(十九)
中央道:東京方面:未明
Ⅰ:
紗英は暗闇の中で加速を感じた。ハイブリッド車の機械音がまるでチェーンソーの唸りに感じられる。しかし恐怖は失せつつあった。身体に塗りたくられた油の匂いも、もう意識に登ってこない。溶けていく。自分の人生すべてが、過去と現在が一つに重なっていく。これが死へ向かうということなのか。終わりだ。もういいのだ。自分は間違っていた。どこかで間違ったのだ。それを受け入れるしかない。受け入れて、眠るしかない。
闇の中に、ぽつんと恩師の横顔が浮かんでいる。自分にとっては父のごとき存在、箕輪浩一郎のやつれた顔。
(やめるなんて、言わないでください……先生)
箕輪が東大を退官するという噂を聞きつけた時、紗英は戸惑った。前世紀に考案された箕輪マップ、そこに描かれる『ETC網整備』『デジタル放送開始』といった個別のアイデアが今世紀に入り次々と実を結ぶ中、『ネット国有化と免許制』の実現だけが遅れに遅れていたのである。実務のリーダーたる紗英は焦っていた。弱冠四十歳で背負わされた重責にあえぎ、恩師たる泰斗の後押しを期待していた、
その矢先の——引退表明である。久方ぶりに研究室へと足を運んだ紗英は、箕輪に向かって盛大に愚痴をこぼした。
——行政って、官僚って、どうしてこう無力なのか。やりきれません。
わかっている。六十を過ぎて退官を決めた男に頼るべきでないということは。
あのとき箕輪は窓を開け放って、春一番を居室に招き入れた。ゆるい風と陽光に瞳をしょぼつかせる。紗英はその横顔を、いかにも老人といった容貌をうらめしそうに睨んだ。そんな自分が単に八つ当たりしているという自覚もあった。ご苦労様でした、そう声をかけてあげるべき人。ねぎらい、感謝すべき人。なのに自分はまだ恩師に鞭打とうとしている。
——どうして君に民間を勧めたか、正直に話そう。私は自信がなかったのだ
紗英は驚いた。あの自信家の天才教授が。二十歳の小娘にゼミを辞めろと引導を渡し、理詰めで号泣させた希代の予言者、箕輪教授の発言とはとても思えない。
どうしてですか。
——僕はあれから何人も学生を育て、民間企業に送り込んだ。ある者は起業し、またある者は投資家になり、政治家に転身して国を動かす者もいる。しかし、僕は官僚になる人間を上手く育てられない。つまり……君を一人旅にさせることになるかもしれない。その自覚があった。しかも君が一番困る時に、自分が現役ではないことまで予想がついた。君を民間に推挙したのは、あれは、まさしく僕の親心だった。
私が間違っていたのですか、先生。
——わからない。最早、正誤を見極める段階ではないよ。
私はどうすべきなのですか、先生。
——君にアドバイスすべき言葉を、僕は一つだけ持っている。しかし、それがもたらす結果を予見できない上に、この老いぼれは大学を去るというのだから、サポートもしてやれない。だから心にしまっている。僕にそれを言わせるな。言わせないでほしい。
酷い。私を娘だと、娘同然だと感じているなら、せめて。
先生、せめてヒントをください。
——言わせるな
逃げるんですか、先生。
——……
逃げないでください、先生。
——いいだろう。僕の意見を聞くまでもなく、君はすでに暴走列車に乗った。イバラの道を走り続ける運命なら、せめて君に燃料をくべてやろう。それが親心というものかもしれない。
教えてください、先生。
——私がどうして成功したか。それを考えてみてくれ。実はね、私が一番世間にちやほやされて、一番影響力を伸ばした時期というのは、ここに出入りしていた学生がもっとも優秀だった時期と一致するんだよ。岩戸紗英もその一団にいた。意味がわかるかい?
どういう意味ですか、先生。
——正直に言おう。私はただ逃げていたのだ。追いかけてくる若者のスピードに圧されて、がむしゃらに走っていただけなのだ。私よりも遥かに優秀な生徒たち。毎日のように質問を浴びせてくる才能。それが自分を奮い立たせた。さも出口を知っているような顔をして、はったりの旗を振らせたのだよ。つまり。
つまり?
——なぜ私はがむしゃらになれたのか。私の手元に優秀な人材が集った理由は何か。答えは簡単だよ。未来を堂々と預言してみせたからだ。君にアドバイスできることは、私と同じ道を辿れということ。預言者になること。中身はなるだけシンプルなほうがいい。単純でなければ人の心に響かない。単純であるからこそ、優秀な人間のアイデアを吸い上げる余地がある。そして、ここが一番肝心だ。シンプルな預言はね、危険と背中合わせなんだよ。
危険?
——他人と敵対しないように方々手を尽くすと、人は傍目に複雑怪奇な存在になる。いわゆる政治家を思い浮かべれば良い。口八丁手八丁、あの手この手でクリティカルミスを回避する。それが安全策、処世術というものだ。逆に……シンプルであればあるほど人は敵を作る。作りやすい。
なるほど。だから先生は、私にそれを教えたくなかったのですね。
——岩戸紗英はとてつもない才能だよ? 上手くすれば官僚の枠を超えたイノベーターとして名を残す。しかしだ。君が預言者となって煽動すれば、魔女狩りに遭う可能性も等しくある。恨みを買って罵られ、あるいは犯罪者呼ばわりされることだってありえるのだ。そんな未来に娘を投げ込むような親がいるだろうか。しかし。しかしだ。大風呂敷を広げるメリットは計り知れない。それは君が君を超える可能性を持っている。
私が私を——超える?
——仲間だよ。君を槍玉にあげ、引きずり下ろそうとする人間たちが現れる一方で、君を慕う人間が現れ、全てのネガティヴを凌駕するパワーをもたらしてくれる。賭ける値打ちのある勝負だ。
思い返せば、私の研究室に集った学生達の中で、私のキャリアに華を添えてくれたトップランナーたちは典型的な優等生タイプではなかった。ベンチャーマインドにあふれる奴等、異端児ばかりだった。物事を変える力はいつも外からやってくる。
岩戸紗英が大きな花を開かせれば、たくさんの才能が君に吸い寄せられるだろう。そして君の背中を圧してくれる。覚えておくんだ。味方は既得権益の外からやってくる。既得権益は軒並み敵になる。その覚悟を持って、桁外れに大きな風呂敷を広げる。そこから先は、逃げる。ただひたすらに逃げる。追いかけてくる仲間達の足音に耳を傾け、言葉に打たれ、ともに泣き、笑い、汗をかいて、がむしゃらに生きる。忘れるな。私の前に君は突然現れた。私に向かって号泣したあの時、一番焦ったのは私だよ。私は猛省した。そして君に恥ずかしくない教授であらねばと思った。これは本当の話だよ。
先生、私は。
——さぁ、ここを出て行き給え。そして深呼吸。大きく手を振って、声をあげて、同士を集めるんだ。それは官僚ではないかもしれない。業界の古株は寄ってこないだろう。きっとアウトローな連中、ルールブレイカーだ。目を輝かせながらさっそうと現れ、君を驚かせ、君を追いかけてくる。立ち止まるなよ。躊躇う背中は見せないことだ。追いつかれないように、ペースを上げる。歩幅を広げる。走れ。走れる、走りきれると信じて行け。
やがて。
やがて君は気づくだろう。
岩戸紗英は、とっくの昔に、ゴールを駆け抜けてしまったことに。
Ⅱ:
きっかけはあった。
緒方と有華を乗せたロータス・エキシージは
だから此処をバイクと一緒に駆け抜けた記憶が、緒方の脳裏にフラッシュバックしたのだ。
啓太の。
黒いアプリリアの残像。
——いけるよ、いける。
啓の声に緒方は弾かれ、声をあげた。
「諦めるな」
それから絶叫した。「あきらめんな有華っ」
左の路肩は狭い。とてつもなく狭いのだ。
けれど、勝機はある。
「この先って、高井戸出口だろっ」
有華の瞳が大きく見開かれる。
そうだよ。そうだ。
あのときも、そうだった。
——あんなとこで仕掛けるなんて、バイクしか無理っしょ
有華は言い訳ばかり並べて。
けれど啓太は、それを笑い飛ばして。
——姉貴のクルマだって、バイクみたいなもんじゃん?
緒方の叫びに呼応して、有華がアクセルペダルを戻す。
エキシージが減速。
直前を行くタンクローリーが遠ざかる。
左前を行くトラックが離れていく。
シフトチェンジ。凶暴な速さを持つ英国車が、さらにスローダウン。
しかし、それは。
それは撤退ではない。むしろ。
(やるんだな)
むしろ襲いかかるという合図だ。
(やるんだな、有華!)
助手席の窓は開けたままであった。ドアの縁に銃身を置き、ライフルを構えた姿勢のまま、緒方はシートに深く背中をあずけた。
わかっている。遅い車をぶち抜くには、圧倒的な速さまで加速して、狙うポイントへ飛び込む必要がある。前の車と車間距離が詰まっていては加速ができない。似通ったスピードで追走してはいけないのだ。
まず車間距離を作る。そうしておいて猛加速。「飛び込む」のだ、そこへ——その「ポイント」へ。
緒方は運転席を、ドライバーの横顔を凝視した。
まだだ、まだ。有華の唇がそう動いている。
瞳はまばたき一つしない。
感性を研ぎ澄ませて。
まだ。
ま、だ。
「ここ!」
有華がスロットルを開けた。
背後で猛烈にエンジンが唸る。
始まった。全開走行だ。猛烈な加速度に緒方はシートへ押し付けられる。頬の肉がひしゃげるほど後ろへ引っ張られる。しかも開け放った窓から猛烈に風が巻き込んできて、HMDをしていなければ、目など片時も開けてはいられない。
さらに有華は左一杯へハンドルを切る。
路肩に車体を半分ほど乗せて、アクセルペダルはベタ踏み。
壁にぶつかる間際をぶっ飛んでいく。
五センチと離れていない。緒方の鼻先をコンクリートの塊が飛び去る。
そうだ。それでいい。緒方は呟いた。左一杯を走れ。高井戸の出口を目指せ。
エキシージは加速しながら曲がり続けている。前を行くトラックの背中へ、突き刺さるようなトップスピードを得て。
このまま行けば路肩はわずかずつ左へ広がり始める。道幅といえるまでに膨らんでいく。しかしその車線は、路線バスの停留所のように膨らんで戻るでっぱりではない。走り続ければ高井戸出口、つまり高速を降りてしまう。だから。だから縦に連なるトラック二台を抜いて、その前をえぐるように本線へと戻る。二手に割けてしまう道、その分かれ目、コンクリート壁で分断されてしまう分岐点の寸前で、ハンドルを右へ。
そんな芸当にはとんでもない加速が必要。抜く側と抜かれる側で圧倒的な速度差が必要。時速二百キロを超えて、超えた状態で——時間にして二秒あるかないかのチャンスで抜き去り、右へ食い込む。それが狙い。
加速したままエキシージは大きなカーブにアプローチした。
路肩が広がっていく。
高井戸出口の看板が飛び去る。
目前にトラックの背中が迫る。
その巨体の、左側へ。
壁との隙間。広がっていく隙間に狙いを定めて。
そこへ——飛び込め。
「行けっ」緒方は吼えた。
エキシージがトラックの左を突いた。
と同時に視界は開けていった。
目前には高速出口。外界へまっすぐ続くスロープ。
圧倒的なスピードで、二秒あるかないかの、瀬戸際に立つ。
緒方は感じた。一台目は抜いたぞ。
二台目を抜きにかかっている。しかし。
しかし中央道が。
道が、二つに割けていく。
間に合うのか。
有華がぎりぎりでハンドルを切った。
右へ。本線へと戻るために。
刹那。
(あっ)
それは。
間違いなくそれは、偶然の出来事だった。
助手席のグローブボックス——といっても蓋などついていない、ぞんざいな物置棚——に置かれた何かが、飛び出すのを緒方は見たのである。
だから思わず手を伸ばす。
それは啓太の位牌だ。
位牌が加速度に負け、棚を飛び出していく。
ダメだ。咄嗟に緒方はライフルから右手を離した。
そしてシートベルトに抗い、身体を前傾させた。
行くな、啓太。
行くな。
緒方は手を伸ばした。それを掴もうと。
腹筋にあらん限りの力を込めた。
シートベルトの張力と車の加速に逆らった。
そうするしかないと思った。
だから避けられた——左頬を掠めていく物体を。
がつッ。
後頭部のすぐ後ろで、何かが。
何かがヘッドレストに突き刺さった。
「何っ!?」
緒方は頭の後ろをさぐる。
それは——ヘッドレストに刺さっていた物体は。
ぽっきりと折れた、エキシージのドアミラー。
「ごめんっ」有華が叫んだ。「折れちゃった!」
ロータス・エキシージは豪快に、左の側面を壁で擦ったのだ。
その衝撃でミラーが折れた。
折れたミラーが室内へ飛び込み、緒方の顔面に激突する軌道を描いたのだ。
激突、する筈だった。けれど。
偶然にも緒方はかわした。
偶然にも。
(啓……太)
位牌をキャッチした、その右手に力を込める。
そして緒方は吼えた。
力の限り。
「啓ぇえええええええい!」
間一髪、二人を乗せたエキシージは高井戸出口から本線へと生還した。
強引な
視界の中には赤い車がいるだけだ。
アスカ号。
有華は右へハンドルを切り、タンクローリーを抑えにかかった。しかし、最早その必要はなくなっていた。
自動運転のテクセッタが百四十キロまで速度を上げ、鈍重な大型車軍団はもはや追従できない。
前にも後ろにも車の姿はない。
二台の併走になった。
右車線にエキシージ。
左車線にアスカ号。
この関係ならやれる。やるしかない。
緒方はあらためてライフルを構えた。
「あと何分あるのっ」有華が髷に問うた。
〈一分十二秒也〉
くそっ。時間がない。スピードが段違いに上がっているからだ。
永福料金所は目前。
緒方は銃口を窓から突き出し、気合いを込めた。止める。絶対に止めてやる。
だが。
跳ねる。
とにかく跳ねるのだ。走行速度が上がり路面のギャップを拾う間隔も狭まった。HMDに表示される照準、例の赤い枠が狭く感じられるほど、タイヤが中に収まらない。
でも、やる。やるぞ。
俺にはまだやるべきことがある。
ギャップの振動で跳ねる時、それを柔らかく吸収すればいい。
銃身とドアの縁。その間に、何か柔らかいものを挟み込めばいい。そうすればマシな筈だ。少しは安定する。
緒方は右手でライフルを持ち上げ、重い銃身をドアから一旦離した。
そうしておいて、左手を——包帯に巻かれた方の手を、銃身とドアの間に押し込む。
ぐい、と強引に。
「ぐっ!」
激痛が奔る。
歯を食いしばる。
居眠り防止舗装の上に差し掛かった。
料金所が近い、という意味だ。
間隔一定のロードノイズ。車がガツガツと跳ねる。
しかしむしろ好都合だ。跳ねるリズムが一定。
そのタイミングに合わせて緒方は右手に力を込めた。包帯をした左手を、つぶすようにライフルを押さえ込む。
「ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ、ぐっ!」
容赦ない痛みが襲ってくる。
手首がちぎれそうだ。
それでも。
「お、お、おっ、おっ」
それでも——銃身のジャンプを、上下動を打ち消そうとする。
赤く表示された枠の中へ、タイヤを収めるために。
収めろ。
収まれ。
収まっ、た。
収まっ、て、る、はず、だ。
た、の、む。そう声を絞り出す。
目前で何かが弾け飛んだ。
三頭身の人工知能が宙返りを決める。
緒方殿、任されよ! ——髷が吼えた。
HMDには飛び飛びの画像が映し出されている。タイヤのロゴはめまぐるしく角度を変える。ロゴの中央にあるXの文字、その位置も細かく動く。
しかしクリアだ。映像は明瞭。
だから髷は狙う。一点を。
アバターの全身が青白い光の粒に包まれた。粒の正体は数値。
その、一粒一粒の輝きが増して、お互いが合わさり、真っ白く大きな光の渦へと変わった時——
——銃声!
やや間隔をあけて、銃声、銃声!
途切れ途切れに、しかし、連続して。
でたらめのようで、しかし計算されたタイミングで。
AIによる
八発撃って五発が。
十七発撃って十一発が一点に食い込んだ。
威力は軽い。反動も音も小さい。しかし。
忍者アバターの四肢が激しく振動している。高速な演算処理があらゆる軸のブレを吸収している。精度を高めている。
怒濤の連射制御。
二十発目、二十二発目、二十五発目がヒット。
二十七発目、三十発目、三十三発目がヒット。
三十九発目。遂に。
銃声は鋭い炸裂音を伴った。
タイヤが割けたのだ!
直後、テクセッタの足回りに配置された空気圧センサーが車輪毎の圧力差を伝えた。TPMSモジュールがそれを察知、即座にブレーキディスクを押し止めるべく油圧パワーが解放される。
——急制動!
本来なら警告表示で終わるだけのTPMS。タイヤの異常を警告するだけの機能。
それがとあるエンジニアの矜持によって書き換えられた。だから。
だからアスカ号は急制動へと転じた。
「やったぞ、やった!」緒方が叫ぶ。「停まれ、停まれぇ!」
有華が弾かれるようにブレーキペダルを踏む。
強い摩擦力が路面に延々とブラックマークを刻む。
赤い国産車と、オレンジの英国車。二台はみるみるうちに減速し、やがて。
永福料金所の二十五メートル手前で停止した。
アスカ号はもうもうと上がる白煙に包まれている。撃たれたタイヤが引きちぎられ、それが、制動時の激しい摩擦に炙られたおかげで。
「い、いっ」
緒方は銃身の下から左手を引き抜いた。「……痛ってえ」
それから運転席を見る。
有華はしばらく動かなかった。
ハンドルから手を離そうにも握力が抜けない様子だった。やがて。
鋭いサイレンの音が聞こえたはずみで、有華は呪いが解けたように動き出す。HMDとハーネスをすばやく脱ぎ、車の外へ一目散に飛び出した。
緒方も有華に遅れることなく助手席を降りた。サイレンの主は料金所の脇に集うパトカーのそれであった。
視界を覆っていたHMDを少し持ち上げてみる。あたり一面が煌々と明るく感じられるけれど、それはあくまで料金所の灯り。頭上で響く轟音は滞空する警察ヘリの音。中央道を包む深夜二時の住宅街は永福寺の界隈。
もう恐怖の気配は感じられない。
大きく肩で息をして、それから煙をあげる赤い車へと歩み寄った。ちょうど有華が上着のポケットから車の鍵を探り当て、トランクを開けようとするタイミングだった。
トランクルームで横たわっていた岩戸紗英は両手両足を縛られ、口をガムテープで封じられた上に全身が灯油まみれであった。顔にはいくつも痣があり、化粧の乱れ方で泣き腫らしたのだとわかる。有華はぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、トランクの中に自分の上半身を押し込み、紐を解き、ガムテープをはがし、ぬめったスーツの上着ごと岩戸をしっかりと抱きかかえた。その首筋にはネックレスの光沢があった。
トランクの中で座ったまま抱えられた当人はしばらく呆然としていたが、やがて左手を持ち上げ有華の頭に乗せると、髪を
「あの車で……追っかけてきてくれたんだ」それが第一声。「格好イイね」
「じ、じ、自分で、か、買った癖にっ」有華は肩を震わせ、
「うん……ふ、ふ……謝らなきゃね、私……いろいろと」
「もうやだからっ」有華は号泣した。「こんなの二度と嫌っ」
「そうだね……私も懲り懲り」
「お休みなんて、も、もらっても嬉しくないしっ。ぜ、全っ然嬉しくないからっ」
「うん……ゆかりんが休みをとるときは……私も……一緒にお休みを取るね……約束する」
「それと」有華は涙を手で拭い、呼吸を整えてからこう告げた。「う、運転手は必要です。ちゃんと人間を雇ってください」
「……わかった……だけど……誰でもいいってわけじゃないのよ……」そこまで言って、岩戸はうるんだ瞳を大きく見開いた。「そう……そうよ…………あなただったのね……」
それから有華の頬に手を伸ばし、優しくゆっくりと撫でていく。
「あなたが……追いかけてきてくれたのね」
緒方は走り寄ってきた二人の警官に気づいて、気を利かせろよと彼らを制した。警官たちは携帯型の無線機を頼りに、エキシージから降りてきた二人組の正体について確認をとっている。彼らの肩越しに赤いパトライトが点在して見えた。料金所の傍にある小さなパーキングエリア、あるいは料金所を超えた首都高速側にパトカーと救急車が数台停車している。
ほどなくしてヘリの音を凌駕するほどパトカーのサイレンが大きく響いた。振り返ってみると、走ってきた中央道の遥か後方で、大型車数台が赤い光に誘導される様子がうかがえた。八王子から追ってきた連中が抑え込んでくれたらしい。白バイが巻き込まれた顛末を自分が証言することで、連中は言い逃れできないだろうと確信しつつ、一方で緒方は、トランクから女帝が降りる時、傅く近衛騎士のように手を貸そうとも思っていた。しかし岩戸が緒方の存在に気づいて手を振った時、図らずも節操なく手を振り、抱きつかんばかりの勢いで駆け寄ってしまった。岩戸には、それがまるで尻尾を振って主人の帰りを喜ぶ子犬のように見えたという。
やがて岩戸を乗せた救急車と有華のエキシージが高速を降り、入れ替わりに機動捜査隊が到着し、大型車軍団の連中が軒並み連行され始め、現場の整理が始まった頃——。
緒方は刑事たちと会話しながら、何気に、壊れたドアミラーの破片を拾い上げた。
しげしげと眺め、それから料金所の向こう側を見る。
気配を感じたのだ。
バイクが一台、こちらに背を向け、停まっていた。
シルエットは明らかにアプリリア。そして。
ヘルメットをかぶった革ツナギのライダーが、片手を高く挙げている。
グッジョブ、といわんばかりに親指を伸ばしている。
緒方はつられて片手をあげた。
次いで両腕をあげた。高く。そして大声を出そうとした。
しかし次の瞬間、バイクの姿はどこかへ消え失せた。
どこか、遠くへ。
だから緒方は。
「……さんきゅ」
大声で叫ぶかわりに、小さく、声にならないほどの強さで呟いた。
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