第一章 不思議な卵
1 魔法使いの朝
突然ガンガンと玄関扉を叩く音が鳴り響き、テオは無理やり夢から引きずり出された。
二階のこの部屋にまで届く騒音に、驚くよりも腹が立つ。せっかくいい夢を見ていたのに、と寝転んだまま頭をかきむしった。
部屋の中は薄暗く、窓の外はぼんやりと白み始めたところだった。まぶたが重く、自然に垂れ下がってくる。
激しいノックはまだ続いている。早朝からなんとも迷惑な騒ぎだ。誰かが自分を呼んでいるようだが、テオは絶対に起きるものかとシーツを頭からかぶって、知らんぷりを決め込んだ。
すると、階下から聞き慣れた声が聞こえてきた。寝起きのかすれ声だ。
「はい! 今、行きます! 行きますから!!」
ドタドタと玄関に向かっているようだ。扉が開きすぐまた閉まる音。その後、ようやく静けさが戻ってきた。
ホッとして夢の中に引き返そうとしたが、今度は自分の部屋をノックする音に邪魔されてしまった。ドアの向こうから、先ほどの声が呼びかけてきた。
「テオさん、手紙ですよ。また例の方からです」
「そんなもん捨てちまえ。かまどに放り込んどけよ」
思わず舌打ちをして乱暴なことを言う。
遠慮がちにドアが開き、栗色の髪の少年が入ってきた。形の良い眉にひきしまった唇、利発顔の少年だった。
「そんなこと言わないでくださいよ……」
少年ニコがため息をついて、テオに手紙を差し出す。
「ほらコイツ、うるさいったらありゃしない。燃やしたりしたらどうなることか」
その手紙はふるふると小刻みに震えながら『封を開けて下さい』と、甲高い声を上げている。
テオはようやくシーツから顔を出し、迷惑そうに顔をしかめた。すると、手紙は声のボリュームを上げて『封を開けて下さい!』をくり返し初めた。
げんなりして、ぷいと背を向ける。
「燃やしてよし」
途端に手紙はさらに大音量でわめき散らし、今やニコの手の上でビタンビタンと魚のように跳ねている。
『封を開けて下さい! 封を開けて下さい! 封を開けて下さい!!』
「があぁーー! やっかましいわぁ!」
飛び起きて手紙をひったくると、ベリベリと封を切り床に叩きつけた。
すると封筒から白い煙がもうもうと立ち昇った。先ほどのキーキーと耳障りな声と違って、低い男の声がその煙の中から聞こえてきた。
『聡明にして勇猛、きら星のごとく輝きを放ち、王者のごとく全てを統べる、偉大なる魔法の使い手テオドール・シェーキー殿、お目覚めはいかがでございましょうか』
なんて大げさでこねくり回したイヤミなんだ、とテオは片眉を釣り上げドカッとイスに腰掛けた。
「バカで臆病で薄汚く、自己チューだって言いやがった! おう、その通りだ!」
悪いかコノヤローとばかりに、ふんぞり返って足を組む。
煙が消えるとそこに黒いローブ姿の男が立っていた。ひげを生やした五十代くらいの男だ。体が透けている。男を通して、ドア近くで立ちつくしているニコが見えた。
『ご承知ではございましょうが、私めは王国公認魔法使い組合代表のヨハン・クレイブでございます。ご多忙とは存じますが、重要な事柄を二、三お伝え申し上げたく、お時間を頂くことをお許し下さい。さて本日の要件の一つに、天気予報部会の魔法使いからの報告が――』
テオはこの声を聞くといつも気分が悪くなる。呪いがこもっているんじゃないかとさえ思っていた。
クレイブからの苦情の手紙は、これが初めてではない。四度目か五度目だろうか。もっとも、こんな早朝にバカ騒がしい手紙は初めてだったが。
『――先日のシェーキー殿のなさりようには、残念なことに組合の魔法使いから、あまりの仕打ちとの声が上がっております。私としては、貴殿は熟慮の末に行動なさったのだと信じておりますが、中には誤解する者も少なからずおりますゆえ、無益な対立を避けるべく、今後ぜひとも改めて頂きたく、忠言申し上げる次第にて――』
「今度は、何やったんですか?」
ニコがあきれ顔で見つめている。
「大したことじゃない。雨の降り始めを一日延ばしたんだ。あの日は、どうしても釣りに行きたかった」
これを聞いて、あまりの下らなさに「お手上げです」と肩をすくめるニコ。テオはふんっと唇をとがらせた。
その間も、クレイブは恐ろしくバカ丁寧に回りくどくしゃべり続けていた。お見事と感心するほどの慇懃無礼さだ。
『――隣国ミリアルドからの依頼の件にも、我々の期待を理解してもらえなかったようで――――全く遺憾なことにシェーキー殿は――――ヴァレリア王女の捜索が難航――――我がインフィニード王国の威信――――またもや魔女めが――――王宮付き魔法使い筆頭閣下からの
テオはトントンとせわしなく指で足を叩いている。イラついている証拠だ。
「コーヒー淹れましょうか」
「ああ、コイツの顔よりも、うんと濃いヤツ」
「エスプレッソですね」
クスリと笑って頷くと、ニコはキッチンへと下りていった。
テオとニコの朝はいつもコーヒーで始まる。
今日は特別にいい豆を使おう。テオの機嫌の悪い時はそれに限ると、ニコはまた笑った。
「要するに、今度逆らったらただじゃおかないってことですか?」
コーヒーを淹れて戻ってきたニコは、ふうっと大きく息を吐いてたずねた。
もうクレイブの姿は消えて、手紙が床に散らばっていた。
窓から明るい光が差し込んでいる。すっかり夜が明けてしまった。晩春の穏やかな風がそよいでいる。小鳥のさえずりも心地いい。
だが、テオは物憂げに手紙を見つめている。
こんな素晴らしい朝を台無しにしたクレイブに、どんな仕返しをしてやろうか――。
そんなことを考えているように思えて、ニコは心配になる。
「逆らってるわけじゃない。魔法で好き勝手やってるヤツがいるなら、オレもやるっていうだけのことさ」
テオはフンと鼻をならした。
百発百中の天気予報では、三日続く雨を報せていた。それを雲ひとつ無い晴天にして、テオは釣りを楽しんでいたのだ。評判の天気予報魔法使いの顔にドロを塗ったという訳だ。
魔法使いの天気予報なんてうさん臭さ過ぎる、自分だってやろうと思えば天気を操れるのだから、その魔法使いもインチキをしているはずだ、というのがテオの言い分だった。
「天気を『占う』ことだけに、魔法を使ってるって言ってたじゃないですか。組合の魔法使いに天候を変えるほどの力は無いですよ。そんなことできる魔法使いは数少ないって知ってるくせに。とにかく、逆なでするのは止めましょうよ。ね? 腕はテオさんのほうが上だって、あちらも分かってるからこそカリカリしてるんだから」
まるで小さな子をなだめるような口調だった。
一回りも年長のテオのほうが、駄々っ子のように足を踏みならしてるのだからおかしな光景だ。
コーヒーを受け取り一口飲むと、テオは立ち上がって窓の外を見た。
背が高い。がっしりとしたその肩は、ニコの頭よりもさらに上にある。ニコだって決して小柄ではないのだから、かなりの長身だ。
端正と言って差し支えない上品な顔だちをしているのに、浮かべる表情はいつも安っぽく態度は下世話だった。言動がせっかくの美男子を台無しにしていた。
「オレの知ったことじゃない」
「そうでもないと思いますけど……。それにクレイブさんを怒らせたら、ひどい目に会うかもしれないし」
「本気で言ってるのか?」
テオは、プッと吹き出した。
コーヒーをぐっと飲み干すと、床に散らばった手紙を拾い集めグシャグシャと丸めた。紙の塊はみるみる小さくなってゆき、パンと手を叩くと消えてしまった。
「こんなヤツ怖くも何ともない。本当に恐ろしいのはアンゲリキのほうさ。今この国にあの魔女に対抗できる魔法使いがどれだけいると思う? アイツは悪魔に魂を売り渡したんだ」
いつもぶら下げている黒いペンダントをいじりながら言った。
テオの最後の言葉に、ニコはブルっと身震いした。
魔女アンゲリキ――。
幾度となくインフィニードに災厄を運んでくる、恐るべき魔女だ。彼女はこの国に深い恨みを抱いている。それは彼女の双子の片割れを、先々代のインフィニード王に封じられたためだった。
魔女は六年前の黒竜王のクーデターの引き金にもなった。
アンゲリキは王妃になり代わり、王を操ってインフィニード王国を手に入れようとしたらしい。これに気付いたディオニスが決起したのだと言われている。
クーデターは王位を奪うだけでなく、稀代の魔女を討つという側面も持っていたのだ。そのために、禁忌のドラゴンまで召喚したのだ。
だがその甲斐もなく、魔女は逃げのびてしまったのだが。
魔女には気味の悪い噂が山ほどあった。生け贄の目玉を集めているだとか、心臓を悪魔に捧げたとか。
そして今、町では新たな噂が囁かれている。魔女が舞い戻り六年前の復讐しようとしていると。
ニコの背が薄ら寒くなる。また惨劇が繰り返されるのだろうかと思うと、息をするのも苦しくなるのだ。
だがテオは、ニコの不安など全く意に介さず、パジャマをポイポイと脱ぎ捨て着替えを初めていた。長いローブをひっつかむと、ニコの脇をすりぬけていく。
「今日は朝飯はいい。ちょっと出かけてくる」
「え? 今から? っていうか、ソレ着ていくつもりですか?」
テオのローブを指して言った。ニコは初め、それをピクニック用のシートかと思ったものだ。
三日前に届いたそのローブは、マリンブルーとレモンイエローの極太ストライプ模様だった。フードに黒とグレーのファー、胸元に鮮やかな花の刺繍が施されるという、ド派手を通り越した
魔法使いはローブが正装だと言って、テオはそれを特注したのだ。
「普通は黒ですけどね」ニコは呆れたものだった。
テオはくるぶしまで届くそのローブをサッと羽織る。
「何か問題でも? 昼までには戻る。後を頼むよ」
言った時にはもう、テオの姿は部屋の中から消えていた。
ニコは肩をすくめて笑うと、すぐにいつものように働き始めた。テオの気まぐれや、特殊なセンスは今に始まったことではない。もう慣れっこだった。
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