(五)

江戸川区・小金井市



 全治一ヶ月。亀裂骨折。だからといって休み続けるわけにもいかない。緒方隼人は包帯に巻かれた左手首をかばいながら、根性で仕事を続けていた。しかし検査日だけは例外で終日非番に充ててもらった。あくせく動きまわるとどうしても患部が腫れる。それを医者に叱られるのが面倒なのだ。

 診察が終わるや否や、整形外科医はじろりと緒方をにらみつけて言う。

「当て木、外したりすんなよ」

「は?」

「骨が曲がってくっついても、しらねぇぞ」口が悪い。それに飯島警視もびっくりの強面だ。髭面ではないが、どことなく似ている感じさえした。

「し、してますよほら」緒方は笑顔でアピールした。

「……レントゲンの具合、あんまりよろしくない。治りが遅いな」

「あ、でもX線に映らないんですよね、修復期の骨って」

「……ち、これだから慣れてる奴は始末が悪い」

「あ……」

「お前、格闘技やってんだろ」

「……バレてましたか」

「空手か」

「です、ハイ」

「バカなこと繰り返しやがって。折れたところがくっついたら、前より強くなるとか、そういうの迷信だぞ。わかってんのか」

「それ、知ってます」

「……知ってても怪我したら同じだ」

「ごもっとも」

「なんだ、おい。その、うるさい医者をやり過ごそうという態度……いただけねぇな」

「うぇ」

 頭を何度も下げて立ち上がり、ようやく診察室から半身を出して、それでもしばらく説教が続いた。すいません、本当すいません、気をつけますと繰り返し、緒方は逃げるように扉を閉めた。

 背後で声がする。振り返ると、とびきりの美人がロビーにいた。しかも腹を抱え、笑っている。

「え……聞いてたんですか、今の」

「ごめん。聞いちゃった。めちゃくちゃ叱られてたね」

 岩戸紗英だった。





「親身になってくれる、いい医者っス」

 緒方は笑って言った。「整形外科にしてみりゃ、怪我人は食い扶持ですもんね。怪我するなって叱ってくれるのは、貴重ですよ」

 二人は病院の屋上に連れ立ってベンチに腰掛けた。夏の陽射しを浴び放題なので他の患者は近寄らない。人目を避けるには都合がよかった。

「急にごめんね」

「いいえ。嬉しいっていうか……天下の岩戸紗英から直で電話をもらったんです。男なら誰だって手が震えますよ」

「ところでさ、おかしくない?」岩戸は口を尖らせた。「緒方君は私の監視役なんでしょ? ……なんで私が探して、わざわざ会いに来なきゃいけないの」

「ご覧のとおり、役立たずですから」包帯に巻かれた左腕をあげる。「それに今日、非番なんで」

「時に緒方君。じゃなくて子犬君。違うな。くわせダヌキ君」

「緒方でいいんです。緒方で」

 岩戸は包帯に巻かれた緒方の左手をじっと見つめて言った。「あの子を守ってくれて、ありがとう」

「……このザマですけどね」

「高校が一緒だったんだよね?」

「有華とですか? いや、違うんですけど……」

「そうか。啓太君と一緒なのか」

 啓太。岩戸は間違いなくそう口にした。

「………………はい」返答に躊躇する。「あのぅ……どこまでご存知なんですか」

「私? 実はね、啓太君の位牌にお線香上げたことがある。ゆかりんに内緒で」

「……です、か」緒方は頬を緩め、頭を下げた。「うれしいです。啓は……啓太は年上好きだったから、喜んでんじゃないかなぁ」

 岩戸もつられて微笑んだ。「似てるよね」

「啓太と有華、ですか」

「……男女の違いはあっても、やっぱり双子」

「昔はもっと似てましたよ。有華も髪がショートだったから」

「え!? ショートカットのゆかりん……想像できないなぁ。さすが幼なじみ」

「何かありましたか、有華と」

 岩戸は目を伏せた。「ね、啓太君ってどんな子だったの?」

「啓はとにかくスケールのでかい……包容力のある男です。男が憧れる感じの。文武両道ってやつ」

「ゆかりんは?」

「有華は、まーいわゆる健康優良……不良少女でした。筑波サーキットじゃ敵なしでしたけど、勉強はてんでダメ」

「緒方君は?」

「暴走双子に振り回される、しがないカメラ小僧です」

「カメラ小僧。へぇー、写真上手いの?」

「あのですね。バイクとか車って、格好よく撮るの難しいんスよ。背景流すためのスローシャッターが厳しいっていうか……」

「……」

「あ、わかんないっすよね。で、で、こっちがね、必死で撮ってやってんのに、まぁ双子にはボロっカスに言われっぱなしで」

「それ酷いわね」

「でもそのうち上達して、気がついたら賞とかもらったり」

「……勉強はできたわけでしょう、緒方少年は」

「つってもチビで眼鏡で……あ、こんな話してていいんですか」

 岩戸はベンチに背中をあずけ、空を見上げて言った。「実はね、喧嘩しちゃったの……ゆかりんと」

「あーなるほど。あいつカッときますからね。でも大丈夫っス。岩戸さんのこと大好きだから」

「緒方君が?」

 意外な返しにあって緒方は赤面した。「ゆゆ、有華がですって」

「緒方君は?」

「俺っスか!? ……あのぉ、からかってるでしょ」

「うん」

「勘弁してください」

 しっかりしろ。

 緒方は褌を締め直す。「係長にまた叱られる……『仲良くしろとは言ったが、籠絡されろとは言ってないぞ』とか」

「籠絡されたんだ、私に」

「いいえ。警戒心は持ってます。岩戸紗英は魔女……でも魔性ってのは魅力的ってことっスよね。有華はガキっぽいから、岩戸さんの、こう……大人っぽいムードに憧れてんじゃないのかな」

「あんまり好かれてもね」岩戸は溜息をつく。「良いことばかりとは、限らない」

「そうですか?」

「啓太君のことをちゃんと話してくれないの」

「そう……ですか」

「あの娘、私をスーパーレディだと思ってる。コンプレックスがある。でもね、本当はそうじゃない……そこんとこの、そうじゃないってところをさ、どう伝えたらいいのか悩ましくて」

「あいつと喧嘩……初ですか」

「本格的なのは初なのよね」

「懐かしいなぁ」

「懐かしい?」

「……啓と有華が戦争状態になったら、親爺さんが俺を呼びだすんです。そういう役回りだったんで」

「へー……じゃ、やっぱり伝言お願いしようかな」

「伝言?」

「私の話、長くなるけど……聞いてくれる?」



 ここが原点だ。有華は久しぶりに展示室へと足を踏み入れた。

 総務省傘下の情報通信研究機構(NICT)には莫大な国費が投じられている。見返りとしてその成果は国民に開示しなければならない。正面玄関のすぐ右側、一階の展示室はそのためにあった。さまざまなテーマがディスプレイされており、誰でも見学ができる。

 有華がここを訪れたのは、展示物が並んだ机の下に、私物をしまいこんでいることを思い出したからだ。閉館時間が迫っていて客は皆無だった。有華はスタッフを呼び止め、片付けがしたいから部屋の一番奥だけ照明を落とさないように、と断りをいれた。

 ここに来ると、説明員として働いた日々が昨日の事のように感じられる。有華は壁に指を這わせた。旧郵政省の時代から続く通信技術の変遷が、イラストや写真を使い、わかりやすく描かれている。インターネットの進歩は凄まじく、毎年のようにこの壁を更新した。説明の手順も都度変わった。いろいろと覚え直した。それが懐かしい。

 一番奥には人工衛星を自動追尾する望遠鏡の模型が展示されている。膝を突いて、その土台となっている机の下、収納棚の扉を開けた。

(……あった)

 段ボール箱の中に入れた書類の束。DVDのバックアップディスク。ずっと気がかりだった。片付けよう。だけど。

 これを片付けてしまうと、いよいよNICTでの用事が潰えてしまう。

 今月で契約解除となった八千夜大義——GEEのアシスタントという地位は今日まで。かといって、この展示室へ復帰を命じられるのも困る。困るのだ。

 件の段ボール箱を取りだして中身を一つ一つ取り上げる。捨てる物と持ち帰る物を選別すると、ほこりをたててしまった手前、少し掃除をすることにした。雑巾とバケツの置き場所は相変わらず。展示物の隙間、収納棚の奥——汚れやすいところも昔のままだ。ここで過ごした時間のすべてを、身体の感覚が覚えている。と同時に、ここで刻んだ想い出のすべてが、今の自分にとって辛く感じられる。

(辞めなきゃ……いけないのかな)

 展示室は陽が沈むとともに暗くなっていった。人の声がしない分、空調の音がよく聞こえる。照明はほとんど落ちていた。自分のまわりだけスポットライトを当てたように明るい。

 やがて——遠くで声がした。

「おぅい」聞き覚えのある男の声だ。どうやら入口に立っている。

「へ!?」

 有華は雑巾掛けを中断して、展示物の隙間からひょっこりと頭を出した。「……何。どうしたの。見学時間は終わってるぞ」

 相手が誰かシルエットだけでわかる。すらりと細身の伊達男。見た目だけじゃなくて頭のデキ具合もスペシャルな期待の新人。

 展示室はうなぎの寝床の如く細長い。香坂一希は中程まで足を進めて立ち止まり、そこから有華に声をかけた。

「明日から初台なんだ。もう霞ヶ関には顔を出さない」

「知ってるよ」

「今夜は忙しいんだ」何故だろう。香坂はそこで、棒立ちのまま話している。

「わかってるよもちろん。電網免許証の認証システムが一時ストップ、メンテナンスに入る。ニュースでも言ってるし」

 有華は首をかしげた。会話を続けるのに不自然な距離。態度もどこかよそよそしい。こっちに近づけない、近づきたくない事情でもあるのだろうか?

「僕、新庁舎の入館システムにかかわってるんだけど」

「だから?」

「……他のシステムに先駆けて、庁舎のセキュリティは起動しなきゃいけない。だからここしばらく初台に通い詰めだった」

「だから何?」

「………………常代有華の電網免許証で……セキュリティ、通れるようにしておいたから」

 その真意が読み取れず、有華は腹をたてた。「何それ。嫌味なの?」

「そんなつもりじゃない。特命課が初台に移っても、今までどおり出入りできるってことだけ」

 有華は怪訝そうな顔のまま立ち上がった。

「岩戸さんに、そうしろって言われた?」

「いや……勝手にやった」

「はぁ? 何それ。おせっかい?」

 どうやらこれは、香坂流の慰めらしい。奇妙な距離の意味も理解できる。きっと他人のプライバシーに干渉した自分を毛嫌いしているのだ。上司命令でも何でもない事を勝手にした。自分のキャラにないことをやった。おせっかいだとわかっている。それで、それだから足を止めてしまったんだ。

(キツネ丼……)

 優しさを感じられて有華は胸の奥が暖かくなるのを感じた。けれど、その一方で現実を噛みしめる。新庁舎のセキュリティを通過できるからといって、オフィスに自分の席があるとも思えない。岩戸が自分を必要としない。必要な能力だとは認めてくれない。転籍に前向きじゃない。それがすべて。いくらイケメンでも無理。いくら優秀でも、こればっかりは無理。

「常代さんは、電網庁に必要な人間だ。僕はそう思う」香坂は言った。

「電網庁が……? それって誰の意見」

「客観的にみて」

 有華は少々腹をたてた。電網庁を代表するかのような青年の口ぶりに。

「ふぅん」

 だから肩をすくめ、首を左右に振った。「上から目線だね」

 そして力なく笑う。皮肉を言ったつもりだった。

「……え?」香坂は薄笑いを浮かべている。

 軽い冗談だ、とでも思ったのだろう。余計に腹がたったので、今度はお腹に力を込め、大きな声を出した。

「上から目線、って言ったの!」

 その途端——有華の目尻に涙が浮かんだ。

 わかっていた。私、八つ当たりしている。やさしくされたのに、まだ甘えようとしている。そんな自覚が、手応えがあった。

 だから——涙が。

「……」香坂は黙っている。

 距離があってよかったと思う。泣いていることに気づかれたくない。

 有華は虚勢を張った。「まぁ……さすがってことだ、香・坂・さ・ん。大学院の修士さまは電網免許証の論文を書いた秀才。年下で、しかも高卒の私にすればぁ、そりゃあ雲の上の、天の上の、宇宙人な御方ですわよ」

 拗ねた。明らかに自分は拗ねている。それがとてつもなく恥ずかしい。

 香坂が一歩前に出た。二歩、三歩。一気に展示室の奥へ、つかつかとこっちにむかって歩み寄る。

「来るな」

 有華は背を向けた。肩が震えている。「来るな馬鹿キツネっ」

 腕を香坂に掴まれた。

 イヤだ。同情なんてイヤ。それを煽った自分は最悪。

 だからふりほどいた。「……」

「何言ってる。僕のどこが宇宙人なんだ。僕はまったく万能じゃない」

 香坂は低い声で、穏やかに言った。「僕には能力がぜんぜん足りない。それを一番知っているのは、常代さんじゃないか」

「……」

「僕らはパートナーになるべきだ。お互いが、お互いを必要としている。違うかな」

「……香坂はやっぱ馬鹿だ」有華は顔を見せずに言った。「そういう台詞は、女の子に言うもんじゃない。勘違いする」

「勘違い……してくれてもいい」

「ずるい」二枚目ぶりが板についている。だから呆れた。「そういう言い方ないわ、サイテぇ。これだから、イケメンってやつは」

 まくしたててから、憚らず鼻水をすすった。

「……ずるいかもしれない。でも君だってずるいだろ。だからおあいこだ」香坂が語気を荒らげた。

「私がずるい?」

「ずるいよ。君は秘密だらけじゃないか」

 肩の震えが止まる。

 心当たりがあった。だから言い返せない。「……」

「僕はやきもきしてばかりの、いいピエロだよ。違いますか」

「……そんなつもりないし」

「ゆかりんが、出会ってひと月もしない僕を信用できないのはしょうがない。過去に何があったか知らないけれど、話す相手としては不足でしょう。正直悔しい。でも仲良くなるには時間がかかる。だから僕は必死だ。自分にできることを探してる。君が、岩戸さんの信頼を勝ち取ろうと……必死なように」

 香坂の真剣な表情が痛い。だから有華は気づかされた。

 傷つけていたんだ、私が——香坂を。

「……明日、初台で待ってる」祗園狐が背中を向ける。

 寂しさが透けて見えた。だから。

「待って」引き留めた。

「……」

「も……うちょっとここにいて、キツネ丼……じゃなくて」有華は声を震わせて言った。「………………香坂、さん」

「キツネ丼でいいよ、ゆかりん」

「じゃあ……私も有華でいい」



 車のメンテナンスは汚れを気にしていられない。車体の底をのぞきこむ為に、ほっぺたがアスファルトに着くことだってある。そういう育ちだから有華はときどき地べたにぺたんと座り込む。悪い癖だと思うけれど、それにつきあってくれる奴はイイ奴だという経験則も持っている。

 実のところ香坂一希は「座ってくれない」タイプだと思っていた。実家が呉服屋、モデル経験ありでかなりのお洒落好き、綺麗好き。いわゆるイケメンで頭も切れる。きっと心の底では汚れ仕事を受け容れがたいに違いない。

 自分とは別次元の住人なのだ、と。

 ところが。

「え……うそ。いいの? 汚れるよ?」

 香坂は展示室の床にどっかと座り込み、背中を壁にあずけている。

「いいんだよ」香坂は苦笑した。「地べたに座るような奴じゃないって思われてましたか?」

「えへへ」

「スーツはね、ここ一番で汚すのが格好いいんだ。そのためにも普段は綺麗に保つ」

「ここ一番ってどんな時?」

「大事な人が困っている時、とか」香坂は臆面なく言う。

 有華は三角座りして膝を引き寄せ、太腿に顔を埋めた。誠意には真っ直ぐ応えなきゃいけない。そう思う。でも勇気が必要だ。身体が熱い。辛い告白をするとき、いつも身体が火照る。

 頑張れ、と自分に言い聞かせた。「……弟がいたの。名前は啓太。双子だから、顔はおんなじ。私もずっとショートカットだったから、まーよく似てた」

「……」香坂は黙っている。

「中2ぐらいまでは身長も同じぐらいだったのに、三年でずいぶん背が伸びやがってさ。バイクのサーキットデビューは同時なのに、足とか腕の長さが違うわけ。転ぶのはいつも私。追いつけなくて悔しいから違うラインを行こうとしたり、無茶なブレーキングして滑ったり。あんまり私が転ぶから、バイクはダメだって親爺が言い出した……だから私は、高校で車にスイッチ。足もつかないし、ちょうどいいやって思った」

「……モータースポーツ一家だ」

「それがさぁ、啓は勉強もできたんだなコレが。将来の夢は警察官僚だとか、東大目指すとか言って……おっちゃんが……叔父の事が大好きでね。憧れてたのよ。おっちゃんはおっちゃんで、自慢の甥っ子だったからさ……溺愛ぶりがまー凄いのなんの。アタシゃ叱られてばっかなんだけど」

「高柳……警視総監」

 有華は顔をあげて、小さく頷いた。「おっちゃんには息子がいなかったから……啓に期待するのは当然、って感じで。うちにはしょっちゅう顔出してたんだ……いつも何か買ってくるの。育ての親は俺だぞ、って言い聞かせてた」

「……」

「啓と私は高校で進路が分かれた。こっちは馬鹿高校で勉強そっちのけ、父ちゃんとサーキット三昧。あっちは隼人と同じ難関校に進学して、勉強とバイクレースの両立を目指した。十八になったら私は即四輪免許ゲット、もちろん啓太は受験勉強。東大一直線ってやつね。でも気分転換のために、ときどき一緒に走ってた。あいつが二論で私は四輪」

「モテただろう、君も啓太君も」

「そうだね……あっちは優等生でスーパースター、私は不良娘でアイドルって感じかな」

「……」

 有華は大きく息を吸うと、もう一度膝を抱えた。

「高三の冬に、啓は死んだの……っていうか」

「……」

「私が殺した」

「そんな言い方しちゃだめだ」

「……轢き殺した」

「それもダメ。事故だったら、殺したとは言わない」

 香坂が優しい。だから涙声になる。「世間はキビシーから……車屋の馬鹿娘が……十八になって免許を取ったと思ったら、いきなりバイク狂の弟を轢き殺した。救いようのない一家だ。そう……言われてた」

「何が起きたの?」

「あの日に限って……絶対に転ばない男が転んだの。避けられなかった」

 冬の雨が思い起こされて、有華は鳥肌が立った。峠道。ぐしゃぐしゃのバイクと車。路上に伸びるヘッドライトの光束。膝に抱えた弟の頭。自分によく似た弟の顔。助けを求めて絶叫する自分。そのすべてを涙と雨がないまぜになったシャワーが洗う。流れた血がどんどん薄められていく。だから。

 だから死に顔は綺麗だった。

 有華は凍えた身体を温めるように膝をぎゅっと抱え込む。

「実は……事故のこと、少しは知ってるんだ」香坂が静かに言った。

「ネットでしょ? いずれバレると思ってたから」うつむいたまま答える。

「驚いたよ。常代有華の過去に関するブログ記事……というか君を攻撃する誹謗中傷。あれ、削除申請するべきだ」

「消えないんだ、ずーっと。仕方ないよ。罰っていうの? 私は………………私は、弟を轢き殺した女のまま一生生きていくしかない」

「……五年も経つんだろう。誰があんなに書き殴るのか」

「わからない。恨まれまくりだから。啓にはファンがいっぱいいたし、高校生で車を運転したらそれだけで世間は暴走族扱いでしょ」

「よく立ち直ったね」

 有華は膝を深く、深く抱えた。「へへ……立ち直った風に見える?」

「だってゆかりんは……有華は……明るくて元気……で」

 香坂が言葉を呑む。

 沈黙がおとずれるたびに、有華は空調の音に耳を傾けた。展示室の片隅で静かな時が流れていく。

 どれぐらい時間が経っただろう。

「高柳さんとは、それ以来なんだね」香坂がぽつりと言った。

「……顔をみると辛くて。おっちゃん、私の前で絶対泣かないの。でも、時々ものすごく寂しそうな顔をするから……だって私の顔、啓そっくりなんだよ。何を考えてるかすぐに伝わる。こっちの胸がひきつりそうになる」

 だから髪を伸ばしたんだね。香坂の言葉に、有華がゆっくりと頷く。

「でも立派だと思う。すくなくとも、僕から見れば有華は明るくてやんちゃな元気娘だ。そんな深い傷をひきずっているなんて、全然わからない」

「さすがに当時はボロボロだった。高校を卒業したらレースで身を立てようと思ってたのが、車を見る事すら嫌になって、自分をとことん責める癖がついて」

「……苦しんだね」

「責めて、責めて……そのうち八つ当たりし始めた。私の人生を壊したのは車と、車に乗る喜びを教え込んだ父親と、そして私なんかに自動車免許を与えた教習所だ……って。逆ギレ」

「……わかる気がする」

「で、何をトチ狂ったのか東大目指すと宣言した」

「東大に合格すれば弟の夢を……警察官僚への夢を、引き継げると思ったんだ」

「逆恨みのパワーを、全部勉強にぶつけて。で」有華は顔をあげて苦笑した。「四ヶ月ぐらい努力してみたものの、とーぜん落っこちた。そっからが本番。本格的な欝状態の、いわゆる……引き籠もりが始まったの」

 モータースポーツに捧げた青春、十代の幕切れは——全否定。派手な青春を謳歌してきた、その代償。いつでも思い起こせる。のたうちまわって苦しんだ、あの日々を。自分を心配して実家に訪ねてきた叔父が、庭から二階の子供部屋を見上げている姿を。それをカーテンの隙間から見下ろしている自分を——。

「長かった?」

「最初は自宅浪人してる風だったんだけど、けっきょく勉強なんて手につかない……どうにかして社会復帰しなきゃと思うんだけど、ネットでめちゃめちゃに書かれてるから、近所の人に会うのが怖くて、駅にたどりつけない。だから電車に乗れない」

 有華はおもむろに立ち上がり、展示室をゆっくりと練り歩いた。「……ここね、家からチョー近いんだ。無料だし、子供相手のイベントとかもあってさ、事故の前から学校帰りにちょいちょい来てたのね」

 香坂も立ち上がり、有華の後ろをついて歩いた。「ずいぶん難しい展示が多いよね。勉強嫌いの女子高生がたむろする場所だとは、とても思えないけど」

「なんかさ、説明員のお姉さんが賢い子だと思って真剣に相手してくれるんだ。学校の成績なんて聞かれないし、それが嬉しかったんだと思う」

「……」

「引き籠もりになってから、ときどき、就職の面接に行くとか言いつつ家を出るには出るんだ。けど……結局ここで、一日中時間つぶしたりしてた」

「避難所……だったんだね」

「そしたらさ。運命の日がやってきた」

「運命の日?」

「なんか新顔で、やたら美形の説明員がいるなーと思ってたら……肝心の説明がド下手でさ。私のほうが詳しくて、しょうがないからフォロー入れてあげたりしたの。そのうち私が調子にのっちゃって、この展示はこうしたほうがわかりやすいとか、こっちの展示品は壊れたままになってるから直すべきとか、そんな事まで口ばしっちゃった」

「常連だからね」

「そしたら感心されちゃって……その説明員さんが、突然どっか行っちゃったと思ったらバタバタと戻って来て、いきなり『ここで働かないか』って言うわけ」

「嘘。凄い。スカウトだ」

「驚いたよぉ。で、むちゃくちゃ嬉しかった。舞い上がったっていうか……就職面談が怖くてしょうがない子だったのに……まさか、ここで働くという手があるなんて思いつかないじゃない?」

「それが、立ち直るきっかけだったんだ」

「でもさぁ、最初は無理だって言ったの。人として壊れてたから、自信がまったくない。でもしつこいのなんの。バイトならどう? 週一でもいいよ? とか……なんか一生懸命口説かれた」

「素敵な出来事だね」

「素敵っていうか、まー強引っていうか。でも、話してて……凄く偉い人だとか、エリートだなんてムードはなくて、とにかく……じっと見られると嫌って言えなくなるっていうか、この人と仕事がしてみたいっていうか」

「まさか。その人って……」

「政治家の血をひくサラブレッド。総務省きってのスーパーレディ。あんときはNICTの企画担当だった、私の……憧れのジャンヌ・ダルク」



「ごめんね、こんな話聞かせちゃって」

 岩戸は立ち上がって、屋上を流れる穏やかな風に身を任せた。

「どうして謝るんですか」緒方はベンチに腰を据えたまま、岩戸の背中を眺めている。「むしろ謝るのはこっちです。俺、岩戸さんを誤解してました」

 常代有華は警察官僚の姪。だから岩戸は特別に目をかけている——その見方に染まっていた自分を緒方は恥じた。

「ほらほら。魔女の台詞を簡単に信用しちゃだめじゃないの?」岩戸は振り向いて笑う。「魔女の運転手なんてやってたらお前、巻き込まれるんだぞ! ……ふふ。格好よかったなぁ。幼なじみ君」

 緒方は岩戸と出会った時の経緯を思い出して赤面した。東京ミッドタウンの地下駐車場。思いっきり魔女呼ばわりして、その直後に当人と鉢合わせして。

「あんときは……すいません。有華に驚いたんです。久しぶりの再会が、車の運転席でしょ。あいつ、車なんて見るのも嫌だった筈なのに」

「……そうだったね」

「教えてください。どうやって有華にハンドル握らせたんですか」

「…………NICTで知り合ってから半年後ぐらいかな。まだあの子が一人暮らしを始める前ね。家庭事情が重いって事に、うっすら気がついたの」

「ネットの……誹謗中傷ブログですね」

「当時の私は車で国分寺まで通ってたんだけど、ゆかりんの話を知ってから、わざとNICTの近所で飲み癖をつけたわけ。帰りは運転できないじゃない? 酔っ払いながらゆかりんに電話して頼んでみるの。うー終電なくなったぁ、私の車運転して送ってぇー、って」

「そんなの断るでしょ? タクシーに乗ってくれって言うと思う」

「そう。で、断られた私は、駐車場に置いた車の中で朝まで寝るっていう暴挙に出た」

「げ。美容に悪そうです」

「面白かったよ。週末、飲む。ゆかりんに電話。断られる。駐車場で寝る。駐車場で寝たと恨み節でメールする。月曜日、ゆかりんに怒られる。笑って誤魔化す。その週末、また飲む。その繰り返し」

「有華は……気づきますよね。ハンドルを握らせようとしてるって事に」

「気づいてたと思うよ」

「車を運転したくない理由、話しませんでしたか?」

「啓太君の話はしてくれなかったね。こんなのパワハラだーって言われたけど。まぁ……ワタシ的にはお互いシラを切るのもアリだと思ったの。で、結局我慢比べは私の勝ち。四週目で成功」

 岩戸がガッツポーズをとる。

「運転させた……っていうか立ち直らせたんですね。すげぇな」

「甘えればいいの、あの娘は。世話を焼きたいタイプだから」

「ぐ」緒方は目を丸くした。「……さすが魔女っス」

 甘える。そんな手があるなどとは思いも寄らない。そういえば、有華は勉強嫌いで言葉使いの荒い不良娘キャラである一方、工具の使い方や機械の扱いに配慮を怠らない繊細な感覚を併せ持っている。誰よりも手が速く正確で、啓太がレースに出場する時はかならずメカニックを買って出た。もしかしたら表方より裏方が性に合っているのかもしれない。

 岩戸紗英はそんな有華の、世話焼きの才を見抜いたということか。

(甘えればいいの、か……)

 人心掌握なる能力は、学業と別次元の産物らしい——緒方はそんな風に納得させられた。

「そんときにね、やっと実家の事を半分ぐらい話してくれたかな」岩戸は笑顔で言った。「外車のレストアが専門の修理工場で、自分はマニュアル車にしか乗ってこなかったっていうじゃない? ……面白いっ、て思ったの。だから」



「その翌週だよ。岩戸さんが突然、車買い換えてさ……このオンボロにっ」

 有華はロータス・エクセルの後輪に蹴りを入れた。「しかもマニュアル車は自分で運転できないから取りに来て、だって」

 それからボンネットに腰掛ける。

 香坂は頷いた。「なるほどね。わざわざ古いのを買ってレストアさせたかったのか……凄い行動力だな、岩戸女史」

「ノリで動くからあの人。強引なんだけど、だんだん怒る気にもなれなくなる。笑顔にね、なんかやられちゃう」

「…………魔女だ」

 NICTの駐車場は広くて立派だが夜になると思いの外暗い。だから香坂は目を凝らした。独法らしく節電に余念がない為か、照明はわずかばかり。けれどシルエットを眺めるだけでも、珍しい英国車には味わいがたっぷり感じられる。そのボンネットに有華が腰掛けると輪を掛けて面白い。機械を手足のように扱う娘の輪郭線が溶け込んで、まるで一体の生き物のように思えてくる。 

「この子は結局、実家に持って帰ってないけど。都内にある、ロータス好きの中古車屋にメンテを相談してる」

「そうなんだ」

 香坂は眉をひそめた。有華の実家でボロ車をレストアさせようという岩戸の企図は、実現していないらしい。そういえばNICTから目と鼻の先だという実家から通勤せず、わざわざ一人暮らしするのはどうしてだろう。不経済もいいところなのに。

 有華が実家と距離を置く理由は、さっぱり見えてこない。

「岩戸さん乗せて、いろんなハナシをしながらこいつを転がすうちに、わかったことがあるの」有華は夜空を見上げて言った。「今も半人前だけど、十八歳になったばかりの私は半人前以下。ものすごく世間知らずだった。免許を持っちゃダメな人だった」

「免許を持っちゃ……ダメな人」

「年齢じゃないんだよね。十八だろうが十九だろうが、世間知らずは免許を持っちゃいけないと思う。人殺し呼ばわりされて不幸になるより、免許もらえないほうが、結果的に幸せだし」

「……」

「違う? 間違ってるかな」

「公道の経験が浅いモータースポーツ経験者。だから危ない、って意味?」

「あ、いや……それは全然違う。みんな運転上手いし、サーキットで走るための安全講習受けて、試験受けて、ライセンスも更新が必要で……素人よりはよっぽど意識高い系」

「だったら僕は……君が事故を起こすべくして起こしたとは思わない」

「どうしてさ。私だけ下手って話じゃん」

「そうは思えない」

「誰も信じてくれなかったよ? 避けられなかったなんて、そんなの全部言い訳だって」

「僕は信じたくなる。理由なんて何もないけど」

「そりゃあ」有華はうつむき加減に言った。「そんな事言われちゃうと、ホッとするけどさ」

「運転免許の存在を肯定したくない、って気持ちはわかる。でも、あんまり感心しない」

「…………ひねくれてる?」

「発想が後ろ向きすぎると思うんだ」

「じゃあわかるように教えて」有華が顔をあげた。「十八の私が、免許を持った意味。資格を与えた側の……私に与えてOKって考えた根拠」

 向けられた一途な視線に香坂は身構えた。即答できそうにない問いかけだった。

 そういえば自分が車の免許を取った夜、母親の明るさが少し影をひそめたことが思い出される。複雑な面持ちは、親の責任を受けとめてのことだ。資格というものは人に覚悟を強いる。車は簡単に人の命を奪ってしまうから。それも、人の意思とまるで無関係に。

「ちょっと時間が必要だ。考えさせてほしい」そう答えるのが精一杯だった。

「ふふ、分析きたぁ。楽しみだな」

「その……代わり」

「その代わり?」

「実家に顔、出したらどうだい。岩戸さんは、君が実家に帰りたがらない理由を勘ぐってるんだろう?」

 常代有華は叔父と岩戸のパイプ役になりたくない、だから実家に帰ろうとせず、高柳警視総監のことも避けている——岩戸はそんな風に推論し、それがきっかけで喧嘩になった。

 有華は苦笑する。「そんなこと考えたこともないのにナァ」

「誤解なんだね?」

「うん。でも不思議……あの人、なんで私が実家に帰ってないって、知ってるのかな。そういうところが怖いんだよね」

「怖い?」

「どーしても、疑っちゃうんだ岩戸さんを」有華の表情が曇る。「あんな完璧な女性が、なんで私みたいな不良物件を大事にしてくれるのかなぁって。やっぱ警視総監の姪ってところに、ポイントがあるんじゃねーの……だから私を大事にしてくれるの? 私のこと調べたりするの? って思っちゃう。自意識過剰気味」

「逆に、岩戸さんは君の態度に壁を感じている。高柳総監を避けている理由、僕はなんとなく理解できた。同じように……岩戸さんに説明すればいい」

「……同情を煽るの、嫌いなんだよ」

「じゃあ誤解するだろうね。誤解されてもしょうがない」

「プライベートじゃん」

「わかるよ。でもお互いがお互いを誤解してちゃ、仕事にならない。だったら、どっちかが行動すべきだ。たとえば君が実家を避けたりしなければ、全部解決するんじゃないのか?」

「………………」有華は押し黙っている。

 香坂はあえて、実家に立ち寄りたくない理由を尋ねなかった。その代わり。

「上司の誤解を解くのも、部下の勤めかもしれないよ」とだけ告げる。

「正式には……岩戸さんの部下じゃないし」

「正式な部下になりたい癖に」

「……むぅ」

 香坂はポケットからスマホを取り出した。「霞ヶ関で〇時にシャットダウン開始なんだ。みんな徹夜続きでね。僕もそろそろ加勢に戻らないと」

「送ってくよ」有華は尻に敷いたボンネットをこつんと小突く。

「いいよ。僕は宿題をもらった。一人になって考える……考えるのが僕の仕事。で、君の仕事は」

「何……?」

「……感性を活かすこと。つまり現場への復帰……その第一歩は、意外だけど、ロータスのレストアだったりするんじゃないのかな? この近くに、いい店があるって聞いたけど」

「あーあ……やっぱそこぉ?」有華は唇を尖らせた。「……いいプランだと思ってるんでしょ」

「まぁね。これがきっと、僕らのパートナーシップだ」

 そう言い残して香坂は歩き出し、まっすぐ駐車場を横切って、一度も翻ることなくゲートへと向かっていった。

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