り、手を添える。

 それならどうして正体を明かさぬのかと、闇の奥から声がして、烏有は歯をくいしばり、逃れるように扉を閉めた。

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