烏有は郵亭の書茶室で、出された茶に手もつけず、返書が運ばれてくるのを待っていた。

 早ければ届いているはずだからと、蕪雑に告げて甲柄に入った烏有が、受付で「烏有宛の文はないか」と問い合わせると、ここに通された。

 前に見た少女が茶菓を運んできたが文はなく、もう少々お待ちくださいと言われて、どのくらい経つだろう。

「遅い」

 もしや郵亭馬車が到着したばかりで、文の仕分けをしているのか。そうだとすれば、文は未着と言われる可能性もある。

 そうなったらそうなったで、落胆をせぬようにいようと、烏有はせわしなく揺れる気持ちに言い聞かせた。

 そもそも、すぐに返書がくるほうが不思議なのだ。前代未聞の願いを、したためて送ったのだから。むしろ未着のほうが、どう扱おうか考えてもらえている可能性が高くなる。すぐにも返事がくる場合は、却下という結果のほうが強い。

「大丈夫だ」

 もしも「前例がない」とつっぱねられたら、何度でも願いの文を出そう。その場合、両親から受け継いだ財を投じ、有利に運べるよう取り計らってもらうつもりでもいる。そういう姑息な手段は好まないが、興国のためなら仕方ない。

 剛袁に言ったように、烏有は自分のすべてを蕪雑に賭けると決めていた。

 烏有は小窓から外をながめた。

 行き交う人々は、商人、農夫、工夫など、さまざまだ。これらの人々が心安く、安寧あんねいとした日々を過ごせる国。そんなものは夢物語だと、諸国を流浪しているうちに、思うようになっていた。府として認められる前の、豪族の国も、町や村も、どれもが支配階級の快適なように造られていた。労働者たちが必死に働いている姿を横目に見ながら、ただなにかを命じるだけで、安穏と過ごしている豪族や官僚の在り方は、絶対的なことわりのように、どこを訪れても、おなじだった。

 豪奢な傘を差した一団が、小窓の下を通る。豪族か官僚だろう。烏有は小窓から離れ、イスに落ち着いた。

 気をせかしても、どうしようもない。あの少女が文を運んでくるか、まだ到着しておりませんと言いにくるまで、着工に関することを考えておこう。

 烏有は茶に手を伸ばした。

 許可が下りなくとも、村を造ることはできる。国造りを発表した折に、不満を漏らした人々の気持ちを静め、賛成へと意識を移行させた剛袁の言葉を思い出す。

 国を造るとなれば大げさだが、村を造ると考えてみればいい。

 あれは夢想をぐっと手元に引き寄せられた瞬間だったと、烏有は口元をほころばせた。国を造る壮大な計画の足元を、剛袁は見せてくれた。当人はどう考えているのかわからないが、あのひと言に烏有の気は引き締まった。

 人々の気持ちを惹きつける蕪雑の素朴さと、器の広さ。

 理想を堅実なものへと落としこめる、思慮と配慮を持ち合わせている剛袁。

「僕は、すばらしい相手と出会えたのかもしれないな」

 蕪雑がひとりひとりの名を呼んで、彼等がどんなことを山の集落で成したのか、語っていた光景を思い浮かべる。そんな彼だからこそ、兄と呼び慕われているのだろう。あれは、持って生まれた気質が成せる技だと、烏有は思う。

「蕪雑なら」

 ああいう人柄の彼なら、民を中心とした国を造れる。書物で見た、父や母が理想としていた国を、現実のものとできる。

 烏有の肌が興奮に粟立った。

 蕪雑なら、書物にあった国を具現化できる。そのためならば、己のすべてを捧げよう。時間はかかるだろうが、彼ならきっと、やりとげる。

 前に送った文には、興国の具体的な場所や計画を記載していなかった。それを記した文を追送しようと、烏有は紙に手を伸ばす。筆を手にしたところで、扉が軽く叩かれた。

 烏有の心臓が、緊張に硬くなる。

「どうぞ」

 声をかければ、扉が開いた。その向こうにいたのは、あの少女ではなかった。すらりとした長身の、身なりのいい柔和な顔つきをした青年が立っている。

 瞠目どうもくした烏有を見て、下がり気味の目じりをさらに下げた青年は、両腕を広げて「ああ」と小さく叫んだ。小走りに近づいてきた青年に、烏有は抱きしめられる。

「鶴楽!」

 嬉々とした声となつかしい顔に、驚きという名の金縛りにあった烏有は、なにも応じられなかった。

「君からの文が届いたときは、ほんとうに安心したぞ。いままで、いったいどこで、何をしているのかと、ずっと心配をしていたのだからな」

「……玄晶げんしょう

 ようやっと唇を動かせた烏有は、青年を呼んだ。烏有より、ふたつかみっつ上らしい玄晶は、庇護者ひごしゃのような包む目をして、烏有を見た。

「どうしてここに……。いや、その前に扉を閉めてくれないか。外聞をはばかる」

「ああ、そうだな」

 喜びを全身からにじませつつ、玄晶は烏有から離れ、扉を閉めた。

「私がここにいる理由を答えよう。烏有とは何者かを知るためだ。君からの文に、返書は烏有に宛ててほしいと書いてあったからな。――しかし、烏有が君だとは思いもしなかった」

 扉から離れた玄晶が喜色満面に、しみじみとした声を出す。

「会いたかった。どこでどうしているのかと、気にかけていたのだぞ。鶴楽」

 膝を折った玄晶に顔を覗きこまれ、烏有は気まずそうに目を逸らした。

「大きくなったな、鶴楽。君が旅に出てから、5年になる。立派な青年になって、見違えたぞ」

「いつまでも、子ども扱いをしないでくれないか。玄晶、僕はもう17だよ」

「そう。そして私は20になった。父にならって、文官をしている」

「叔父上は、お元気なのかい」

「ああ。すこしは弱ってくれてもいいと思うくらいに、精力的に仕事をこなしている。母も鶴楽のことを気にかけ続けている。その証拠に、母から鶴楽に渡してほしいと、着物をあずかってきた。宿にあるから、そちらに行こう。ここで話すよりも、そちらのほうが、いろいろと語り合うのに都合がいいからな。……ここは5年もの話を聞くには、いろいろと不足すぎる」

 烏有はわずかにためらい、玄晶の真意を探りつつ言った。

「ここでは、僕のことを烏有と呼んでくれないか。旅に出てからずっと、僕は烏有という名の楽士として生きてきたんだ。ここでも、そのように名乗っているんだよ」

「鶴楽という名でも、問題はないだろう。楽士としても、一流のように感じられる名前じゃないか」

「玄晶」

 硬い声で、烏有は乞う。

「烏有、と」

 玄晶は幼子のわがままを認める顔つきになった。

「わかった、烏有。これでいいだろう? だが、そう名にこだわるのなら、鶴楽という名の口止めを、しておいたほうがいい相手が、もうひとり、できてしまったかもしれないな」

「え」

 玄晶はニッコリとして、滑るように扉に近づき、すばやく開いた。

「わっ、わわ……」

 扉に耳を当てて盗み聞きを働いていた影が、均衡を崩して室内に倒れこむ。

「袁燕!」

「あいたたた」

「旅をしていたのなら、こういう気配に敏感になっているものと思っていたのだが。気を配れないほど、私との再会に驚いていたのかな」

 玄晶は烏有に向けてしゃべりつつ、袁燕に手を差し伸べた。

「はじめまして。さっき烏有が袁燕と呼んでいたが、名前はそれでいいのかな」

 袁燕はバツの悪い顔をして、玄晶の手を取り起き上がると、はいと答えた。

「そうか。――袁燕。それと、烏有。これから私の宿泊している宿に、招待をしよう。もちろん、受け入れてくれるだろう?」

 柔和だが、有無を言わさぬ威厳のこもった申し出に、ふたりは無言でうなずいた。

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