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「お師様、ご自分が魔導書書かれてたなんて一言も仰らなかったじゃないですか」
「原本はこちらにあったし、書いてすぐにティティに見つかって没収喰らったからね。まさかこんなところに置いてあるとは思わなかったけど……いや懐かしい。君が生まれるよりも前に書いた本だよ」
出来上がってから優に二十年は経っているという魔導書であったが、セイムの手の中に納まるそれはまるで新品のような美しさだ。古い魔導書の中に会ってひときわ美しい外見の魔導書を捲ると、そこにはヴィア=ノーヴァの筆跡でいくつかの魔導が紹介されている。
「遺伝によらない雷の魔導って、具体的にどういうことです? それもお師様教えてくれなかったから、ジョルジュ様に驚かれたじゃありませんか」
「理論的には出来るってだけで、実践したことがなかったからね。失敗のリスクが伴う危険な魔導を、可愛い弟子に教えるわけにはいかなかったんだよ」
そのくせ、失敗するかもしれない強力な魔導は惜しげもなくセイムに教え続けたヴィア=ノーヴァである。弟子の手から本を取り出すと、ノーヴルは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「我が国の皇帝――ハイドランジアという姓を持つ一族の血には、特殊な効果があるという。怒れる雷神ゼルの加護を受けた歴代皇帝、それに連なる人間には、須らく雷神の加護が授けられるというんだ」
多神教のシュタックフェルトにおいて、万物に神が宿るという考え方はそう珍しいものではない。
流水にも、炎にも、雷にも神は宿る。昔語りに登場する伝説の英雄でさえ、死後偉業を讃えられ神として国を守る者もいるくらいだ。
中でも雷神ゼルは、民間でも特に信仰が厚い神である。
抽象的な最高神である知識の神ノーナは、実は市井の民の間ではそこまで人気がないのだ。人々は皆、鮮烈な神話や実生活に恵みをもたらす神を讃えた。
「陛下の名前、ゼルシアっていうのも彼からとった名前さ。まあ、それほど皇族とはかかわりの深い神様なんだけれど……雷というのは昔から断罪の象徴である。皇族以外がそれを振りかざさないように、ゼルは民にその力を与えなかったっていう神話があって」
雷を発生させる呪具は、帝国には存在しないという。仮に他国からそれを借り受けても、何故か発生させることが出来ないというのがヴィア=ノーヴァが調べた成果だった。
けれど、直接的に魔導で雷を起こすことは出来なくても、間接的な方法でそれを模倣することは、理論的に可能だという。
「まあ、早い話が大きな静電気を発生させればいいんだ。冬の寒い日に金属に触れると弾かれるように痛いだろう? 水の魔導でそれを大規模に発生させれば、一応形にはなる」
「お師様は、それを試したのですか?」
「残念だけど、当時は時間がなかったからね。試す間もなくティティに奪われたし、そうこうしてるうちにお城からは追い出されるしで、今の今まで忘れていたよ」
無論、大量の水を発生させる魔力も、それを均等に保ち続ける精神力も必要だ。並の魔導士では実用化することは不可能に等しい。
ただそれを力技で実現させるのが、ヴィア=ノーヴァという男だった。今は最先端で誰も手の出しようがない技術だとしても、人間の進歩はやがてそれに追いつくだろう。
「……ジョルジュ様のことにしたって、お師様楽しそうでしたよね」
「ああいう良い意味での馬鹿は見ていて清々しいよ。自分に不可能はないと、本気でそう思い込んでいる。彼にしたってラウにしたって、傍から見ればただの頑固者だけれどね、私はそれが逆に好ましいよ。人間染みていて、生命力にあふれているじゃないか」
一度だけ笑みを見せて、ノーヴルは本を持ったまま歩き始めた。どうやら返してくれる気はないようである。
人気の疎らな廊下を歩きながら、セイムは思案した。
ヴィア=ノーヴァは、この王宮のここそこにその爪跡を残している。慎重なゼルシアがそれを消し去らなかったというのは、なにか他意があるのだろうか。
セイムはまともにゼルシアに会ったのは二回だけだ。
自分を見て子供のように笑う姿と、気だるげな背中がひどく目に焼き付いている。視線を合わせれば、それを逸らすことが大罪であるような気分にすら駆られた。魔導の類ではないにしろ、それは彼自身の魅力の一つであるのかもしれない。
「お師様」
「なんだい?」
「お師様は、決して私に答えは教えてくださいませんね」
「謎解きの方が楽しいだろう? ……君の考えていることは手に取るようにわかるよ、セイム。見つけてご覧、君がこの王宮で何がしたいのかを」
いつも師は、答えを教えてはくれない。
問題を解決する手がかりだけを与えて、頭を抱えるセイムを見て楽しんでいる節すらあった。
それを思い出して、セイムはぐっと息を詰める。
何をしたいのかなんて、たった一つしか考えてこなかった。
師の汚名を晴らす。
それだけを考えて王宮に上ってきたというのに、最近になってその考えが見事に乱されるのだ。
本当にそれは、師が心から望んでいることなのだろうか。セイムの、言い訳染みた自己満足ではないのか。
周りの音が遠くなる感覚に、セイムはわずかに眉を寄せた。
訝しげな表情のノーヴルが、そんな彼女の顔を覗き込む。
「セイム?」
「お師様、私――」
僅かにかすれた声でセイムが何かを言おうとしたその瞬間、強い風が一陣二人の間に駆け抜けた。
何事かと風の吹く方向へ視線を向ければ、そこに立っているのは地味なお仕着せを着た侍女が静かにそこに立っている。
「……どちら様ですか?」
ノーヴルが注意深く観察をしながら、侍女に語り掛ける。先ほどまでそこには誰もいなかったはずなのだ。魔導を使ったにしたって、空間を捻じ曲げるような高度な魔導を扱える人間がそういるとも思えない。
セイムを庇うように一歩前に出たノーヴルに、侍女はひざを折って頭を下げた。
「ご挨拶が遅れましたこと、誠に申し訳ございません。私、内宮リベリア宮にて皇妃シャルローデ様の侍女を務めております、プリシラと申します。近衛隊第十席セイム・ミズガルズ様、並びにノーヴル様でいらっしゃいますね?」
「内宮の侍女? なんだって皇妃の使いがこんなところに」
「皇帝陛下より命を賜り、こちらに参上した次第でございます」
普段、皇帝や皇妃の傍仕えとして働いている侍女たちはよほどの事情がないと外宮モルディア宮へはやってこない。機密情報の漏えいや侍女たち本人が政治的な権力を握ることを防ぐため、内宮と外宮は隔絶されているのだ。
しかし目の前に立つプリシラは、皇帝の命を受けてモルディア宮へやってきたという。
無論勅命であるならばそれに従うことが第一ではあるが、それもかなりの特例措置である。
「何故セイムが陛下に呼び出しを? まさか側妃として入宮しろってわけでもないだろう」
「御呼び出しを受けたのはセイム様のみではありません。同じく近衛隊第十席、ラウ・シューゼン様も既にリベリア宮へ参内しております」
「ボウヤが?」
内宮に近衛が呼び出されるということは、それなりの緊急事態があったということだ。
早くと急かすプリシラに、セイムは慌てて首を縦に振った。仕方なしと言いたげな表情で、ノーヴルもそれに従う。
「他の近衛の方は、陛下からお呼びがかかったのですか?」
「いえ、陛下は多くの人物がリベリア宮へ参られることを良しとはしておりません。今回はシューゼン様とミズガルズ様、ノーヴル様のみをお呼びでいらっしゃいます」
「イヴァン令師が出払っているのなら、ジョルジュ様をお呼びするべきじゃないのか? ボウヤも彼女も、まだ駆け出しだぞ」
「陛下は、あなた方をお呼びなのです」
それがゼルシアの下した命令ならば、近衛であるセイムやラウはそれに従うしかない。広いモルディア宮を抜け外に出ると、湿った嫌な風が頬を撫でた。
既に、日は落ちているようだ。
「どうぞお急ぎくださいませ。ゼルシア様が、毒薬をお飲みになったのです」
その言葉に、二人の体は一気に凍り付いた。
落ち着き払ったプリシラの言葉がどこか場違いな気がして、セイムは震える唇を押さえるようにきつく噛みしめたのだった。
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