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イヴァン・ヴィクトリカにとって、皇帝ゼルシアとはまさしく神と等しい、或いはそれ以上に影響力を持つ雲上の人物であった。
雷の神の加護を受けるという大帝国の主は、不遇の幼少期を経て祖たる王へと変貌する。それはイヴァンが幼いころから読みふけった英雄譚のように、運命づけられているものだと信じて疑わなかったのだ。
湿った土に足を取られないように、美貌の魔導士は歯を食いしばった。先ほどの雷撃で、軽からぬ怪我を負ったようだ。魔導士としての力量、魔力の質量、そして知識――自分が作り上げた魔導人形には、どの点を取っても遅れはないはずだった。そもそもオートマタはマスターに攻撃が出来ない。それでもノーヴルは、彼に魔導の刃を向けたのだ。あろうことか、皇族しか扱えない雷の魔導で。
そんなことが出来る人物を、イヴァンはたった一人しか知らない。稀代の大魔導士、恐怖と混沌の大罪人。
「ヴィア=ノーヴァ……あなたはまたしても、私の邪魔をするのか……!」
血を吐くような声が、薄暗い森の中に響く。
元々、イヴァンは薬師としての師匠が存在していた。彼が王宮に奉職し出したのも、師である女性にその頭脳を見込まれたからだ。見れば見ただけ、教えれば教えただけ吸収する柔軟な頭脳。膨大な数の薬草や薬効を暗記する薬師は、イヴァンにとって天職である、はずだった。
全てがおかしくなったのは、師があまりに早くその人生に幕を下ろしたからだ。幼いイヴァンは別の師に――当時の宰相であるヴィア=ノーヴァに引き取られ、魔導士としての才能をも開花させた。
ヴィア=ノーヴァの元で魔導を学ぶということは、いずれ国を継ぐ次期皇帝に仕えるのと同意義だ。既に老いたかつての賢帝は既に施政の力を持たない。直系である二人の皇子のどちらかが、イヴァンの生涯仕えるべき主となる。
「好きな方を選べばいいさ。別にどっちが皇帝になろうと知ったこっちゃないんだ。私はただ、時が定めるままに事を見届けるだけだ」
王命であっても「面倒臭い」の一言で突っぱねて、いつも胡散臭い思案をしているような男が、その時だけは手放しにそう言った。そうして末の第七皇子に膝を屈したのは、紛れもなくイヴァンの意思だ。
兄皇子をもって王の才覚ありと太鼓判を押されたのは、十五歳にはとても見えない、痩せっぽちの皇子様だった。大帝国の権勢も重責も、その肩に乗せてしまえば簡単にくずおれてしまいそうなほどひ弱で、だけれど父親と同じ赤黒い瞳を持った、たった一人の青年だった。
「私の知識の、勇気の、忠誠の全てを、あなた様に捧げます。たとえこの身が灰塵と成り果てても、あなたの座るべき玉座は私がお守りいたします」
「要らん。そこまで自分の実力に自信があるなら、それは兄上の為に使うといい。俺は、帝位を継ぐ気はさらさらない」
出会ってそうそう突っぱねられても、イヴァンは引き下がらなかった。この皇子には、皇族として備わるべき魔導の才がまるでない。ならば自分がその杖になると、二人の師に叩き込まれた知識を総動員して何とか侍従の立場までこぎつけた。敬愛する皇子の傍で力を磨くことが出来て、イヴァンはその時人生で初めての充足を感じたのだ。師も、何も言わなかった。自分の選択は間違っていなかったのだと、今でも胸を張って言うことが出来る。
あまりに偉大な師匠。歴戦を潜り抜けた国家の頭脳にいつかは並び立ち、賢帝の血を引くゼルシアと共に国を繁栄に導く――その願いが目の前で崩れ落ちていきそうになったのは、そんな充足したある日のことだった。
先帝ライオネルが、ゼルシアの兄皇子を次期皇帝として推薦するという。
皇帝という絶対権力者の後ろ盾があれば、議会は口を出すことが出来ない。巫女ティティを筆頭とする神殿の神官団も、恐らくその決定に追従するだろう。
そして何より、ゼルシア本人がそれでいいと首を縦に振るに違いない。彼は、兄こそがこの帝国の主たれと常々言っていた。だがそうすれば、師と自分は兄皇子に従うことになるだろう。
そこから先は、本当に簡単だった。
母と慕った一人目の師に教わった薬を、毎日ほんの少しずつ皇帝の食事に混ぜる。王子の侍従という立場と、ヴィア=ノーヴァという後ろ盾の存在がイヴァンの活動を動きやすいものに変えてくれた。元々、先帝には退位すべきという意見が上がっていた時代だ。師の名前を出せば、誰もが皇帝につながる道を開いてくれた。緩やかに、だが少しずつ体を蝕まれた老帝は、月が一つ巡る頃にはその命の炎を絶やしていく。
「父上が、崩御された……皆、ヴィア=ノーヴァが毒を盛ったと、そう言っている。俺を帝位に就けるために、奴が父上を殺したと」
狼狽したゼルシアだったが、その眼に宿った鋭い光は先帝の若い時と瓜二つであった。剣を片手に戦場を掛け、国に戻っては天才的な政治手腕を発揮した賢帝ライオネル。その瞳に見詰められた瞬間に、途方もない絶望と罪悪感が身を切り裂いたのを、イヴァンは今でも覚えている。
「兄上も父の崩御に伴って、王宮を出るとまで言い出した……こうなれば、俺は本当にあの男を殺さなくてはならなくなる。俺の師である、ヴィア=ノーヴァをだ」
剣術でならば、彼は誰にも引けを取らなかった。宰相に叩き込まれた帝王学にふさわしい風格も、青年期の成長を経て次第に身に付きつつある。
そこに立っているのは、風が吹けば倒れそうな、あのみすぼらしい少年ではなかった。
「殿下――いえ、陛下。議会はゼルシア様こそを次期皇帝へと推薦するつもりです。神殿側は相変わらず兄君を推しているようですが、駆け引きは万事私にお任せ下さい。混乱するこの国を統べることが出来るのは、兄君ではございません」
全てが、イヴァンの願った通りに動いた。
兄皇子は辺境の神殿へ赴き、ゼルシアが皇帝として即位した。そして十七年間、イヴァンは幸福ともいえる従属の時を送っていたというのに。
「一つ、二つ……陛下と、セイムですか。成程、未だ成熟しきらない、美しく純粋な魔力だ」
かつての自分と同じように、理想に目を輝かせた妹弟子が自らを探している。
際限なくのびやかで、みずみずしく、そして天井を知ることがない無垢で愚かしい妹弟子。可愛い可愛い、けれども憎らしくてたまらない、十番目の杖。
ゼルシアからの信頼、鎬を削る仲間、何も言わずに背中を押してくれる師匠。
自分が手に入れたくても到底手に入れられなかった物を持っている、それなのに自分によく似たあの少女。
「シュタックフェルト皇帝は、万事において正当でなければならない。万事に置いて苛烈でなければならない。そのために必要なのは、周囲に頼ることしかできない小娘ではないのです」
自分は、何処までも一人だった。二人の師はイヴァンに知識は与えてくれたが、積極的に味方になってくれたわけではない。特にヴィア=ノーヴァを国賊として仕立てあげてからこの十数年、イヴァンは一人でゼルシアの傍に立ち続けた。
全ては一人ぼっちの皇帝陛下の為。その信頼を勝ち得る為。
皇帝その人が携える杖は、身に着ける一本でいいのだ。
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