左利きの少年
今日もスポーツ少年は自転車に乗り、部活へ向かう。
日曜日だというのに大変だな。俺は、向かいのマンションの自転車置き場を2階の自宅からぼんやりと眺めていた。
中学生かな。野球部らしい。バッグに入りきらなかったのか、グローブが
自転車の前カゴにそのまま放り込んである。
「へえ、左利きか。」
俺はグローブの違和感に気付いたのだ。
俺にもあんな時期があったな。俺も野球部だった。
野球部ってのは、何でああ練習に明け暮れるのだろうな。
来る日も来る日も練習練習。今となっては、もっと楽な部活に入り
遊んでおけばよかったと思うこともある。
だけど、あの野球に打ち込んだ日々こそが俺の人生の一部なのだから。
野球が好きで、自分が選んだのだから仕方が無い。
日曜日の夕暮れ、俺は暑さをしのぐために、河川敷の公園のベンチで
読書をしていた。すると、高架橋の下で壁を相手にキャッチボールをしている少年がいた。
あのお向かいのマンションの中学生に見えた。そして、取り損ねて逸れたボールが、 俺の足元に転がってきた。俺はつい、手首にスナップをきかせて、少年のグローブに向かって投げた。自分でも気持ちがいいほど、少年のグローブに吸い込まれた。
やはり。あの左利きの男の子だ。少年は帽子を脱いで、ペコリと俺に挨拶をした。 俺はちょっと嬉しくて、少年に近づいて行った。
「部活終わってまで練習かい?」
部活帰りというのはすぐにわかる。ユニホームがドロドロだ。
少年はコクリと頷いた。
「俺、こう見えても野球やってたんだよ。どう?壁じゃなくて、俺とキャッチボールする?」
俺は不審者に見えるかな。一瞬なんでこんなこと言ったのだろう、と後悔した。
気味悪がられて断られると思ったが、少年はもう一つグローブを差し出してきた。
こちらは右利きのグローブだ。
「あれ?君は左利きじゃなかったっけ?」
少年が初めて口を開いた。
「今、右利きの練習をしているんです。」
「え?何故?左利きも個性だよ。誰かに直す様に言われたの?」
少年は黙って首を振った。言いたくない理由があるのだろう。俺はそれ以上は深くは聞かなかった。少年の投げ方には、特徴があった。投げる時に、大きく足を上げるので、安定が悪く、コントロールはいまひとつ。俺は、元々ピッチャーだったので、少年にアドバイスした。俺と少年はその日、日が暮れるまでキャッチボールをした。
少年は帰る方向が一緒だったので、俺は少年に近所に住んでることを話した。
その日を境に少年は俺に挨拶をするようになり、たまにまたキャッチボールをするようになった。
そしてある日曜日、また少年はあの公園に居たから俺は声をかけたのだ。
「毎週精が出るね。」
「お兄さん、僕とキャッチボールをしよう。」
いつもは照れくさそうに俺の誘いを受けるくせに、今日は自分からキャッチボールしようと言って来た。なんか、感じが違う。何だろう?雰囲気も違う。
あ、右利きだ。
「あれ?左利き、矯正しちゃったの?」
最初、少年は何のことかわからずに、ポカンとしていた。
右利きに矯正することを俺に話したの、忘れたのかな?
少年はすぐに思い出したかのように、「うん」と答えた。
そして、俺のアドバイスが利いたのか、あの足を大きく上げるフォームは完全に直っていた。
その日は別れ際に、少年は俺に
「ねえ、今度勉強を教えてよ。いいでしょ?」
と話して来た。この子、こんなに積極的に話す子だっけ?
多少の違和感を感じながらも、俺はOKと言った。
そしてその約束が叶うことはなかった。
少年は行方不明になったのだ。
少年は雨の日にあの河川敷に行って、増水した川に足を滑らせて落ちたと言うのだ。その3日後、かなり下流で水死体として見つかったとのことで、昨日が葬儀だったらしい。俺はその子の名前も知らなかったし、だいいちお向かいに住んでるということだけで、どの部屋に住んでるかも知らなかった。勉強を教えてほしい、と言うのも、俺の部屋に来る約束だったから、全くその子のことを知らないうちに死んでしまったのだ。無論俺が葬儀になど出れるはずがない。正直、俺はしばらく落ち込んだ。少しでも関わりのあった人間の死は悲しい。
ところが、俺はその3日後に信じられないものを目撃する。
なんとあの少年が、自転車に乗っているではないか。ユニホーム、部活バッグ、
そして、自転車の前カゴに放り込まれたグローブ。
俺は幽霊を見ているのだろうか。俺がブラインドの陰からじっと見ていると、少年は俺の視線に気付いて、ニヤリと笑ったのだ。俺は見てはいけないものを見てしまったのか。 心臓が早鐘のように鳴り、悪寒が足元から這い上がってきた。
ブラインド越し、見えるはずない。でも、少年は気付いたのだ。
俺はその日から、その見たものが信じられなくて、朝ゴミステーションを掃除している、お向かいのマンションの住人に聞いたのだ。
「あの、この前こちらのマンションで葬儀があったみたいですけど。」
俺が切り出すと、住人の女性は顔を曇らせて俺に言った。
「そうなんですよ。可哀想にね。まだ中学1年生だったんですよ、あの子。
マモル君っていうんだけど。双子の弟のほう。ミチル君も寂しいよね。
双子の兄弟のかたわれが亡くなったんだから。」
その女性は勝手に俺に家族構成までしゃべってきたのだ。
なんだ、幽霊なんかじゃなかったんだ。双子の兄弟なのか。
そして、1週間後、ミチル君はあの河川敷にたたずんでいた。
「あの、俺君の弟のマモル君の知り合いで。このたびは残念なことになって。」
俺は思わず、ミチル君に声をかけていた。
少年はしばらくの間、無言だったけど、気丈に顔を上げた。
「大丈夫です。弟がお世話になりました。今日は僕とキャッチボールをしてくれません?」
そう言うと、少年は微笑んだ。なんて健気なんだろう。
俺はグローブを渡された。そして少年の方を見て、何故か違和感を感じた。
「あれ、君も左利きなんだ。」
俺はそう言い、渡された自分のグローブを見た。
篠山 ミチル
グローブにはそう名前が書いてあった。これは右利きのグローブだ。
俺は、右手にグローブをした少年を見た。
少年が器用に左手でボールを俺に投げてよこす。呆けた俺に。
「僕は不器用でね。どうしても、親の言うことが理解できなかった。
たとえば、左利きもどうしても直せなかった。親は僕の左利き直そうとしたけど、どうしてもダメで、僕はいつも出来損ないだった。」
少年は悲しそうな目をした。
「同じ顔でも、性格って全然違うんだ。僕はいつも不器用で、あいつは人にとりいるのが上手かった。僕と違って要領が良かったんだ。」
俺にまたボールを投げてよこした。
惰性のように、俺は少年にボールを返し続ける。
「でもね、僕らは顔はそっくりだったんだ。親も黙ってれば間違えるほどに。自分は何でも持っているくせに、すぐに僕の物を欲しがる。許せなかった。」
俺の目をまっすぐ見つめてボールを投げ返してくる。
直ったと思われた、大きく足を上げるフォームはまた元通り。
安定が悪く、コントロールはイマイチだ。
俺は一言も発することができないでいる。
「お兄さんまで、盗られたくなかったんだよ。」
そう言って笑う少年から目が離せなくて、返ってきたボールを取り落としてしまった。
「さて、そろそろ右利きの練習しなくちゃね。」
そう言うと、少年は自分のグローブを川に投げ捨てた。
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