幕間 クーデターの夜
王宮の長い回廊を、カツカツと小気味良い足音を響かせて歩く、一人の軍人がいた。口ひげを生やした威風堂々たる壮年の男だった。彼は王宮を守る近衛隊の最高指揮官だ。
真っ直ぐに前方を見据えて歩いている。明かり取りから差し込んだ光の帯を幾筋も通りぬけてゆき、ふと立ち止まった。
そして、光が写しだした壁の傷に目を止めた。
大理石でできたその壁には、王宮にしては不自然な傷がある。一つや二つでは無い。至る所に大なり小なりの傷があるのた。目を凝らせば黒っぽいシミもうっすらと見える。
このような傷、直そうと思えばすぐに直せるはずだった。だが、もう何年も放置されている。
彼はゆっくりと腕を差し出し、壁を
軍人は、血に染まったあの夜の事を思い出していた。
六年前のクーデターの夜のことを。
*
王宮内を黒い甲冑と兜を身につけた男たちの一団が駆け抜けていく。剣を振りかざし、
予想だにしない突然の決起に、恐怖に駆られた廷臣らは下働きの者達たちを押しのけ、我先に逃げだした。逃げ遅れた使用人は息を飲み壁に張り付いて、殺気立った黒い男たちに道をゆずる。
黒い騎士集団が、怯える彼らに目をくれることはなかった。目指す敵は、王妃とその側近魔法使いたちだった。
激しい足音を鳴らして進む騎士らの行く手に、黒いローブの集団が現れた。彼らこそが、標的の王妃子飼いの魔法使いだ。
獲物を見つけた騎士たちは、うなりをあげて飛びかかっていった。
血飛沫をあげ、魔法使いたちの首が落ちる。
次々と倒れてゆく彼らだったが、誰も逃げようとしなかった。その目に生気はなく、何者かに操られていることは明白だった。
しかし騎士団は一切の迷いなく、彼らを斬った。
この一団を率いるのはリッケン大将だった。
全身を甲冑に包んだ部下たちに対し、彼は濃紺の制服の上に胸甲のみを装着している。それは若い頃からの習慣で、防具に自らの動きを制限されるのを嫌ってのことだった。
リッケンは眉間に深いしわを刻み、一文字に唇を結んでいた。
〈なぜ、殿下は……〉
彼はつい先刻、第一王子から王妃とその配下の魔法使いの抹殺を命令された。
問答無用、否やは一切許されない厳命だった。
通常ならば彼に命令を下せるのは国王のみである。王子と言えども、王の直属部隊を勝手に動かすことなど出来ないはずだった。
この常軌を逸した命令は、国王の息が止まった瞬間に下されたのだ。自らを新国王であると、王子は宣言したのだった。鬼気迫る姿にリッケンの肌は粟だった。
まざまざとその光景が蘇る――――。
第一王子が突如、王妃の側近魔法使いを斬り殺し、その死体を引きずって国王の居室に向かっているとの知らせに、彼はただちに駆けつけた。
扉を開いた瞬間、息を飲んだ。
リッケンが到着した時には、既に事は終わっていたのだ。
近衛隊と同じ黒い甲冑を身につけた王子の剣が、深々と国王の胸に突き刺さっていた。王を串刺した剣をズルリを引き抜くと、王は床に崩れ落ちた。
老人が王子に取りすがって、激しく叱声を上げた。
「何とういうことを! あなたの父君ではないか!」
老アインシルト。王宮付き魔法使いである彼は、王妃の息がかかっていない魔法使いの一人だ。
王子は老人を跳ね飛ばした。
「邪魔をするなら、お前も殺す」
感情の消えた低い声だった。
彼の表情は兜に隠され見えない。荒い息をして、歯を食いしばっていることから想像するしか無い。
「命なぞ惜しくはありませんぞ! この大逆、いくら殿下でも許せませぬ! なぜこんな愚かな真似を」
「あの魔女がいるのだ……この王宮に」
兜の下で王子の目が大きく見開かれ、憑かれたようにつぶやく。
尋常な意識をもつ者の目ではなかった。
「殿下……これはいかなることですか!」
リッケンは王子の乱心を確信し、じわりと腰の剣に手を伸ばす。
魔女がいるとの王子の言葉に、アインシルトはハッと国王を見やる。そして、小さくうめきを上げた国王に駆け寄った。
王は弱々しく老人の手を握った。かすかな声で何事かを彼に託すと、全身の力が抜け落ちた。
王は息を引き取った。
ゆっくりと、王子はリッケンに向き直った。
「今この時から俺が国王だ。最初の命令を下す。前王妃と手下の魔法使い共を殺せ」
近衛隊最高司令官の息が一瞬止まる。
「……で、出来ませぬ」
王妃を殺せとはなんと愚劣な命令であるか。リッケンはあえぐように、否と返答する。
自分が仕えるのは国王のみである。その国王を手に掛けた王子の命令に従うつもりは無かった。まして王妃を殺せなどと、きけるものではない。
この王子にとって王妃がいくら生母では無いとはいえ、父だけでなく母までもとはいかなる蛮行かと憤る。
「殿下! これは謀叛ですぞ! あなたを王とは認められませぬ! 皇太子である弟君……」
「黙れ!」
リッケンの言葉をさえぎり、王子は両手で剣を握りしめ振りかざした。
「二度は言わぬ! 行け、リッケン!」
「出来ませぬ!」
ブンっとうなりを上げて振り下ろされる剣の前に、両手を広げた老アインシルトが飛び出してきた。
「斬ってはならん!!」
しかし王子の剣は止まらない。とっさにアインシルトをかばい、リッケンの剣が王子の攻撃を振り払う。
ザンッと、大剣が床にめり込んだ。
二刀目がくれば、この不徳義な王子を必ず斬る。そうリッケンは覚悟を決めた。
アインシルトは叫び続ける。
「剣をおさめよ! たった今陛下は、ディオニス殿下に王位を譲ると言いなされた! リッケン殿、従え! 王妃は既にこの世にはない。あれは魔女アンゲリキなのじゃ!」
その言葉にリッケンは目をむいた。
「なんと……」
王子が獣の目で彼をにらみつける。
リッケンは一瞬で事態を理解した。王妃を殺せとは、魔女を倒せということだった。
黒魔法に身を堕とした
リッケンはゴクリと唾を飲んだ。
王子の異様な怒りの正体は、魔女に向けられたものだったのだ。
「護れなかった……」
哀切に満ちた声が、その口からこぼれた。
王子は床に刺さった大剣にすがるようにして立っていた。
深く首をうなだれ、苦しげに息をしている。
「殿下……いえ、これよりはディオニス国王陛下でしたな。なぜ、先にわしを呼んで下さらなかった……。呼べば、どこに居ようとも直ぐに馳せ参じましたものを」
アインシルトは漆黒のディオニスに歩み寄った。その目は、痛まし気に彼を見つめている。そして唇は後悔を噛みしめるように固く結ばれていた。
「いや、わしが迂闊だったのだ。ここを離れるべきではなかった……」
アインシルトの自責の言に、王子は耳を貸さずリッケンに行けと目で命じた。
リッケンはうなずき敬礼すると、踵を返す。そして即座に部下を伴い、王妃もとい魔女の住まう北の尖塔へと向かったのだった。
なぜもっと早く、魔女が王妃になり変わっていると気づけなかったのだろうか。もう数年前から、王も王妃も変様していたというのに。
リッケンは悔しさに歯噛みした。すぐさま魔女を抹殺せねばならない。
しかし、王子はなぜ父である王の命を奪わなければならなかったのだろうか。たとえ魔女の手中に落ちていたのだとしても。
これだけは、どうしても解せなかった。
*
リッケンは壁に手を添えてじっと傷を見つめていた。
この壁の傷を直さないのは、王が自らへの戒めとして残しているのだと彼は思っていた。
王は後悔を口にすることは無かったが、血を流して得た地位を誇ったことも一度もないのだ。
リッケンはまだ年若い王に、憐憫にも似た感情を抱いていた。
そしてクーデターの後に王となったディオニスの側近の一人として、彼を支え続けている。
彼が行こうとしていた方向から足音が近付いてきた。顔を向けると小柄な老人がこちらに歩いてくるところだった。
白い髭が床に届くほど長く伸びている。王宮付き魔法使い筆頭のアインシルトだった。この国随一と言われる大魔法使いであり、彼もまた王の側近の一人だ。
そしてあの夜、王の親殺しをリッケンと共に見てしまった人間でもある。
世間に対し、王が件について何も語らない今、クーデターの仔細を憶測なしに語れるのはこの二人だけだった。しかし、彼らもまた口を閉ざして久しい。
「アインシルト殿」
リッケンは老魔法使いに頭を下げた。
「今、参ろうとしていたところでした。陛下とのお話はもう終わられたのですか」
「そうですな……。終わったというよりも、追い返されましたがの」
アインシルトは自嘲気味に微笑んだ。
そして、リッケンが見ていた壁の傷を彼も見つめた。これを見る度に、アインシルトの胸には後悔がにじむのだ。
あの日、ディオニスのドラゴン召喚を止められなかった事が、彼をずっと苦しめていた。
町は燃え多くの死者を出した。ディオニスが恐怖の王と恐れられる事になった原因は、彼を止められなかった自分にあると感じていた。
彼が行動を起こす前に、自分が魔女の存在に気付き排除しなければならなかったのだと。
傷を見つめる老師の横顔を、リッケンは黙然と見守っている。
「わしがこの国を離れずにおれば、もっと早くに気付けたであろうに……」
「あれは宿命であったのです。見えぬ未来は改変出来ず、また過去の書き換えは不可能なのです」
何度と無く繰り返された会話だった。
言ったところでどうにもならないのだが、ふとした瞬間にアインシルトの口を衝いて後悔がこぼれ出る。
それをリッケンは常に、同情せず責任を追求することも無く、淡々と自然の摂理を語るのだった。今となっては、こんな問答には意味はないのだから。
老師は苦笑を浮かべた。長い顎ひげとなでながら、うんうんとうなずく。
ゴホンと、リッケンは咳払いをして話題を変えた。
「……それにしても、
老師はふっと笑って、ため息をついた。
「無い! 全くもって無いのじゃよ」
「困りましたな」
「そう、困った不届き者じゃ。あのテオドールめは」
二人は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
それまでの憂いを含んだ空気が、すっと軽くなるようだった。困ったと腕を組みつつも、両者の笑みには穏やかさが含まれていた。
そしてリッケンは王への
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