日記とイチゴアイス

縁側で今日も、母は父が愛用していたロッキングチェアでぼんやりと外を見ていた。


 手にはいつものように、イチゴのアイスクリームの棒が握られている。

母は、ホームパックアイスのイチゴしか口にしない。これはずっと昔から決められていて、母がイチゴで私がオレンジ、他の余ったアイスを父が遠慮するように時々口にする程度だった。マイハウスルールとでも言おうか。


 私達親子は幸せだった。去年の夏に父が亡くなるまでは。あの時の悲しみは、言葉では表せないほど悲痛なものだった。特に、母は狂ったように泣きじゃくり、すぐに父の後を追おうと自殺を図った。だが、私が家に居たのでそれは未遂に終わった。その後も何度か自殺未遂を繰り返したが、最近ではもう抜け殻のように、日がな一日、ああしてぼんやりと縁側のロッキングチェアに座っているだけの存在になってしまった。


 父が存命の時は、かいがいしく家事をこなしていた母は、まったく何もできなくなってしまった。今では、私が家事全般をこなさなければならなくなり、度重なる母の自殺未遂に私は働くこともままならなくなり、仕事を辞めてしまった。仕事を辞めたのにはもう一つ理由がある。どうやら、母は若年性アルツハイマーになってしまったらしいのだ。医師から告げられた時には、ショックだったが、今のところ、正常と痴呆の間を彷徨っているような状態のまだら呆けの状態らしく、これ以上悪化しないために治療しましょうと伝えられ、私が頑張らなければと腹をくくった。


 今までここまで育ってこられたのは、母のおかげだ。子供みたいに、アイスを舐めまわしている母親を横目に、私は洗濯機から洗濯物を取り出して、二階のベランダへと向かった。築五十年の家の階段はギシギシと一段ごとに軋み、今にも抜け落ちそうで怖い。父が祖父から受け継いだこの家もそろそろ限界かもしれない。父が生きていればリフォームも考えたかもしれないが、父の残してくれた遺産で母子二人食いつないで生きていかなければならない身だ。とうてい、リフォームなど夢また夢。


 ベランダに出て、一通り洗濯物を干し終わって、階段を下りようとした時に、ふと父と母の寝室だった部屋のドアが半開きになっているのを見つけた。その部屋はもう使用しておらず、私は侵入者でも居るのではないかと、怖かったがそっとドアを開けた。部屋を見渡したが、カーテンの隙間からの光がかび臭い部屋の埃を照らし出すばかりで、そこには誰も居なかった。父が書斎としても使用していた部屋である。


 私は懐かしさから、父が愛用していた机を撫でて、椅子に座ってみた。背もたれに背中を預けて、両手を組み上にあげて背伸びをすると、背後の本棚が目に入った。本が好きだった父の蔵書である。一つ一つを手にとって、古い本の匂いに父の在りし日の姿を思い出していた。部屋を歩き回り、母のベッドの脇の小さなサイドテーブル代わりに使っていた開き戸が付いた本棚の戸が薄く開いているのを見つけた。


 私は誘われるように、その引き戸を開けると、小さな古めかしい日記帳が出てきた。

「昭和47年」の表記と、母の名前がそこにはあった。

お母さんの子供の頃の日記か。まだ幼さの残る文字。小学生くらいだろうか。

私は、いけないとは思いながらも、そのページをめくる。


 そこには、その当時の生活がうかがえるような出来事や、他愛ない日々の生活が綴られていたが、私はあるページで目を留めた。

「この感情を何と表せば良いのか。」

そこには、思春期の母の思いが綴られていた。

初恋の想いが綴られており、どうやらその恋は叶わぬ恋のようであった。

苦しい、切ない。私の初恋も片思いだったから、同じ女として気持ちはわかる。お母さんにも、こんな時代があったのね。そう思うと、今の母の状況に胸が締め付けられる。


 恋をして、破れ、そして、大人になって幸せな結婚生活を送るも、早すぎるパートナーの死。母の悲しみはいくばくかと考えると切なくなった。


 母は、その初恋の人をお兄さんと呼んでいたようで、おそらく年上の人だったのだろう。そのお兄さんに、恋人が出来たこと、結婚し、妊娠したところまで詳細に綴ってあった。母はどんな思いで、これを綴ったのだろう。私は自分のことのように、胸が締め付けられた。


「平成2年7月5日、お姉さんの赤ちゃんが生まれた。名前は、夏美と名付けられた。」

私はそのページをめくると、心臓がドクンと鳴った。

私の名前、そして誕生日も同じだ。なんで?


「平成2年8月9日、もう私は限界だ。お兄さんとお姉さんの間には切っても切れない絆がある。私にはどうすることもできないの?」

私のページをめくる手が早まる。

「平成3年3月10日、とうとうやってしまった。この力はずっと封印しておくつもりだったのに。」

力?どういうこと?


「あ~ららあ、みぃちゃったああああ。」

背後で声がして、私は思わず、飛び上がって日記を取り落としてしまった。

そこには、イチゴアイスをしゃぶりながら、私を見下ろす母が立っていた。

まだ肌寒いにも関わらず、アイスは溶けて、ボタボタと母の寝巻きに赤いしみを作っていた。


「ごめんなさい、夏美。私、あなたに秘密にしていたことがあるの。」

母は微笑みながら、またアイスを舐めた。

「実はね、私、超能力者なのよ。」

あまりに唐突な母の告白に、私は呆然とするばかりだった。

「夏美、信じてないでしょう?」

そう言うと母はクスクスと笑った。そして、赤い汁を垂らすアイスの先端を私に向けた。

すると、先ほど取り落とした日記帳がフワフワと鳥のように浮かび上がり、サイドテーブルの上に移動した。

私は今見たことが信じられず、思わず目を見開いた。

「これで信じてくれるかな。そして、もう一つ、秘密にしておいたことがあるのよ。それはね。」

母は、目の光を失ったように虚空を見た。

「あなたは私の子供じゃないの。」

「嘘ッ!」

母は一瞬、悲しそうな目をした。

「ごめんね、夏美。私、どうしてもお兄さんと一緒に居たかったの。」

ポタリ。畳に、赤く落ちたアイスのしずくは、母の涙のように見えた。

「私とお父さんは、夫婦ではなかったの。私はあなたの、叔母さんなのよ、夏美。」

母の告白はあまりに衝撃的だった。

「嘘、嘘よね、お母さん?」

母は首を横に振った。

「初めて好きになった人が兄だなんて、こんな残酷なことってある?何度も自分の気持ちを誤魔化そうとしたけど、無理だったのよ。」

母が俯くと、また赤いしずくがポタリと同じ場所にしみを作った。

「それでも、私は、ずっとこの気持ちを隠し通すつもりだった。この気持ちは、墓場まで持っていくつもりだったのよ。」

私の目から涙が一滴こぼれた。

「これは道ならぬ恋だから。私が黙っていれば、波風は立たない。そう思ってた。でも。」

母の肩がわなわなと震えだした。

「...お兄さんが、あんなこと言い出すから。私は、どんな形でも、お兄さんの側にいるだけで幸せだったの。それなのに、お兄さんは...家を出て行くって...幸恵姉さんと一緒に。」

幸恵さんというのは、きっとお父さんの奥さんだった人のことだろう。じゃあ、私の本当の、お母さん?

「私は幸恵姉さんを恨んだ。私から、お兄さんを奪った幸恵姉さんを。だからね...」

私は、その恐ろしい顛末を聞く前に、ごくりと喉を鳴らした。

「殺したの。」

そう言うと、母は溶けたイチゴアイスをベロリと舐めた。

もう溶け出したそれは、だらだらと母の腕を伝い、寝巻きを禍々しく赤く染めた。

「嘘!なんで、そんな酷い嘘をつくの?」

私はまだそんな話は信じられなかった。

「嘘じゃないわ。さっきの私の力、見たでしょう?あの力を使ったの。お姉さんに、熱っぽいからアイスを買ってきてって頼んだのよ。3月10日の日記、見たんでしょう?」


そうだ、とうとうやってしまった、って書いてあった。

「私はあの日、本当は熱なんてなかった。お兄さんとお姉さんは、4月にはアパートで新生活を送る予定だった。急がなければ。そう思った。そして、私はお姉さんの後をつけたの。お姉さんが信号待ちをしている時に、遠くからダンプカーがくるのが見えたわ。そして、私は、この力を使って、お姉さんを...。」

「嘘嘘嘘っ!お母さんは私に優しくしてくれた!そんなの嘘よね?」

「それはね、夏美。あなたがお兄さんにそっくりだったからだよ。夏美はお姉さんにはちっとも似ていなかった。大きくなるにつれてお兄さんに似てくれば、かわいいものでしょう?愛しくもなるわ。」

お母さんの目がうっとりと私を見た。


 お母さんは壊れている。


ポタリ。また畳に赤いしずくが落ちた。私は違和感を感じた。母の手に握られたものは、もうイチゴアイスではなく、ただの棒だ。


「お母さんっ!」

私が異変に気付き近づこうとすると、母は私を見えない力で跳ね飛ばした。

「ごめんね、夏美。今まで、ごめんね。ずっとずっと後悔していた。あなたのお母さんを殺してしまったことを。」

母がとめどなく涙を流す。手首から夥しい血が流れて来た。

「お姉さんさえいなければ、お兄さんは私の元を離れていくことはない。そう思うとつい。私は自分勝手だった。」

うなだれた母の手首から小さな刃物が浮き出してきた。

「この年になってね、自分の能力の新しい使い方に目覚めたのよ。私は物を移動できる念動力が使えるみたいだけど、物を自分の体の中にも移動できるのね。小さなカミソリの歯を手首に移動させたの。」

跳ね飛ばされて痛む体を引きずりさらに私は母を止めようとした。


「ごふっ」

母は口から夥しい血を吐いた。

「ああ....あああああ...。」

私は、足が震えて膝から崩れ落ちた。

「頚動脈...にも..ね。」

母も膝から崩れ落ちた。

私は震える手で、携帯で119を押す。

母の手には体の中から出てきたカミソリがいつの間にか握られていた。


 救急車が来るまで、止血をし、ずっと母に問いかけていたが、その甲斐もなく、母は病院につくころには失血死してしまった。


 母の葬儀を終え、私は母が死ぬ前に私に話したことの全てを親族に問うと、親族は重い口を開いた。確かに、父の妻であった幸恵という名前の女性は、私が1歳の頃、事故で死亡しており、あまりにも私が不憫だというので、父の妹を母親だと私にずっと思わせておいたそうだ。


 確かに母は、望みどおり父と暮すことができたのだが、果たしてそれで幸せだったのだろうか。きっと、罪の意識と葛藤しながらずっと生きてきたのだろう。


 でも、お母さん、そんなに自分を責めることはないよ。だってね、お父さんは、お母さんを裏切ってたんだから。

お母さん、私もあなたに秘密にしていたことがあります。


 お母さんの葬儀の時に初めて、自分の本当の母親の写真を見せてもらったよ。あの女にそっくりで、驚いたわ。お父さんはね、お母さんを裏切って、幸恵さんそっくりの女と浮気していたんだよ。お父さんが、その女と車の中でキスしていた時には、私は怒りで体が震えたわ。そうしたらね、目の前で車が燃え始めたの。


 私は何が何だかわからなくて、夢中で110番を押していた。結局原因不明、車の不備ということで、たくさんの補償金が支払われた。でも、それは違うということが、あとになってわかったの。私ね、お母さんに似たみたい。私が強く憎んだものを燃やす力があるみたい。男なんて、ケダモノね。お父さんが死んだあと、私、彼にも裏切られたの。憎んだわ。そうしたらね、浮気相手の女とドライブ中に、彼の車、炎上しちゃったの。


 だから、そんな私自身を憎むことにしたの。知らなかったとはいえ、私はお父さんの恋する権利まで奪った罪は重いよ。


お母さん、私、お母さんの子供で幸せだったよ。それは、お母さんのしたことは、許されないことだけど、私にはあなただけが唯一私のお母さんだもの。


 私は念じて、自分を憎み燃やすイメージを浮かべた。体が熱くなり、ついに衣服に火がつく。熱い。熱くてたまらなくて苦しい。お母さん、私もいますぐ側に行くよ。そう思った瞬間、シャワーホースが荒れ狂ったように水を噴出して私の体を濡らした。


驚いた私を、お母さんが見下ろしていた。


「あなたは生きて。死んではだめ。」

私の耳元で懐かしい声が囁く。

私は、風呂のタイルに座り込んで、泣いた。


「ごめんね、お母さん。あなたの大事なものを奪ったのは私なの!ごめんなさい!ごめんなさい!」

母は静かに首を振ると、闇の中に消えていった。


数年後、私の中に新しい命が宿った。

どうか私の子供にも、何かの力が宿っても、すれ違わないように、教えたい。

もうあんな悲しい気持ちになるのは嫌だから。

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