3
剛袁は玄晶の船室の扉を軽く叩いた。
「はい」
「剛袁です。入ってもよろしいですか」
「どうぞ」
玄晶がにこやかに扉を開く。
「来るだろうと、思っていたよ」
剛袁はわずかに眉根を寄せて、足を踏み入れた。室内は寝台と小さな丸い卓のみの、簡素なものだった。卓の上には、酒壺と杯がふたつ置かれている。
「どうぞ、座って」
促されるまま、剛袁は寝台に腰かけた。玄晶は杯に酒を注ぎ、片方を剛袁に差し出す。
「聞きたいことは、烏有について? それとも、国造りの話かな」
「どちらも聞ければありがたいのですが。……まずは、貴方が何者なのかを、教えていただきたいですね」
油断ならぬ目で玄晶を威嚇しながら、剛袁は杯を受け取った。玄晶は軽く肩をすくめて、剛袁の隣に座る。
「食事の席で、説明をしたと思うけれど」
「烏有の所属していた楽団と親しい、岐の官僚の息子。それだけでは納得できかねます」
「どういうところが?」
剛袁は体を玄晶に向けて、座りなおした。剛袁と玄晶の背丈はそう変わりないが、身幅が圧倒的に違っている。細身というほどではないが、すらりとした容姿の玄晶は、堂々とした体躯の剛袁と並ぶと小さく見えた。
「官僚といっても、文官と武官がありますし、位によっては中枢での発言力がまるで違う。烏有の物言いには、府となる許可を必ず得られるという感じがありました。しかし、それほどの力ある方が、たかが楽士のためだけに、息子を送るとは思えません。在り得ないんですよ」
ウソや誤魔化しは通じないと、剛袁は全身で示した。威圧的な圧迫を発する剛袁に、玄晶はあくまでも柔和な態度で接する。
「君は、豪族の家に勤めていたと聞いたけれど、役人を目指していたのかな」
「ええ」
「そうか。君のほかに、そういう知識のある人物は、仲間内にどれほどいるのか、教えてくれ」
「俺だけです。あとは工夫や道具師、猟師や農夫。それと酒場で男の相手をする、
剛袁の目に敵意が宿る。玄晶は軽く、幾度も縦に首を動かした。
「それで君は役人になり、豪族や官僚に意見のできる立場となって、すこしでも民の暮らしをよくしようと考えていたのだな。ところが、そんな君の勤勉な姿と男らしくたくましい姿に、豪族の娘は恋わずらいを得てしまった」
「俺のことは、どうでもいいんです。貴方がどういう方なのかを、お教え願いたい」
「そう答えを急ぐものではないよ。役人になろうと考えているのなら、こんなふうに、もどかしい時間も手玉に取れるくらいの、ゆったりとした心地を持つべきだ。でなければ
グッと息を飲んだ剛袁が、それをごまかそうと杯に唇を当てた。
「まっすぐな心根を持つというのは、すばらしいことだ。だがな、それを押し隠して立ち回らなければ、強引にへし折られてしまうよ。君のように、後ろ盾を持たないまま、役人になろうとする者はとくに、な」
「どういうことですか」
「そのまんま。言葉のとおりだよ、剛袁。もし君が、うまく立ちまわれる気質を持っていたのなら、君の雇い主は罪ではなく、後見人という立場を、肩にかぶせてくれたろうね」
剛袁の目が静かに見開かれる。玄晶はそれを見ながら、酒を飲んだ。
「そういうことだ。役人になられてはやっかいだと、君の雇い主は考えた。だから娘の恋心を利用して、君を追いやったんだよ」
剛袁は奥歯を噛みしめ、両手で杯を強く握った。指が白くなるほど力を込めて、理不尽な仕打ちにくやしさを滲ませる剛袁の杯に、玄晶は杯を重ねる。
「君はもっと、ずるがしこくならなくてはな。不正を働け、という意味ではないよ。不正や悪事は、きっと君には向いていないだろうからな。ただ、そういうものと柔軟に折り合いをつけて、大切なものを守れる強さを持つべきだ。今でも役人になりたいと、考えているのならな」
「役人になる道があると、言っているように聞こえますが」
「そう言っているのだよ、剛袁。君が役人になる道はある。君の実直さが災いして、自ら閉じてしまった夢への道を、烏有が開こうとしている」
「烏有が?」
「そう。まだ、わからないのか」
たのしげな玄晶の瞳に、剛袁の困惑顔が映る。玄晶はクスクスと息を漏らして、立ち上がった。
「君には、今後のためにも私や烏有の過去と現在を、伝えておいたほうがよさそうだな。もうすこし、ふたりで飲んでいてもいいのだが、君はきっとイライラしてしまうだろう。私に付き合えるくらいの、気持ちの余裕ができたころに、誘わせてもらうよ」
玄晶が杯を
「飲み干して、ついておいで。烏有のところへ行くよ。……君の元気な弟と、子どもみたいな頭目は、どこにいるのだったかな。見つからないようにしなければね」
剛袁はあわてて酒をあおり、立ち上がった。
「船の上は珍しいからと、ふたりは甲板にいるはずです。そこで眠るとも言っていましたから」
「そうか。それなら、会わずに済むな。おいで、剛袁」
手のひらを差し出され、剛袁は戸惑う。興味深げに見てくる玄晶から目を逸らし、剛袁は立ち上がった。残念そうに、玄晶が差し出した手をおろす。
「烏有はきっと、私が連れてきた工夫たちと話をしているはずだよ」
「どうして」
「とにもかくにも、船着場がなければならないと、地図を見て判断をしたからな。私たちが食事を楽しんでいる間に、工夫に川原の地形の調査を行わせておいたと教えたら、目を輝かせていた。いまごろ、どのあたりにどの規模のものを造るのか、話し合っているのではないかな」
大部屋へ向かう玄晶の半歩後を、剛袁は歩いた。
「どうして、そこまで烏有に肩入れをするんですか」
「罪滅ぼしのような、自己満足……かな」
「罪滅ぼし?」
「5年も消息のわからなかった烏有が、便りを送ってくれただけでなく、頼ってくれた。それだけで、できうる限りのことをしようと、考えて当然だとは思わないか? 袁燕が突然、どこかへ旅に出てしまい、5年ぶりに便りをよこしてきたと想像をしてみてごらん。私の気持ちが、すこしはわかるのではないかな」
剛袁は足元に目を落とし、しばらくして玄晶の後ろ姿に視線を当てた。
「烏有は貴方にとって、血を分けた兄弟のように、大切な相手なのですね」
玄晶が、いたずらっぽい笑みを浮かべて振り返る。
「血の繋がり、というものを大切にするのはいいことだが、豪族や官僚などには、その認識が当てはまらないと覚えておくといい。跡目のイスは、ひとつしかないからな。それはそれは、醜い争いが繰り広げられるぞ」
剛袁は口を硬く結び、縦にも横にも首を振らなかった。それを興味深そうに横目で見つつ、玄晶は大部屋の扉を叩く。
「失礼しても、かまわないかな」
応じる声があり、扉を開ければ、ひと目で熟練工とわかる威厳と風格を備えた男と烏有が、地図を前に額を突き合わせていた。
「烏有、大切な話がある。ここからなら、烏有の部屋がどこよりも近い。剛袁と邪魔をさせてもらいたいから、招いてくれ」
烏有はいぶかしげに、玄晶と剛袁を見比べた。
「工夫は、明日も早くから調査をすることになっているからな。そろそろ休んでもらわなくては」
有無を言わさぬ声音に、烏有はうなずいた。
「詳しいことは、もっと調べなきゃ、はっきりとは言えませんから」
工夫がとりなすような言葉をかける。
「わかりました。それでは明日、また話し合いをするとしましょう」
工夫と就寝の挨拶を交わした烏有は、玄晶と剛袁の横をすりぬけるように大部屋を出て、自分にあてがわれた船室へ向かった。
無言のまま扉を開けて、ふたりを通す。廊下を見回してから扉を閉めた烏有は、強い目で玄晶を見た。
「蕪雑と袁燕を除いておこなう大切な話というのは、僕の素性に関することだね」
玄晶から剛袁に視線を移動させながら、烏有は問うた。
「ほかに何があるというのかな、鶴楽」
寝台に腰を下ろした玄晶に、烏有はぎょっとする。
「玄晶!」
「かまわないではないか。これから、剛袁にはすべてを聞いてもらうのだからな。君の本来の名前を呼んでも、差し支えはないだろう」
「本来の名前とは、どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。烏有というのは鶴楽が旅に出た後に、自分でつけた呼び名だ。白い鳥である鶴から、漆黒の鳥、
玄晶の瞳に悲哀が浮かぶ。烏有は拳を握り、顔をそらした。剛袁は烏有を見下ろし、一言一句、たしかめるように問いを発する。
「名前を偽って旅をしていたのなら、身分もそうなのではないですか。烏有、いえ……、鶴楽。貴方はいったい、何者なんです」
「剛袁には、話をしておいたほうがいい。今後のためにもな」
「どういう意味ですか。僕の過去なんて、関係ないはずですよ」
「おおありだよ、鶴楽。国を興すのだろう? そうなれば、諸府との連絡役や、調停役が必要となる。村のうちはなんとかなるだろうが、それが大きくなってきたときに、府として認められるための治世を、いったいどうするつもりでいるんだ。彼等に身分を偽ったまま、鶴楽ひとりでそれを担うつもりだというのなら、ずいぶんな
「それは……」
「思うだろう」
玄晶の言葉を受けて、烏有は剛袁の目を射抜くように見た。剛袁もおなじ強さで見返す。
「すべてを打ち明けて、心底から信用してもらったほうが、いろいろとやりやすいのではないかな」
玄晶の後押しに、烏有は口を開いた。
「僕の両親は、官僚をしていたんだ。文官だよ。申皇の治める世の
「楽士というのは、ウソだったんですね」
烏有は首肯した。
「旅に出てからはそうだったのだから、まるっきりウソというのでもないさ。そうだろう、鶴楽」
「楽士として岐の官僚に知り合いを持っている、と言ったことはウソだからね。ウソつきと呼ばれても、反論はしないよ」
「その部分は、すべての話を聞き終えても納得ができなかった場合に、改めて非難させていただきます」
硬い表情の烏有と剛袁に、玄晶は手を差し伸べた。
「そんなに怖い顔をしていないで、もうすこし気をゆるめてはどうかな。酒でも用意させようか」
「すぐに終わるから、その必要はないよ」
「根掘り葉掘り聞きたいわけでは、ありませんから。おおまかな筋だけ、お聞かせ願えればけっこうですので。詳しく知りたい場合は、日を改めます」
ふたりの物言いに、玄晶は呆れた息を漏らしつつ、続きをどうぞと手のひらで示した。
「異教の国について記されたものに、民のための国というものがあったんだ。僕の両親はそれを尊いと言い、この世をそのようにしなければと考えていた。民が生産をしてくれなければ、豪族も官僚も、皇族でさえも、生活ができないのだからと。――僕も、この玄晶も、その考えに触れて育ったんだよ。僕の両親は、玄晶の講師でもあったからね」
「それが、今回の興国の思想の発端、というわけですね」
「ああ。……僕はいつか、玄晶とともに立派な官僚となり、そういう府の運営を目指そうと考えていた。けれど――っ」
烏有の瞳に痛みが走る。剛袁がいぶかるよりも早く、烏有は顔を伏せた。立ち上がった玄晶が、烏有を守るように腕に包む。
「鶴楽の両親は、とある府の視察中に、命を落としてしまったのだよ。そこの豪族は欲深くてね、民を相当に苦しめていたらしい。民の声を聞くといって出かけ、暴動に巻き込まれた」
烏有が全身を硬くする。ちいさく震える烏有に、剛袁は哀切を浮かべた。
「暴動にかこつけた暗殺というウワサが立ってね。異教の考えに共感をしている不届き者は、忠殺をすべきだという声があったと、葬儀の席で耳にしてしまったのだ。両親の死が納得できない鶴楽は、悲しみを乗り越えるために、その言葉から恨みを生み出し、心の杖にしてしまった」
烏有はもう語れないだろうと判断し、玄晶が代わりに蕪雑に伝える。
「そのとき私は、打ちひしがれ、恨みに捉われる鶴楽をながめることしかできなかった。私の両親は、そっとしておくほかはないと、無力感にとらわれていた私に言った。そんな日々がしばらく続いた、ある朝のことだ。鶴楽は理想に近い府がどこかにあるはずだと、書き置きを残して姿を消してしまった。それが、5年前。鶴楽が12歳だったときの話
だよ」
玄晶が口をつぐむと、沈黙がしんしんと空間に降り注いだ。それは犯してはならないもののように、部屋を満たした。誰もが身じろぎすらもせず、息をひそめて自らの心の内と向き合った。
「蕪雑なら」
ぽつりと、烏有が口を開いた。
「蕪雑なら、実現できると思えたんだ」
その声は、沈黙の合間を縫うように、しずしずと流れた。
「自然と人々の中心になり、慕われている蕪雑なら、民のための国を造れると」
烏有の声は玄晶の胸に沁みこんで、剛袁に信頼の情を湧かせた。
「鶴楽」
玄晶が体中で包むように、烏有を抱きしめる。剛袁は「よくわかりました」とつぶやき、部屋から出ていった。
烏有は食いしばる歯の隙間からうめきを漏らし、玄晶の腕にすがって静かに頬を濡らしていた。
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