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「イヴァン様? どういうことだよセイム、俺にも分るように説明しろ」


 愕然とした表情のままゼルシアを見上げるセイムに、痺れを切らしたラウが叫んだ。

 イヴァンは現宰相、政治の実権を握る王宮内第二位の権力者である。ゼルシアに対する忠誠心は臣下の誰よりも深く、実力は誰よりも高い。事実ゼルシアの治世には、イヴァンの存在が必要不可欠であった。

 そのイヴァンが、事もあろうに先帝殺害を企てたとは。


「……毒薬が困難なリードリュンゲンの毒薬、これほどの魔法薬はただの薬師や魔導士では作れない。薬学の心得がある魔導士が研鑽を積んで作るものだから――今の「杖」の中だとイヴァン様、それ以外の可能性を考えるとティティ様が実現可能だと、思ってたんだけど」


 ティティはゼルシアの命を受けて師と同じようにこの十七年間道化を演じ続けてきた。だというならば、自ずと候補は一人に絞られる。

 だが確証がない。イヴァンがそれを行ったという確たる証拠。それがなければ、いかなゼルシアとはいえ彼を容易に裁くことはできない。


「その為にジョルジュと、兄上を呼んだ。信用のおける呪具師も準備はしてある。俺も信じたくはないが、全ての検証が終わるまではイヴァンの身を拘束しなければならない」


 固い声音でそう宣言したゼルシアは、ついでラウに視線を移した。

 未だ困惑したままのラウは僅かに身じろぎをしたが、それでも背筋を伸ばす。


「ノーヴルが回復次第合流させる。ラウ、お前はアマルシアの後を追いティティの元へ向かえ。セイム、お前は俺と共にイヴァンを探す。辛いとは思うが気を確かに持て――お前は、俺の杖だ」


 セイムにとってイヴァンは、王宮での兄同然だった。生前の師を知り、それとなくその痕跡を教えてくれる。その穏やかな微笑みは、右も左も分からないセイムにとってどれほどの支えになったかは知れない。

 それでもゼルシアの命令は絶対であるのだ。彼だって、信じていた宰相を疑うようなことはしたくないに決まっている。

 普段は冷静な暗赤色の瞳が先程から忙しなく動いているのが、何よりの証拠だ。


「委細、承知いたしました。ですが陛下、無礼を承知で私の、その、お願いを聞いてもらえませんか」

「何だ」

「……たとえ結果が、どんなものであっても。イヴァン様を殺さないでください」

「確実でないことは約束しかねる。上着を持って来い、今からイヴァンを探す」


 その言葉は、冷徹であったのかもしれない。身を削るようにしてゼルシアの傍に付き従ってきた中心に向けるものにしては、あまりに残酷なものであったのかもしれない。

 けれど胸のうちの痛みを堪えるように吐き捨てたゼルシアに、セイムは一つ、深く深く腰を折った。


「全ては、陛下の御心のままに」


 吐き出した声は、震えてはいなかった。



「セイム、お前転移は使えるか?」


 帝国の夜は冷える。風邪をひかぬようにと言っている場合でもないが、寒さ対策にローブを羽織ったセイムは、鞄の中に詰め込んだ呪具を確認していた。後宮のすぐ前にある広場に出て、二人で逆巻く風を眺めている。


「使用することは出来ます。でも、きっと二人同時の転移は不可能です……転移魔導は、下手をすると術者がバラバラになってしまうので」


 自分の体を魔力で強制的に別の空間軸に転移させる魔導は、熟達した魔導士が行わなければ体がバラバラになってしまう。セイムも自身一人だけならば転移に成功することはできるだろうが、それが複数人になるとそこからはもう未知の世界だ。

 空間単位で転移を行う上位魔導になれば、それこそ使役できる魔導士は伝説の域に達するだろう。ヴィア=ノーヴァであるならば、出来ると言われても何の驚きも覚えることはないだろうが。


「そうかでは徒歩だな。俺は魔導の才覚がないと言われてしまったから、俺からお前に出来ることと言えば詠唱の時吹っ飛ばされないように守ってやることくらいだ」


 ゼルシアに盾になってもらうなどセイムからすれば畏れ多いことこの上ない。しかし、他の近衛が別に動いている以上、ゼルシアを守ることが出来るのもまたセイムだけである。けれどゼルシアはどこか疲れたように頭を振って、僅かに笑みを浮かべた。元々童顔であるが、笑うとさらに若く見えた。


「俺のすぐ横を任せるのは、お前だセイム。俺もお前も、恐らく魔導でイヴァンには敵わんからな。並んで戦わねば勝てん……信用しているぞ」


 ゼルシアはにやりと口角を上げてから、遠くの喧騒を一瞥した。近衛の多くはイヴァン捕縛の名を受けて動いている。「剣」のテオドールやアマルシアもまた、今頃は王宮のどこかを走っていることだろう。

 信用している。その言葉が、セイムにのしかかった。彼の信頼は、恐らく先程裏切られたばかりだ。


「思えばお前には、辛い相手かも知れないな。ノーヴルが傍についていたとはいえ、お前をこの王宮で育ててきたのはイヴァンだ」


 ゼルシアにそう問われれば、セイムも辛くないとは答えられない。無論国主であるゼルシアに反旗を翻そうという時点で「十本目」の杖としてのセイムの答えは決まっている。けれど私人としてのセイムは、今でもどこかでイヴァンを信じたいと思っているのだ。

 セイムの知るイヴァンは、何処までも穏やかで知性に溢れた人格者であった。魔導士として、師以外で初めてそういう風になりたいと思えた、唯一の人物でもあった。


「……それは、勿論辛いですけれど、私は陛下の「杖」です。もし本当にイヴァン様が陛下を害そうとすれば、私は全力でイヴァン様を――」


 イヴァンはゼルシアの治世最高の魔導士だ。剣に優れた近衛の騎士たちでさえ、魔導を使われれば彼を倒すのは容易ではない。対魔導士の戦は、同じ魔導士でなければ制することはできないとすら言われている。

 きつく唇を噛んだセイムが、いつもの癖で鞄の肩紐を握りしめた。森を出てからお守りのように握り続けてきたそこは、くしゃくしゃになってほつれも見え始めている。


「俺個人への怨恨ならば一人で喧嘩買いに行ってやったんだが、相手がイヴァンだとそうも言っていられなくてな。俺もやるかやられるかだ」


 冷たい風が一陣、ゼルシアとセイムの間を駆けた。

 一度、ゼルシアが固く目を閉じて、また開いた。そこに迷いの色はなく、闇すらも射抜く眼光が宿っている。


「もっとも、俺もあいつを目の前にして剣を抜かずにいられるかと言われれば、どうだか知れんな。それ以前に一発ぶん殴るだろう。これでも、俺はイヴァンを信じていたんだぞ?」


 まるで軽口のように呟かれた言葉は、言いようのない寂寥感を孕んでいた。

 喧騒が、徐々に近づいてくる。

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