(十三)
渋谷区・国立市・渋谷区・(都内某所)・渋谷区・(都内某所)・渋谷区・千葉県・江戸川区・(都内某所)・渋谷区・国立市
Ⅰ:渋谷区:初台:夜半過ぎ
初台の電網庁新庁舎にGEEと香坂が到着したのは、〇時四十五分頃だった。
「おっと、まさかのエアコンなし!?」
エレベーターに乗り込むなり、GEEががっくりと肩を落とした。「さすが総務省やで……そういえば二号館も夜中はがっつり切られてたなァ」
香坂は苦々しく頷いた。「作業はサーバールームでやりましょう。あそこは二十四時間、空調が切れない」
半袖のカッターシャツは薄着で軽快である。しかし香坂は重苦しい空気をひきずっていて、背中がじっとり汗ばむのを感じていた。
「岩戸紗英が……誘拐されたとしたら」とGEE。
「タイミング、最悪ですね」と香坂。
「今夜の電網庁サーバーダウン、メンテナンス。ニュースでずうっと言うてたからなぁ……狙われたとみるべきか」
「ですね。相手は我々が電網免許証を探知できるということを知っている。だから敢えて、今夜」
GEEは眉をひそめた。「……とびきり面倒くさい連中やな」
エレベーターのドアが開くや否や、香坂は勢いよく飛び出した。
次いでGEEが。
*
初台の新庁舎、真新しいサーバールーム。その奥で、二人のハッカーが戦闘を開始した。岩戸と連絡がつかない。NICTで車が盗まれた。この二つが何を意味するのか——斟酌しつつ、一睡もしないと結論した。決めたからには急ぐ。目指すのはシステム再起動である。
画面上を視線が、キーボードとマウスの上を指が猛烈なスピードで動く。と同時に口も動かす。
「髷っ、このサブネット遅いぞっ」
GEEが
〈標準のスタートアップ・プログラムが常駐している也〉
髷はサーバールームの机にひらり、と舞い降りる。
「免許証の探知だけでええんや! いらんプロセスは全部切ってしまえ」
〈御意〉
「まくるぞっ」
岩戸の居場所を探す。センサーで追尾して足跡をたどる。そのためだけなら——電網庁のシステムは規模が半端なく大きいが——三分の一も動けば充分。しかし下手を打てば壊しかねないので、GEEは限度一杯まで指を動かしつつ、都度安全策を講じながら前進した。といっても事は再起動。人間の努力でペースアップできる範囲には限りがある。
八千夜大義は液晶2画面にキーボード2組ぐらい平気で操れる女だ。調子が出てくれば右目と左目、右手と左手、すべてをバラバラに動かす自信もある。だが、そこまでの状況にない。処理待ちの時間が頻繁に発生する。イライラが募る。
「GEEさん」サーバールーム内をせわしなく練り歩いていた香坂が、携帯電話を握りしめ、つかつかと歩み寄った。「他の連中を初台に呼び出した方がいいか、垂水局次長に打診されてます。どう思いますか」
「無駄やな。むしろ手順に縛られて、やり方に文句つける真面目な官僚君がいたら邪魔」
「……ですね。垂水さんも、緊急事態につき明日のスケジュールを守ってる場合じゃないとおっしゃってます」
「正解」
「局次長ご自身は、ベガスの本社研に向かうそうです。アスカ号のGNSS(=測位衛星)信号を追尾できる部署があるらしくて」
「それも正解」GEEが吐き捨てるように言った。「さすが垂水はん。全部正解」
Ⅱ:国立市:谷保:夜半過ぎ
信号が赤に変わった。停止線まで五十メートルほどを残して徐行を始めた有華が、エキシージのハンドルを右に、左に大きく切った。何度も、何度も。
直線道路を蛇行しながら横断歩道へと向かっている。
「……」緒方は三半規管を揺すられて、瞳を閉じた。
じゃじゃ馬娘の助手席には慣れている。といっても左右に振られて気分がいいものではない。タイヤを温めているのだろうと察しはつく。少しの辛抱か。
ドライバーの横顔を見る。
瞳は大きく見開かれ、まばたきが少ない。口元は堅く結ばれて精悍そのもの。
有華は本気だ。完全に戦闘モードである。
一方、ナビゲーターの緒方は手狭な助手席でライフル銃を左に抱え、HMDをかぶり、遠く離れた香坂たちとの情報交換に努めていた。
「どんな……感じ?」マイクに語りかける。
イヤフォンから聞こえる香坂の声は明瞭だ。
〈ギーさんが加勢してくれて、すごく能率は上がってるから……もうちょっと待ってくれ〉
「どれぐらいかかりそう?」
〈……わからない。でも全力でやってる〉
「携帯電話の線は?」基地局から居場所を割り出す。それができれば電網免許証の探知に頼らなくていい。しかし。
〈全く駄目。ひっかからない……おそらく電源オフだ〉香坂の返事は芳しくない。
緒方は前方に視線を投げた。この先、左にカーヴする道を登っていけば高速道路に乗れる。
やがて有華はハザードを出し、コンビニの向かい側でエキシージを停車させた。そうしておいてタッチ式カーナビの使い勝手を探っている。勿論マニュアルなど読まない。コンピューターには明るくないが、こういうガジェットには滅法強く、動物的なカンで使いこなしてしまう。有華の習性。
緒方の視線を感じて、当人が左を向く。「ね、警察は? 探してくれてんの?」
「小金井署が十キロ圏で配備したらしいけど、ちょっと遅かったかもな。車の持ち主じゃなくて、NICTの、警備員からの通報だろ? 初動捜査はその警備員に事情聴取することになる。事件性の判断を下して、それから配備……時間にして十分から十五分はロスしたんじゃないか」
「げげ。それじゃ遅いよね。高速に乗りゃあどんなボロでも十五分で20キロは行ける」
「配備の外に出ちゃったか……あるいは車庫みたいなところへ逃げ込んだか……とにかく発見したってハナシは、まだない」
「……そのタンクローリーは?」
「ナンバー不詳の一台が湾岸線を千葉に向かってるらしい」
「湾岸線!? ……遠いなぁ」
「もしかしたら、オートパイロット車もそっちに」
「こんな短時間で……国分寺から東京を抜けて海沿いに出たってこと? さすがにソレ、ないんじゃない」
「気になる情報がある。今夜Nシステムがマツリになるって噂があるんだと……だから交機の動きは当てにならないかも」
「じゃ、私たちは」
「独自路線でいくべきとみた」
二人は会話しながらカーナビの地図をにらみつけていた。
国立府中インターチェンジが目の前。
「ここから中央道に乗ったとしたら」有華が言った。「都内に向かうか、それとも県外か……」
「香坂たちの再起動を待とう。電網免許証の探知、ざっくりしたものらしいけど、何もわからないよりマシだと思う」
有華は頭をハンドルにもたせかけた。「高速に乗ったかどうかはわかんないし、乗ったとしても真逆に走ったら意味ないし、夜だと探しにくいし」
そして、珍しいほどに弱音を吐く。「……岩戸さん、私を試してるのかなぁ」
「試す?」
「ついてこれるかしら? ってさ。あの人、サラブレッドなんだよね。政治家の娘。知ってるでしょ?」
「うん」
「っていうか、アタシにすりゃ、みんなサラブレッドだ。あんたも、キツネ丼も。私から逃げてく。みーんな、どっかへ行っちゃう」
緒方はあらためて深呼吸した。
「あのな。今のうちに言っておこうかなと、思うんだが。大事な伝言を預かってて」
「伝言?」
「岩戸さんから。今日、俺に会いに来たって言ったろ? そんとき、ことづけられた」
Ⅲ:渋谷区:初台:夜半過ぎ
エアコンが効いていて暑さこそ感じないが、掌はじっとり汗ばんでいる。
香坂は奮闘を続けていた。作業は時折、処理待ちで中断する。そのたびに横目で別の液晶画面をにらみ、緒方たちの状況を確認した。緒方のHMDに仕込まれたカメラ、それが撮影するリアルタイム動画はネット経由で新庁舎に届けられ、まるで監視カメラ画像のようにパソコン上で確認できる。
つまり香坂とGEEは、緒方の視線が捉まえたハンドルを握る常代有華の横顔を観察することができる。画像は少々荒れているものの音声は比較的クリア。
今は停車しているから走行ノイズも聞こえない。
〈岩戸紗英の父親は確かに大物政治家だ……でも、彼女が高校生の頃に亡くなってる〉緒方の声。
〈知ってるよ〉有華の声。
二人の会話を聞きながらも、ハッカーたちの指は止まらない。
目は液晶画面の上、コマンドラインを縦に横に追っている。
〈岩戸さんが……有華に教えていないことがあるんだ〉
サーバールームはよく冷えていた。けれど身体は熱を帯びている。
Ⅳ:(都内某所)
岩戸紗英は目覚めてすぐに、自分がどこにいるのか認識できなかった。狭くて暗いどこかに押し込められている。両手両足が縛られ、猿ぐつわされた上にガムテープで口を封じられている。悲鳴を出すことが叶わなくて、うう、と呻くばかり。代わりにありったけの恐怖が毛穴から吹き出し、ゆっくりと肌を撫でていく。
ほどなくして外界に通じる扉が開かれ、そこが車のトランクだということに思い至った。
「岩戸さぁん……世間は祭りになってるらしぃぜ」
サングラスをかけた男が頭を突っ込み、岩戸の耳元で呟いた。「あーやべ。こんないい女縛って殺すの、興奮するわ俺」
男は明かに殺す、といった。マスクをしているから声はくぐもっている。けれど、わかる。こいつから常人ばなれした狂気が感じられる。
岩戸は顔を背けた。こいつの口から耳を離したいと思ったのだ。ところが。
「死にたくなかったら、泣いたら?」男はマスク越しに唇を押しつけてくる。
反射的ににらんだ。にらみ返してしまった。
直後。
男は岩戸の頬に容赦なく平手打ちを食らわせた。
「あーきもちいい。も一発いくか」
二発、三発。
岩戸は悶絶した。頬が、鼻が、はり裂けそうに痛む。ガムテープに遮られたうめき声は微かで、さほど遠くへは届かない。
「やべ、手が痛くなってきた。なんかぶん殴る道具ほしーな。ま、いいか」
男は手に一斗缶を抱えあげ、蓋を取り、中身をトランクへとぶちまけた。
灯油だった。
「よく燃えますようにィ」
岩戸は全身にぬるぬるとした液体を浴びせられ、ぐぅ、と呻きながらのたうちまわる。
男は一缶目をあけてしまうと、二缶目を抱え、空っぽになるまで逆さにした。
「ほーら、避けないと溺れちゃうぞぉ……焼死体のほうが格好いいでしょ、溺死じゃダサいでしょ」
岩戸はしたたる粘液を必死によけ、よけながら相手をにらんだ。にらみつけた。にらみ返す癖があった。反射的な行為。
子供の頃からの、習性。
思い起こすのはあの大邸宅。
あの忌々しい玄関。
三十年も昔、血を分けた兄である筈の少年に、バケツで汚水を浴びせられた記憶。力一杯殴られた、蹴られた記憶。いじめなどという生易しいものではない。あれは折檻だ。自分の生まれのせいで、自分を生んだ母親の
あの女の娘、泥棒猫という罵声とともに蹴られるのだ。
徹底した暴力を被った時は、理不尽かどうか判断がつかないほど朦朧とする。ひたすらみじめに感じられる。でも、それでもできることはあった。
にらむことだ。
不屈の闘志を、見た目だけでも示す。示し続けることだ。
それが、岩戸紗英という少女。在りし日の私。
そして、今も——
Ⅴ:渋谷区:初台:夜半過ぎ
〈お父さんが死んだ後、岩戸紗英は母親と一緒に実家を叩き出された〉
緒方の声は淡々としている。
〈何……それ〉
〈あの人は後妻の子だったんだ。先妻にも息子が……つまり腹違いの兄がいた。そいつが後を継いだ。そして、後妻と妹と弟を徹底的にいじめ抜く。回りは兄の味方ばかり。だから、逃げるように家を出た〉
〈酷っ……なんで。なんでそんな……逃げる必要なんて、ないじゃんか〉
有華の声は震えていた。岩戸紗英——長年連れだった憧れの上司が、重い事情を明かしてくれなかった。それを受けとめきれないでいる。液晶画面の片隅、画像の中で苦悶する有華の横顔。それを香坂は見逃せない。心が軋んだ。でも手は止めてはいけないと思う。やるべきことがあった。有華と岩戸を、もう一度繋ぐためにも。
香坂は急ぐあまりミスタッチを連発したが、都度イライラを堪えるべく、ぐっと奥歯を食いしばった。隣りではGEEの指がけたたましく跳ねている。サーバールームが、まるで工事現場かと見紛うほどに。
二人は昂ぶっていた。それにくらべて緒方の語り口は穏やかである。
〈後妻は政治家の資産を狙った泥棒猫だという噂を街中に流されたんだ。それが本当なのか、兄がデッチあげたことなのかはわからない。でも、そのせいで後妻は家を出た。子供二人の手をひいて、その土地を離れるしかなかった。あてもなく、財産もなく〉
Ⅵ:(都内某所)
ガムテープで口を封じられ、油まみれになり、何度も殴られたショックで涙がとめどなくあふれて。
岩戸紗英は、ううう、と暗闇の中で唸り声を絞り出した。と同時にその瞳は微かな光をとらえていた。アスカ号の後部座席、その右シートと左シートは可動式で、背もたれの隙間からトランク側へとわずかに灯りが洩れ込んでいる。細くて長い、縦長の、光の筋。縦長といっても身体はトランクの中で横たわっているから、光の筋は視界を横切るように見えている。
意識が遠のく中、紗英は幻覚とも夢ともおぼつかないビジョンを感じた。縦長の光の筋が、視界を横切る眺めには見覚えがある。あの頃だ。些末なつくりのアパート。二間の片方、和室に煎餅のような布団を並べて横になった頃。紗英は眠ろうにも眠れない時を過ごすことがよくあった。隣の部屋で母はまだ起きている。だから襖と襖のわずかな隙間から灯りがこぼれでている。紗英が眠れないのは考え続けてしまうからだ。母が寝る間を惜しんで勤しむ内職。はっきりと思い出せないが、確か、紙と糊を使う袋貼りのようなことだった。一枚仕上げて五円だか六円だかにしかならないような。それを子供二人を寝かしつけてから、夜更けまで続けている。紗英はその枚数を数えてしまう。音が聞こえるから、一枚一枚をどれぐらいのスピードで仕上げているかがわかる。母が合計何枚を仕上げ、これから何枚を仕上げるつもりで、だから何時まで眠れないのだろうと暗算で計算してしまう。起きて手伝うといえば母は作業を止めてしまう。あなたは賢い子だから私のようにならないでほしい、私には子供の成長だけが生き甲斐なの、と母娘は夜毎同じ議論を繰り返し、紗英は言いくるめられて寝床につく。
あるとき、音と音の間隔が奇妙に空いた。言い知れぬ不安に苛まれて、紗英は飛び起きたことがある。いきおいよく襖をあけ、愕然としたことがある。母は袋貼りに使う糊を口に運び、食べていた。確かに食事は質素きわまりなくて、だからお腹いっぱいになるはずがない。けれど、母が糊を口に運んでいたのは空腹だからではなかった。頭のねじが、外れてしまっていたからだ。世間が母を追い詰め、育児がまた母を追い詰めた。何より崇高であろうとした母の気概が、母の精神を追い詰めていった。
「やめて!」
母の手についた糊を雑巾でこそぎ落とし、紗英は母を懸命に抱きしめた。このままでは母が死んでしまう。私と弟を置いて遠くへ行ってしまう。それが怖い。怖かった。
Ⅶ:渋谷区:初台:夜半過ぎ
GEEと香坂の作業は大詰めを迎えていた。まもなく部分的に再起動が叶う。電網免許証の探知システムさえ起動できたら、岩戸紗英の現在位置について、朧気に掴むことができるはずだ。
焦る二人の耳に、緒方の重苦しい言葉が響く。
〈……娘と息子を連れて地元を追われた母親は、やがて精神を病んだ。岩戸紗英は定時制の高校に通いながら、中学生の弟と二人、働きながら病気の母親を支えた〉
香坂がここぞとばかりにリターンキーを押下した。
「まもなく表示、出せます! たぶん!」
GEEが立ち上がった。「その大部屋、どこやて?」
このフロアには、電網庁管理局の中枢部となる指令センターが存在する。追尾システムをいち早く立ち上げるため、画面の出力先をそのスクリーンに限定したのだ。
「廊下に出て、右に行った突き当たりっ」叫びながらも香坂の指は止まらない。
GEEが走り出した。サーバールームのマシンとマシンの間隙をすっ飛んでいく。香坂の両耳は女ハッカーの軽快な足音を、両の瞳は液晶画面の文字列、黒と白のコマンドラインを食い入るようににらみつけている。新庁舎のハッカー二人。その奏でるリズムが二手に分かれた。
一方ロータスの車中では、有華のリズムがすっかり
〈……その状況で、岩戸紗英は東大受験を決意する。父が残した遺産すべてを継いだ腹違いの兄、やがて政治に打って出るであろう兄に対する、激しい憎悪をたぎらせながら。そして、聡明だった母から受け継いだ学力をふるい、泥棒扱いされた母の苗字を堂々と名乗り、世間に復讐したいという……一心で〉
Ⅷ:千葉県:市川市:高浜町:未明
首都高速湾岸線・千葉方面。サービスエリアの駐車場へ侵入する白バイが二台。覆面パトカーが一台あった。警視庁第七方面本部、葛西警察署の交通機動隊隊員たちである。
白バイのヘルメットとパトカーの内部には、同じ音声が鳴り響いていた。
〈各PC(=パトカー)は当該車両を検索、発見の際は確保の上……〉
警視庁通信指令センターが、東京全域への通信指令を「発令」していた。当初は赤いテクセッタについて小金井署の自署緊急警戒が発令されたのみであったが、葛西署の修学旅行バス事案捜査本部により岩戸紗英の誘拐容疑、およびタンクローリーの検索が加えられ、本店は全局のパトカー動員、いわゆる「全署緊急配備」を決定する。都内の警察車両が一斉に耳をすませ、誘拐容疑という重大事案の発生、その緊張感を共有しつつ、何をなすべきか正確な把握に努めている。
〈当該車両は人質を乗せ、武器を携行している可能性あり。繰り返す……当該車両は、人質を乗せ、武器を携行している可能性あり。重々警戒されたい〉
白バイとパトカーは三方に分かれ、サービスエリア内をくまなく検索した。一一〇番通報で泥棒を見つけるより、特徴がはっきりした車を見つけるほうが容易い。
パトカーは大型車両ばかりが並ぶエリアに足を進めた。それらしき銀色の車体を見つけ、警察官が降車する。
「こちら葛西4。タンクローリーの登録ナンバー、照会願う」
懐中電灯の明かりを頼りに、ナンバーを読み上げている。
Ⅸ:江戸川区:東葛西:未明
「だからタンクローリーだけじゃなくて、盗まれたセダンも一緒に探すんだよ。そ、この二つが別々の事案じゃないってことね。そぉ。その意識大事」
葛西署の大会議室にいる末次が、けたたましく受話器にがなりたてた。通信指令センターの指令台が出した発令、その内容を聞きながら微妙に修正をかけようとしている。
「そう。え? ベガスのテクセッタだって言ったでしょ。色は赤、で」
「……4ドアの六気筒。リミテッドです」隣にいた捜査員が、パソコンの画面を見ながらスペックを読み上げる。
「……4ドアのリミテッドの、えーと、六気筒。つーか、そっちは小金井署が詳しいってば!」
やがて——
電話応対していた捜査員の一人が、高く手をあげた。「主任官! 第六方面本部が追加情報求めてます。タンクローリーが目当てなら、湾岸線を最優先でいいかって……いいですよね?」
さらに別の手が挙がる。「千葉県警から。湾岸線配備で動く、との事です。問題ないですね主任官」
無差別に探せ、という発令には限界がある。どこに注力して検索すればいいか、指示がほしい。そっちにパトカーを集めたいという意見が、末次の耳に届くようになった。
そりゃあそうだろうさ。わかってるぜ。Nシステムが盤石なら俺もそうしたい。
しかし末次は押し黙る。
明確にピンポイントで攻めるか。あるいは曖昧にして手広くやるか。
Ⅹ:(都内某所):未明
同じ頃、公安総務課十一係の飯島警視も通信指令センターの「全局一斉発令」に耳を傾けていた。
暗く狭い、ハイテク機器にまみれたミニバンの中で。
〈葛西2、状況どうか〉
〈こちら葛西2、当該タンクローリーおよびセダン車、供に発見できず〉
〈引きつづき警戒されたい〉
公機捜(=公安機動捜査隊)の車だから、地域警察と同レベルの通信装置を備えてはいる。しかし仮に全体配備を発令されたところで、一緒になって犯人捜しに動く必要はない。公安とはそういう部署だ。本来なら自分たちが察知している「Nシステムにかかわる不穏な気配」について、あるいは「愛媛で起きたNシステムをめぐるトラブルの顛末」についても、たとえ相手が警察官であろうと漏らすべきではない。いわゆる「部外秘」である。本来なら。
しかし今夜は特別だ。飯島は部外秘を破り、つまり公安と刑事の垣根にとらわれず行動しなければ敵を取り逃がすと考えていた。ここで大惨事が繰り返されでもしたら——警視庁の面目は丸つぶれになる。末次を支えきらねばならない。加えて、非番の緒方隼人が鍵になるかもしれない、とも。
ほどなくして飯島は発令の「中身」を心配し始めた。
「おいおい、パトカー全部湾岸線にぶちこむつもりかよ……ハズレなら、おおごとだぞ」
背後で液晶画面をにらんでいた公安捜査員の一人が言った。
「葛西署が主導すると、タンクローリー探しになる。小金井署が主導だとセダン探しになる。東京を挟んで東と西……敵の狙いは警視庁の分断じゃないですかね」
飯島は返答しなかった。わかっている。だが、どうしようもない。単純な事案ではないのだ。動機も、手口も、何が起こるかも不明。だから捜査の規模を拡大しづらい。新たなパトカーや白バイ、事案に詳しくない警察官を巻き込むたびに、混乱が広がっていくばかりだ。
運転席にいた捜査員が呟いた。「こっちはどうします?」
「緒方がNICTの小娘に張りついてる。そっちを気に掛けつつ……」
飯島はカーテンを縁を手で持ち上げ、窓の外を見た。「あいつの戻りを……待つしかない」
夜の街、その——薄暗い一角を。
Ⅺ:渋谷区:初台:未明
そして遂に——GEEが雄叫びを上げた。
初台の電網庁新庁舎。机にも椅子にもビニールがかかったままの、真新しい深夜の大作戦司令室。その壁に据えつけられた、二百インチを超えるスクリーンを見上げながら。
「出たぞ! 表示が出た!」
こめかみにかけていたHMDをはずし、目を凝らす。
都内の地図。それを覆う数多の赤い斑点が、岩戸紗英の足跡を示していた。
「やっぱり湾岸線なんかと、ちゃうやんけ! 全然ちゃうっ」
Ⅻ:国立市:谷保:未明
有華はエキシージの運転席でハンドルに頭をあずけ、緒方の話に耳を傾けていた。
岩戸紗英の生まれ。育ち。その全てに聞き覚えが無い。内緒にされてたんだ。私には言いたくなかったんだ。それが寂しい。寂しくて、しょうがない。
〈ゆかりん! 聞こえてる?〉
HMDのイヤフォンを経由して、GEEの声が耳殻に傾れ込む。
「おわっ! は……はいはい。聞こえてますっ」
〈たぶん、そこから近いで!〉
「近いってどこっ」
香坂の声が割って入った。
〈ゴメン! もうちょっとだけ待って。そのあたりが手広くまっかっかなのは間違いないんだけど、ノイズっぽい反応を除外して、もう少し範囲を狭めるから〉
「……焦るなぁ……焦るよぉ」
クラッチを切ったままシフトをがちゃがちゃといじる。それから、またニュートラルに戻す。腹立たしそうに唇を噛む。
緒方が言った。「岩戸さん……東大合格には二年かかってる。学費にしろ、生活費にしろ、大変な苦労があったらしい」
有華は消え入りそうな声で呟いた。
「…………なんにも知らなかった」
「有華には話したくなかった。知られたくなかったんだよ」
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