魔界への入り口

山道を抜け、少し民家のあるところに差し掛かったところで、何のお店かはわからないけど、そこには電光掲示板が設置されており、いろいろな宣伝文句が流れていた。


私は何気なくそれを目で追っていたら

「魔界への入り口」

と出たので、主人に

「電光掲示板に魔界への入り口って書いてあった!」

と一生懸命伝えたけど、主人は運転中で脇見するわけには行かず

「またまたそんな与太話して。俺を謀ろうったてそうはいかんよ。」

そう言って信用してくれないのだ。いくら本当だと言ってもニヤニヤ笑うばかり。


数日後、私はどうしてもその掲示板が気になり、一人でその山道を車で通り、あの電光掲示板の店まで行ってみたのだ。お店はどうやら飲食店のようだ。私は中に入って、ホットコーヒーを注文した。

そして、思い切ってマスターに聞いてみたのだ。

「あの、先日この店の前を通った時に電光掲示板に「魔界への入り口」って出てたんですけど、あれってなんですか?」

マスターはキョトンとした顔をして、

「いえ、そんな宣伝は流していませんけど。主にメニューなどを表示させていますが。」

と言った。


じゃあ私が見たあれはなんだったんだろう?

私は目の錯覚かな、と思うことにした。車を運転しながら、疲れてんのかな、と一人苦笑いした。

山道をずっと運転していて、私はふとデジャブに襲われた。

ここ、さっき通らなかったっけ?

おかしい。

この道は何度も通っているし、山の中の一本道、間違いようが無いはず。

分岐点も何も無いんだから真っ直ぐに行けば本道に出られるはずだ。

なんで?


じゃあ今来た道を引き返して、あの店に戻れば大丈夫なんじゃないか。

そう思い、私は離合場所でUターンして引き返した。

行けども行けども、あの店が無い。

引き返して一本道なのになんで?


私はパニックになった。

おかしい、絶対に。こんなに時間はかからないはずだ。私は泣きそうになった。

そうだ、主人に助けを求めよう。そう思い、携帯を出した。そして絶望感に打ちひしがれた。圏外。

残酷な文字が私を嘲笑っているかのようだ。


私は諦めずにまた車を走らせる。

まずい、そろそろガソリンのメーターが残り少ない。

私は焦った。すると、遠くにあの店が見えてきた。

私はほっとした。よかったぁ、これでなんとか帰れる。

あの店の主人に聞いてみよう。そう思いながら車をあの店に向けて走らせた。

電光掲示板が見えてきた。

そこには「魔界へようこそ」と表示されていた。

私は凍りついた。

いったいあの店に何が待っているのだろう。


しかし、もうこうなったら、あの店に聞くしかないのだ。

駐車場に車を停めた。

あの電光掲示板はまだ、「魔界へようこそ」の表示のまま止まっている。

悪戯なのだろうか。そうよ、何かのイベントがあるに違いないわ。


「いらっしゃいませ。」

見覚えのあるマスターがこちらに顔を向けて挨拶をすると、ウエイトレスの女性がお冷を運んで来た。

「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください。」

店内を見回すが、何か特別なイベントが開かれるような雰囲気も無い。

私はホットコーヒーを注文し、マスターにたずねた。

「あの、道に迷ってしまったんです。どうやったら、国道に出られますか?」

あの経緯を説明しても、とうてい信じてもらえないだろう。マスターはキョトンとした顔をした。

「ここは、一本道なので、ずっとまっすぐ行けば国道に出られますよ?」

思った通りの答えが返ってきた。そんなことは、私も知っている。国道に出られなかったんだってば。

「お待たせしました。」

ウエイトレスの女性が、ホットコーヒーと、小さなお菓子を運んで来た。お饅頭のような、ケーキのような不思議な形のお菓子だった。お世辞にも美味しそうには見えない。

「あ、あのっ、コーヒーしか頼んでませんけど?」

そう言うと、ウエイトレスは下を向いて何も答えなかった。そういえばこのウエイトレスさん、ずっと下を向いてて、顔がわからない。髪の毛も黒髪をだらりと顔の横に垂らし、わざと顔を見せないようにしているようにも見える。私は興味本位で顔を覗きこんで、ひっと叫びそうになった。顔の半分が爛れて今にも溶け落ちそうな状態だった。

私は罪悪感にかられた。顔を見られたくないから、髪を垂らしているのだろう。少しでも不衛生だと憤慨した自分を反省した。

「サービスですよ。」

ウエイトレスさんの代わりに、マスターがカウンターの中から答えた。

その瞬間、マスターの目が異様な光を帯びたような来がした。

気のせいか。せっかくだから、お菓子をご馳走になることにした。一口くちにして、不味いと思った。

コーヒーは美味しいのに、このお菓子は不味い。今まで食べたお菓子の中で一番不味い。

甘みがあるのに、食べると口の中に不快なものが広がった。

不快なものが、何かはわからなかった。残すのも申し訳ないので、我慢して全て平らげた。

「ごちそうさまでした。」

そう言うと会計をしてもらい、さっさと店を出ようとした。

店を出る私を、洗い物の手を止めたマスターと、顔の半分を黒髪で隠したウエイトレス、数人いた、ボックス席のお客全員が、じっと見つめてきた。

なによ、気持ち悪い。口の中に先ほど食べたお菓子の嫌なげっぷが戻ってきた。


ようやく、国道に出てこられたときには、正直ほっとした。

なんだったんだろう。私は、今日の不思議な体験を振り返った。

そろそろ夕飯の支度をしなくては。数時間後、主人が帰宅した。


食卓に料理を並べながら、私は、今日の不思議な体験を主人に話した。

また天然の嫁が寝ぼけたことを言うと一笑に付されるのかと思った。

「へえ、そうなんだ。」

主人の反応は意外だった。というより、無反応というほうが正しい。

「なんか、狐につままれたみたいって、こういうことを言うのかしらね?」

そう私が言っても、主人は黙々と箸をすすめている。


私はある違和感を感じた。

お皿に一つだけ乗せたトマトに主人がかぶりついていた。

主人はトマトが大嫌いなのだ。だが、栄養のバランスを考えて、一応お皿に乗せておくのだが、たいていは残している。仕方なく、私が残り物を食べるというのが常なのだが、その夜は違った。

「トマト、食べれるようになったんだ?」

そう言うと、主人はキョトンとした。

「前々から食べれるけど?」

そう言うと、トマトをぐちゃぐちゃと咀嚼した。

おかしい。主人は、こんなに口をあけてぐちゃぐちゃと咀嚼する人ではない。

いつもこちらが食べ方の汚さを指摘されるくらいなのだ。

そして、もう一つの主人の違和感に気付いた。こめかみのあたりに、皮膚の爛れがあるのだ。

「どうしたの?その顔。火傷でもしたの?」

私が心配すると、主人は不思議な顔をした。

「いや?べつに?」

「別に、って。こめかみ、凄い爛れじゃん。」

家に帰った時に、こんな爛れ、あったっけ?

鏡を見るように主人にすすめ、鏡を見た主人は言った。

「なんともないけど?」

「なんともないって、爛れてるってば。明日、病院に行けば?」

主人は怪訝な顔をしながらも、ああ、と生返事をした。


私は寝る前に、今日の出来事と主人の異変について考えると、眠れなくなった。

何かがおかしい。

ぐちゃぐちゃとトマトを咀嚼する主人の姿が禍々しく見えた。

あれは、ほんとうに、私の主人なのだろうか?

そんなバカな考えすら頭をもたげてきたのだ。どこからみても、主人でしかないじゃない。

私は考えても仕方ないと思いつつも、考えずにはいられなかったのだ。


いつの間にか、朝方、眠っていたようだ。

寝不足の体を起こし、私は朝食を作るためにキッチンへ向かった。

すると、主人がすでに起きており、キッチンのテーブルで何かを食べていた。

食べているものを見ると、なんとあの喫茶店で出された、不思議なお菓子だった。

お菓子の包みが、横に無造作に破られて打ち捨ててある。主人は私にまったく気付かない。

お菓子の包みには、「ヨモツヘグイ」と書いてあった。

そんな名前のお菓子は聞いたことも無い。

あの不味いお菓子を延々とぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ咀嚼していた。


おかしい。私は、気味が悪くなって、問いかけた。

「ねえ、あなた、誰?」

私の問いに背を向けていた主人の首が180度回転した。首だけが。

私は驚いて、ひっと息を吸い込み、後ろに倒れこみしりもちをついた。

お菓子を食べていたはずの、主人の口からは、真っ赤な完熟したトマトの汁が流れ落ちていた。

回転した顔はなおも、ぐちゃぐちゃとトマトを咀嚼している。これは主人ではない!

私は悲鳴をあげ、家を飛び出した。

車に乗ると、エンジンをかけ、あてどもなく逃げ出した。

どうしよう、どうしよう!

いったい何が起こっているの?

私はパニックになった。

お母さん!

パニックになった私は、実家へと向かった。

そのはずだった。


しかし、私の車はいつの間にか、山道を走っていた。

なんで?迷うはずなどない。

慣れ親しんだ実家への道なのだ。

どうしてこんな山の中を走っているのよ。


はるか前方に電光掲示板が見える。

「魔界へようこそ」

またあの店だ。

きっと私の生活の異常はあそこから始まっている。


私は意を決して、店の駐車場に車を停めた。

もう二度と来ないと思っていたこの店。

カランと涼しげなドアベルを鳴らす。

「いらっしゃいませ。」

待っていたかのように、マスターも、ウエイトレスも、客もこちらを見据えている。


「何か、知っているんでしょ?」

私は、マスターに問いかけた。

マスターは表情一つかえず黙っている。私は耐え切れず叫んだ。

「帰して!私を、元の世界に帰して!」

皆は黙って私を見つめている。それぞれのテーブルには、あの不気味なお菓子とコーヒー。


「無理ですよ。あなた、もうこちらの食べ物を口にしてしまったのだから。帰れませんよ。」

お菓子の包みには、「ヨモツヘグイ」の文字。

「いやよ、帰して、私を、元の世界に!」

泣き叫べど、誰一人として、私の願いは聞き入れられないようだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ここは、どうして直線なのに、単身事故が多いんでしょうかね。」

事故車両を引き上げ、事故処理車両の中で警官二人が首を捻る。

「あの女性、助かるといいんですけどね。」

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