(四)

小金井市:貫井北町:午後


 来客の予定は十五時。それまでに少し片付けて、車一台分のスペースを作るのが急務。でも、その前に。

 常代有華は配電盤のスイッチを手早くさばき、オーディオのボリュームに指をかけた。GEEがいなくても派手に鳴らさないと気乗りがしない。いつもと同じか、それ以上に。ズドン、と大きな音をたててスネアドラムからスタート。サイバークライム実験場の、体育館のごとく高い天井めがけ、バスドラムが拡散する。

 来るぞ。裂くようなギターが。落ち込んだ気分を吹き飛ばしてくれる金属弦の噴火イラプションが襲ってくる。今日、やっと笑えるかもしれないな——有華がそう思った矢先。

「な……んですか、こ、この音楽っ」

 女の金切り声がした。

 有華は広大な空間を見渡し、声の主を探す。

(誰?)

 紺色のスーツを着た丸眼鏡の女が、二階のキャットウォークに見えた。耳をふさぎつつ鉄製の階段を一段ずつ降みしめている——呻きながら。「うぇええええええ」

 めくるめく高速ギターに目を回しているらしい。

「あら……」有華は見知らぬ客を物珍しそうに観察した。「何か御用っすか?」

 女は身体を震わせながら、口に手をあてて近づいて来た。「うぷっ、で、電網、庁の、三枝です」

「電網、庁の、サエグサさん」

「つ……つ、常代さんですよね」三枝と名乗る女は、ずれた丸眼鏡を直せないほど弱っていた。「たたたた垂水局次長からお話はうかがってます」

「顔色悪いですよ。トイレとか行かれます?」

「ろろろ、ロックというやつが苦手で。ち、ちょっと止めておいてもらっていいですか」

 GEEが実験場に据え置いたオーディオ設備は破格の大出力を誇る。壁にはめられたすべての窓枠がびりびりと異音を放つほどだ。有華がiPodのストップボタンを押すと、建物全体が安定を取り戻す。

 と同時に、三枝はその場にへたりこんだ。

「げー、げげぇえええ」そして吐いた。

「そ……そんなにキモチ悪いっすか、ロック」

「ハァ……ハァ」

 それから三分ほど、二人の間に会話はなかった。

 有華は三枝をパイプ椅子に座らせ、扇風機をあててやった。あの右手に握りしめているくしゃくしゃになった名刺が、いずれ自分に手渡されるのだろうなと想像しつつも、それすら手放せないほどヘヴィメタで体力削られるなんてどんな育ち方してんだ、っていうかヴァン=ヘイレンに失礼だぜ——と思った。

「……私、こういうもんです」

 ようやく差し出された名刺には「電網庁保全本部総務課 主任 三枝典子さえぐさのりこ」とある。

「ホゼンホンブ?」

「前は総務部だったんですが、明日から名前が変わって」

「霞ヶ関でお会いしたことないですね」

「九段下にいましたから」

「そっか。関東通信局だ」

「関東総合通信局、です」三枝はバッグからクロスを取りだし、丸眼鏡のガラスを神経質そうに擦った。「ところで……常代さん。あんなに大きなボリュームで、しかもノイズのごとき音楽を聴いていたら難聴になりますよ。お勧めできません」

「あ……はは」

「今からベガス社の面々がいらっしゃる。お客さんです。体調に悪影響が出ないとも限らない。そういう意味でも、お勧めできない」

「あー、こりゃどうも……すんません」

 こういう時、GEEなら喧嘩してくれるに違いない。自動車バカはロック小僧に決まってるとか何とか、啖呵を切ってくれるだろう。けれどGEEは出入り禁止の身。

 自分はただのアシスタント。電網三種の——どこにでもいる凡人だ。

 有華は相手の胸元にぶらさがるカードホルダをチラ見した。これみよがしな金とブルーの二重線。電網一種保持者。

 わかっていた。一種を持つには才能だけでなく「覚悟」まで必要だということを。自分のネット機器がサイバー犯罪の踏み台にされた時、問答無用で処罰される一種。自分で自分の身を守らなければならない、しかも二種以下の人々を正しい道へ導く責任まで担う一種。知恵と規範、両方で胸を張れる人こそ電網庁のスタッフにふさわしい。

 そんなの、夢のまた夢だ。


——能力だけでいうと、必要な人材とはいえないわね


 岩戸は辛辣に言った。まったく反論の余地がないと思う。有華は三枝という女を——遥か高見の一種保持者を——羨望の眼差しで見た。能力のみならず根性も座っているに違いない。音楽の趣味も、きっとクラシックか何か。

「あのう……」

 勉強のコツって何ですか? 有華はそう尋ねようとした。

 ところが機先を制して三枝が口を開く。「研究用車両の受け入れは十五時ですよね。まだ一時間以上ある。ちょっとだけお話、いいですか」

「あ……はぁ」

「実は、保全本部は人手が足りない。職員を絶賛募集中です。常代さん、受験勉強してくださいませんか」

「じゅ?」有華は顔をまっ赤にして言った。「受験……勉強っ!?」

「そう。国家公務員試験と電網一種に合格していただきたい。大手を振って、電網庁入庁を果たしていただきたいのです」

「あのー」有華は苦笑いを浮かべた。「それができたら、とっくにそうしてるっていうか」

 参考書を買って、開いて、しばらく唸って——本棚に並べて。

 それから二度と引っ張り出したことがない。

「聞きましたよ。やる気はある。根性もある。だけど勉強の方法がわかっていない。伸びシロあり。可能性大」

「えーと」

「あなただけじゃないの。実は、電網庁職員の人材不足を補うべく、国策として才能ある候補者を集め、ハイレベルな教育指導プログラムを実施する予定なんです。是非参加してほしい。これは垂水局次長のご意向でもあります」

「……あのー」

「何でしょう」

「アタ……わ、私」

 喉元が熱くなる。思いがこみ上げてくる。

 自分でいうのも何だけどやる気はあります。根性だってばっちり。良い勘してるから役にたてると思う。だけど、だけど資格は。資格は。

 資格。

 資格って何? 

 私、資格に裏切られたことがあるんです。

 わざわざとった資格のせいで死ぬほど辛い思いをした経験があるんです。

(ダメだ) 

 言えない。言っても仕方が無い。この人に身の上話をしたところで何の解決にもならない。

 代わりに有華は気の抜けたフレーズを口にした。

「私……ベガスの納品までに、片付けをしなきゃならないんで」

「片付け?」

「はい。片付け。他にもいろいろ忙しいんです。すいませんけど」

 三枝の顔に失望の色が浮かんだ。「……候補者の枠、バカにするもんじゃないですよ。プログラムは本格的なものだ。あなたはそれに選ばれた。極上の指導が受けられるチャンスをふいにするんですか」

「…………NICTの仕事をしながら、勉強なんて無理です。それに」

「それに?」

「こうみえてアタシ、研究者のアシスタントとしてはイイ線いってると思うンです。NICTも職場としてはグー。総務省傘下とかいいますけど、東京都内じゃない分ココの方がのんびりできるっていうか、呑気でいられるっていうか」

「……常代さん?」

「官僚だからエライってことは、ないんじゃないの、っつーか」

 三枝は立ち上がって、溜息をついた。

「がっかりしました。目を輝かせてくれるかと思ったのに……買いかぶり、という奴でしょうか。そうなんでしょうね」

「……がっかり、させちゃいましたか」

「ええ。あなたにとってはどうでもいいことかもしれませんが……あなたを推した人がどこかにいる。でも、当のあなたはその顔に泥を塗った。私ならそんな不義理は働きたくない。とはいえ、人それぞれに道はあるでしょうから」

 丸眼鏡の奥で光る冷たい視線が有華を貫いた。「もうお会いすることはないでしょう。NICTでご健闘ください……お邪魔しました。さようなら」



 丸眼鏡女が出て行くや否や、有華は塩を播く感覚で容赦なくBGMをスタートさせた。

(あんにゃろ、言いたい放題言ってくれちゃって……)

 忘れられそうにない。自分にむけられた、あの侮蔑の表情を。

(さようなら、とか言わなくていいじゃん)

 こういう時こそお掃除&ロック。金属音と重低音のリズムがテンポを速めてくれるし、気分も晴れるに違いない。とにかくこの、街を模した巨大倉庫クライム・ラボを片付ける。車一台分の駐車スペースを空けるために。

(これは、こっちでいいや……これはまぁ、ここで……う!? これ、何する物だろ……ゴミっぽいけど捨てたら怒るだろうな)

 ガラクタが膨大で、むやみやたらに動かすと取り返しがつかなくなりそうに感じる。だから有華はHMDを装着し、迷ったら都度ご主人様たるGEEに指示を仰いだ。

 作業を続けること三十分——。

(よし、ここを空っぽにすればOK)

 有華は壁に立てかけられていたベニヤ板を外した。すると見覚えのないハードケースが姿を現す。HMDの内蔵カメラを向けてみる。質感は旅行鞄っぽい。

〈それもロータスに乗せて、持ち出してくれぇ〉イヤフォン越しにGEEの声が届く。

 抱えてみると、かなり長い上に重量がある。楽器か何かだろうか? とにかく指示に従って倉庫の外へ運び出す。

 駐車場に停めたロータス・エクセルのトランクを開けた途端、吹き出してきた熱気に有華は顔をしかめた。晴れた夏の西日にあぶられた車内は灼熱地獄。髪の毛が焦げそうだ。呼吸を止め、ハードケースを押し込む。

 トランクを閉じて開口一番。「ひー、熱ぅ! ……重いし」

〈すまんなぁ、有能なアシスタントさま〉

「もー、荷物多すぎ! 片付けるのは私なんだからっ」

〈いけずぅ。今日までに出てけって言われてるから、しょうがないやん〉

「どうして来れないのさ」

〈クチフネとかいう男の居場所がわかりそうやねん……ベガスの技術系社員……四本木のおっさんによれば、まさしくハッカー。もしかしたら〉

「……悪い奴?」

〈……まだ何ともいえん〉

「頑張ってください。こっちは何とかします」

〈恩に着るで〉

 有華は助手席のドアを開け、大きく息を吸ってから後部席に頭を突っ込んだ。暗幕の中はトランク以上に熱がこもっている。GEEの遊び場、電子機器だらけの仕事スペース。そこへ、トランクに入りきらなかった細かい荷物を押し込む。代わりに空の防水ケースを二個、外へ取り出そうと決めた。例の「狙撃アシスト用ウェアラブル・コンピューター」——通称・成金時計のために購入した箱らしい。

 有華は後部席に半身を突っ込んだまま、二つの空箱をしげしげと眺めた。

「時計って二個作ったの?」

〈せやで〉

「一個は私が預かってるよね。一個はギィさんが?」

〈……然るべき場所に〉

「ふぅん」有華は頑健なケースを開閉させた。「ゴツいケースだなぁ」

〈腕時計に箱はいらんかったなぁ。そういえば、ゆかりん着けてくれてるか? 成金時計。フィールド・テストのために預けてるんやで」

「いや、アレ男物……着けて歩くのは、ちょっと。あ、便利機能とかあれば、別だけど」

〈あるある。ありまくり。但し、ちょっと勉強は必要かな〉

 有華は小さく舌打ちした。どいつもこいつも勉強しろとうるさい。「畜生、やっぱティファニーがいいなぁ……機能なんかいらないっつーか」

〈ネックレス型はいまのところ一個しか作ってない。岩戸はんの首ちょん切って奪い取れ〉

「バカいわないでください」

 そのときだ。有華は背後に——助手席のドアから後部席へ上半身を突っ込んでいるから、お尻のあたりに——妙な気配を感じた。

(何!?)

 あわてて車から身体を引き抜き、振り返る。

 やっぱりだ。エンジン音をたてない奇妙な赤い4ドアセダンが、ほんの十メートル先に停車したばかりであった。ベガス・テクセッタHV。ガソリンエンジンに加えて電動モーターを搭載する、いわゆるハイブリッド車。それも——オートパイロット機能つき。

「あー、もう来ちゃったか」

 試作車両プロトタイプ「アスカ号」は、予定より三十分以上も早くNICT駐車場に到着した。



「おし。オーケー。始めて下さい!」

 有華の号令を待って、テクセッタが動き出した。運転席には男が座っている。しかしハンドルを握っていない。おそらくアクセルも、ブレーキも踏んでいない。あくまで座っているだけだ。車はまっすぐ進んで一旦停止すると、後退し始めた。ハンドルを勝手に切り始め、駐車場に用意した二つのパイロンの間にぴったり収まるべく、滑らかにカーヴを描く。動きは慎重そのものだ。やがて減速、停止。

 運転席の男がドアを開け、降り立ち、胸を張った。

「はい。今ので二十六秒」

 手にしたストップウォッチをこれみよがしにアピールして、ニンマリと笑う四本木篤之。彼の横に大きく広がった口は、両目の広い間隔とともにカエル面を形成し、そのキャラクターである楽天的な性分とよく馴染んでいた。有華が会うのはこれで二度目である。

「二十六秒……」テクセッタに近づくと、有華は運転席を覗き込んで言った。「……って、速いんですかね」

「うん、速い方。赤いパイロンは実験しまくってるから得意なんだよ。実際の……街中で車と車の間に縦列駐車とかだと、もうちょっと遅い。でも四十秒弱ぐらいでいけると思います」

「得意とか不得意とか、あるんだ」

「カメラで撮影した画像と、データベースの画像を見比べて判定……いわゆる人工知能ってヤツ。データが蓄積されて、増えれば増えるほど賢くなっていく。逆にいうと、慣れてるかどうかで得意不得意がばっちり出ちゃう」

「へー。人工知能かぁ」

 有華は感心を装った。蠅が止まりそうなほど遅い動き。コンピューターの頑張りを褒めるべきだけれど、実用にはやっぱり不足だと思う。

「高速道路はあと一、二年でどうにかなると思うんだ。でも市街地になると、難易度が天と地ほど違うんだよね」四本木も苦笑する。「まだまだ、これからですよ」

「乗ってみようかな、アスカ号」有華は意を決した。「一人で乗る時って、やっぱ運転席限定なんスよね?」

「はい。いざというとき、ブレーキ踏んでもらわなきゃいけないんで」

 納車のためにベガスから来たメンバーは総勢四人。エンジニア三名を引き連れているにも関わらず、四本木が自ら率先しデモに勤める。今も有華のために恭しく運転席のドアを開け、それから反対側へ回り込んで助手席へ滑り込む。ナビの操作も手際がいい。あっという間に経路を設定してみせる。

「……目的地はGNSS(※米国のGPS、欧州のGALILEO、日本の準天頂衛星といった「測位衛星」の総称)信号が届くところでないとダメ。屋内の細かい位置までは、まだ指定できません」

 カエル面の中年男は終始楽しそうだ。我が子を送り出す父親の心境だという。

「地下の駐車場とかはダメなんだ。トンネルは?」

「ナビが進路上にトンネルがあると認識していれば、通り抜けることはできます。で、こんな風に目的地の入力さえ済めば、あとはサイドブレーキ解除でスタート」

 有華は足下を見た。アクセルペダルもブレーキも備わっているが、足を乗せないまま、四本木の指示どおり左手でサイドブレーキを開放する。

 テクセッタは前後のパイロンを起用にかわしつつ動き出した。駐車場の端へと向かって走り始める。

「えー、うそ。たったこれだけ? ……なんか拍子脱け。難しいプログラミングとか、そういうのじゃないんだ」

 目の前でハンドルが勝手に切られていく様子は摩訶不思議。その軽快さに反して、乗り心地は穏やかそのもの。スロットルの開度が大人しい。

「あ……ここが道路じゃないってこと、わかってんですかコイツ」

「わかってる。だから徐行してます」

「人間よりおりこうっスねぇ。駐車場でも飛ばすDQNドキュンとかフツーにいるし」

「ドキュンって何?」

「あ……へへ。えーと不良かな。不良」

「燃費が良くなるように運転しますから、吹かすべき時は人間より吹かしますよ」

「エンジンの燃焼効率がいい回転数を使って……とか、そういうこと?」

 有華が車に明るいと知って、四本木の目が光った。「そのとおり。燃費の改善は自動運転の一つの狙いでもある」

「他の狙いって?」

「……まず事故の削減、渋滞の解消。運転免許を返納した高齢者のための足。夜中ずっと走るトラック運転手の交代要員が減らせたら、運んでくる野菜の値段も下がる」

「凄いなぁ、コイツ」有華は柔和な車の挙動に、ペットのような愛嬌を感じた。「しかも……めちゃ簡単だ」

「運転免許を持ってない人に使ってもらうのが目標ですから、簡単じゃないとね」

 四本木はグローブボックスを開けて、紙束を取り出した。「ほら、マニュアルも薄ーくしてます」

「これ、読まなくても走れますよ」

「iPhoneとかを意識してます。アレって、ほとんどマニュアルないでしょ」

 有華は率直に言った。「やっぱちょっぴり怖いな。簡単すぎるっていうか……四本木さんは怖くない?」

「僕が怖がってちゃ、誰も乗ってくれないです。でも……」四本木は丁寧に言った。「本来、怖さは感じるべきだ。こいつは、車だから」

「怖さは感じるべき? どうして?」

「怖さがあればブレーキを踏むでしょう。車は止まってナンボです。こいつはまだ開発中の車両ですから……確かに、十万キロ走って無事故という勲章はある。安心はしてもらっていい。しかし、そもそも車は凶器だ。それを忘れてはダメ」

「難しいこといいますね」

「難しいよねぇ。そもそも車は矛盾に満ちた存在ですよ。アクセルを踏むと事故になる。アクセルを緩めると渋滞になる。馬力の大きなエンジンはおおむね重くて燃費が悪い。非力な車は総じて燃費がいいけれど、人気がない」

「ホントだ。矛盾だらけ」

 駐車場をひとしきりテストランし終えて、二人は車を降りた。

「で……」四本木はポケットから鍵束を取り出した。「キーは二本お渡ししますが、鍵穴に差し込む必要はありません。ポケットに入れておけば反応する」

「スマートエントリーって奴っすね」

「合鍵は当社でも保管してます。それと、キーがなくても」

 四本木はキーを有華にあずけてから、首から提げていたカードホルダを手に取り、車のドアに当ててみせた。

「僕のでは反応しませんが、岩戸さんの電網ゼロ種免許で解錠、始動できます。年内には、我が社の人工知能が、いわば岩戸さんのお抱え運転手になるわけです!」

 それを聞いて有華は少々気分を害したが、表向きは平静を装った。四本木篤之は知らないのだ。岩戸にはすでにお抱え運転手がいるということを。その運転手がジムカーナ(※舗装路面で行う車のスラローム競技)の経験者であることも——。

 有華はふと、思いつきを口にした。「これって、フツーに運転できるんですよね」

「は? できますよ、もちろん……ナビに目的地を設定しなければ、人工知能は起動しない」

 有華は二本のキーをチノパンのポケットにねじ込むと、運転席のドアを再び開け、コクピットにするりと乗り込んだ。

「……まだまだ開発を続けるんだから、ベガスのみなさんに」舌をぺろりと出して言う。「目標タイムさずけましょうか」

「目標タイム?」四本木が目を丸くしている。

「ストップウォッチ、用意しといてくださいね。ちょっくら行ってきます」

 ダッシュボードの左、スタートボタンで始動。ペダルに足を這わせサイドブレーキを降ろす。確かに、ナビさえいじらなければハンドルは勝手に動こうとしない。これなら普通の車だ。

 アクセルペダルを——踏んでみる。

 なかなか動いてくれない。まどろっこしい加速はモーター駆動のせいだ。

 五十台は止められる広々とした屋外駐車場に止まっているクルマはほんの数台。自動運転走行を試すために置いた乱雑なパイロンが十数個。それらを障害物にみたて、かいくぐるようにして有華はアスカ号を走らせた。アクセルを煽り、ハンドルを小刻みに切る。そしてブレーキング——直後の旋回。FF(フロントエンジン・フロントドライブ)車が不得手な後輪を流す動きにおいて、どの程度の急制動が必要か試す。

 アクセルオン、オフ、そしてブレーキ。左に右に切る。再びアクセルオン。有華はサイドブレーキに左手をかけた。百八十度ターンの構えだ。

 五十メートルほど直線的に走り、フットブレーキを踏むと同時に右手でハンドルを切り、ぐいっとサイドを引いてやる。後輪が大幅にブレイク——車がドライバーの意図に従って急旋回する。ズルズルというタイヤの滑りぐあいを確認しつつ——サイドを戻し、再び加速。

 タイヤのパターンは乗り込む前にチェック済みだ。どの程度のモーメントでヨー(回転)が発生するかイメージはできる。あとは前後の重量バランスに慣れるだけ。意外に旋回性は悪くない。単なるFFではなく前にガソリンエンジン、後ろにバッテリーが積まれているからだろうか。最大の問題は、こいつがハイブリッド車であるということ。アクセルペダルから足を外した途端ガソリンエンジンが停止、モーター駆動に切り替わる仕組み。だから瞬発力の欠片も感じられない。常に右足でアクセルを煽る、だから左足ブレーキングが必須のクルマ。

(カート感覚……って、そういう車じゃないってば)

 エコ指向とはいえ、エンジンを高回転に保ってやれば、それらしい排気音も聞こえなくはない。有華はニタニタしながら、躾のいきとどいた優等生に悪い遊びを教える気分で、テクセッタの急加速・急減速・急旋回を繰り返した。

(うし……温まってきたぞ)

 一旦車を停めて前後左右の景色を確認する。さっきタイムを計ったときも、このあたりがスタート位置だった。窓をあけて頭を出し、倉庫の前で呆然としているベガスの四人組にむかって叫ぶ。

「スタートの合図、お願いします!」

 四本木はきょとんとしていたが、やがて右手を高く上げ、ストップウォッチをひとにらみしつつ、素速く腕を下ろした。

 よし。突撃だ。

 有華は豪快にアクセルペダルを踏んづけ、スロットルを開いた。ハンドルの挙動は穏やか。ボディの揺れも感じない。だが踏む。踏み続ける。踏んでさえいれば、ハイブリッド車であっても牙を剥く。加速する。車体が軋む。赤いパイロンの隙間を目指し、猛然と突進していく。

(いけ!)

 まず軽くフットブレーキ。減速へ転じさせ重心をフロントへ移動。

 ここぞというタイミングで、サイドブレーキを引っ張り上げ、深く舵を切った。

 テクセッタの後輪が大きく滑る。

 どノーマルな4ドアセダン車が甲高いスリップ音を奏でながら、小気味よく方向転換していく。その回転角をフットブレーキで細かくアジャストした。

 回る、回る。

 回って、回りながらパイロンとパイロンの隙間に——ぴたり、と収まる。

(完璧!)

 意図通りのドライビングができた、やってのけたという手応えがあった。気がつくと、あっけにとられる男達の顔がすぐ傍にあった。

 窓を開けて、有華が問う。「何秒でした?」

 四本木が頬を引きつらせて笑う。「……えーと……な、七秒、かな」

「オートパイロットで二十六秒。人間は七秒、か。目標にしてくださいね」

「凄い。ど、ど……ドキュン! って感じだね」

「失礼な。有華とDQNを同じにしないでください」

 四本木は目を丸くしたままである。



 それから三十分ほど、実験場の隅にパイプ椅子を並べての缶コーヒータイムとあいなった。有華がかつて国内A級ライセンスを持つ高校生レーシングドライバーであった事や、レストア業者の娘だと知るや否や、ベガスの社員たちは目の色を輝かせる。一方の有華はテンションを下げつつあった。調子にのってしまったと後悔していたのだ。なぜレースを辞めたのか、どうしてNICTで働いているのか——そんな話題に進展するのが嫌で、実務モードでの会話につとめた。

 やがて水を差すように携帯電話が鳴り、四本木が残念そうに立ち上がる。

「……ヤボ用だ。すいません、僕はちょっとでなきゃ……残念だなぁ。常代さんともっとお話したかった」

 ロータス・エクセルのクラッチディスクの件、頑張ってみます。そう言い残して四本木がまず席を立つ。残りの面々も三十分後にはNICTを引き上げていく。広大な倉庫に残り、有華は一人で粛々と後始末に勤しんだ。GEEとのチャットはなぜか通じなくなったが、車の扱いなら自動車屋の娘に分がある。任せてもらっていい。

(ふぅ……終わったぞ)

 有華は倉庫を出ると大きな鉄扉を閉じ、壁に埋め込まれたカードスキャナで施錠した。この建屋、クライム・ラボは電網一種免許を使って入退室できるが、例外的に——有華の三種でも認証する。だから有華は倉庫を閉めるとき、いつも自分が「例外」であることを意識させられる。

(ごくろうさん……例外の、ゆかりん)

 すべてを滞りなく終えた後、有華は駐車場にぽつんと残されたロータス・エクセルに歩み寄った。

 岩戸の言葉が思い起こされる。


——一ヶ月。それだけあれば、結論は出せる? 私についてくるか、それともここで退くか。


 三枝の言葉も耳にこびりついている。


——国家公務員試験と電網一種に合格していただきたい。大手を振って、電網庁入庁を果たしていただきたいのです……


 寂しさがこみ上げてくる。

 自分はいつだって例外、勝手にそう思っていた。組織の壁なんか関係ない。資格なんて問題じゃない。いつでもあの人たちの傍にいて、どこでも手となり足となって働く。ずっと、ずっとそう信じてきた。なのに。


 明日から私、どうすればいいんだろう。

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