22

「やはり魔導士と言えど、基礎体力はつけねばならないようですね」


 純白の執務机に肘を乗せ手を組んだまま、イヴァンは図書室から帰ってきたセイム達に向けてそう言い放った。

 朝よりも気持ちやつれて見えるその美貌には、疲労以外のかげりが見えた。


「ラウに聞きました。図書室で体調を崩したと――医務室には寄りましたか? サヤの手が必要ならば呼び出しましょう」

「いいえ、サヤ様の手を煩わせるようなことはっ! ……その、ちょっと気分が悪くなっただけです。ラウが少し、大げさに言ったんですね」

「そう、ですか? 随分と血相を変えてやってきたものですから」


 少しほっとしたような表情を見せたイヴァンに、セイムは一体ラウはどんな報告をしたんだと頬をひきつらせた。

 それでいて、大量の書類を捌き切った魔導令師は彼女に向かって小さく手招きをした。大人しくそれに従うと、彼はあたりを見回してゆっくり立ち上がる。


「ここじゃなんですから、談話室に行きましょうか。ノーヴル、君もついてきて」

「執務室では何か都合が悪いことでも?」

「私はここでもいいと思うんだけど、時々趣味の悪い方がいるんですよ。こうしてね、部屋の中を覗いてありもしないようなことをでっちあげる、それは趣味の悪い方々が」


 ノーヴルの指が動いたのと、イヴァンが胸元の首飾りを握りしめたのはほぼ同時だった。

 何かが焼けこげる音と臭いがして、書棚の陰に隠されるように置いてあった木の箱が煙を上げた。

 セイムは全く気付かなかったが、二人には何か感ずるものがあったらしい。ノーヴルがすばやくそれを確認すると、セイムをすぐ近くに呼んだ。


「一応、核は壊してある。コレ、遠隔操作で使える呪具なんだよ。この玉石の部分に写したものを、対になる玉石で転写する。囚人を監視する時なんかによく使うんだ」

「か、監視……? 誰がこんなこと……」

「この年で令師――魔職の最高峰に立っている人間が、怨みを全く買わないというのもおかしな話でしょう。令師、初めてではないんでしょう?」


 夜明け色の瞳をわずかに細めたノーヴルが、今にも舌打ちしそうな形相でそう呟いた。

 確かに、空いた木箱の側面には青い玉石がはめ込まれている。今では無残にヒビを入れられたそれは、箱を覗き込むイヴァンの歪んだ顔を映し出していた。


「えぇ、書類に呪符を混ぜられるよりはマシでしょう。ね、こういうことがあるから談話室が安全なんです。あの場所は近衛以外の人間は入ることができませんから」


 鋭く観察を続けていたイヴァンが、セイムの方を見上げて一瞬だけ表情を崩した。初めてではないと言ったが、恐らく慣れているのだろう。いくつかの呪具を取り出してそれを封印してしまう手つきは、およそ初心者のそれではない。

 政治の矢面に立つということは、きっとこうした脅迫や介入と背中合わせなのだろう。セイムはこの数分の間に起きた恐怖を思い出して、背筋が凍る思いだった。


「あなたも気を付けないといけませんよ。言い方は悪いですが、貴族の方は私やあなたのように身寄りのない人間が大好物ですから。……さ、行きましょう」

「あ、はいっ!」


 法衣を揺らしながら部屋を出ていこうとするイヴァンに続いて、セイムとノーヴルも退室した。

 やはりと思ってはいたが、ノーヴルも先ほどの事態にはさして驚いていないようだ。恐らく彼も、似たような体験ならば掃いて捨てるほどしたことがあるのだろう。


「やっぱり、驚いちゃいますよね。あんなの見ちゃうと」


 モルディア宮の端っこに向かう中、イヴァンはおっとりとした声でそんなことを言った。

 驚く、なんてものではない。まさかあんなにわかりやすくイヴァンを監視する人間がいるは思わなかったし、それに動じない彼にも肝を冷やした。

 恐がらせて申し訳ないとイヴァンは言ってのけたが、あまり悪いとは思っていないようだった。あまりに頻繁にそうしたことが起こると、感覚がマヒしてくるのかもしれない。


「でもある程度慣れないと、ここじゃやっていけませんよ。私も幼い頃から王宮で奉職してきましたが、ありがたいことにこうした地位を頂いてからすぐは、殆ど眠れない日が続きました。寝るとね、次の日には目を覚まさないんじゃないかって思ってしまって。誰か知らない暗殺者が自分の寝首を掻きにやってくるって、本気でそう思ったんです。おかしいでしょう?」


 魔導令師という彼の地位は、国内で千を超える魔導士たちの頂点たる存在だ。イヴァンの年が幾つかはわからないが、恐らくゼルシアより年上ということはないだろう。いっていて30、それより若い可能性だって十分に存在する。

 その若さで重責を背負った彼が精神の健康を崩すというのも、分からないわけではなかった。自分だったらと立場を置き換えた時、きっとセイムならば一年も持たないだろう。


「おかしくなんて、ないです。イヴァン様はそれだけのことをなさっているのに、妬む方が悪いんです」

「庇ってもらえるとなんだか心強いですねぇ。でもあの頃は陛下もご成婚なされたばかりで、私も右へ左への大忙しでしたから……あなたのように味方がいてくれたら、少しは楽だったんでしょうけど。結局私は、彼のように強くはなかったわけでして」


 談話室の重厚な扉が見えてきて、話はそこで途切れた。

 最初と同じように扉に魔力を流し込むと、ゆっくりとそれが口を開ける。この前とは違って、談話室の中は真っ暗だった。

 火のついていない暖炉はあまりに寂しいと、ノーヴルが魔導の火をそこに灯す。するとそれを合図にするかのように、壁にかかる照明が次々と灯りをつけた。


「何度見ても不思議ですよね。これ、あなたのお師匠様が制作に携わったんですよ」

「お師様が?」

「えぇ、彼がいた三十年は、恐らくこの百年で魔導士が最も輝いていた時期でしょうね。私達は剣士と違って身分の証明と言うものができませんから、ずっと立場は弱いものでしたし。今でも僻地に行けば、魔導士は好奇の視線に晒されますしね」


 不思議極まる、けれど何処か落ち着いた雰囲気の談話室が、ヴィア=ノーヴァの制作したものだったなんて。

 本当かと視線をノーヴルに移せば、ニヤリと笑みが返ってくる。どうやら、嘘ではないらしい。


「あ、そうそう。このまま思い出話で終わっては、ここに来た意味がありませんね――セイム」


 柔らかな革張りのソファに腰かけたイヴァンが、自分のすぐ隣を叩いた。そこに座れと、そういう意味なのだろう。

 ムッとした表情のノーヴルがイヴァンを睨み付けるも、彼がその視線に気づいた様子はない。


「座って。君にプレゼントがあるんです」

「プレゼント?」

「はい。これ、君も杖の一員なら、一つくらいシンボルになる玉石を持っていないといけませんからね」


 ちゃり、と金属が揺れるような音がして、セイムの首に何かがかけられた。

 上から見下ろすと些か見えにくい位置にあるが、ペンダントのようである。銀で象られた飾りと連なって、玉虫色の光が見えた。


「玉虫の玉石の石言葉は「寛容」――あらゆるものを受け入れ、癒し、赦すという意味です。私もあなたのお師匠様から、水色の玉石をいただきました。ですから、これはそのお礼も兼ねて、ですね。女性に贈るならもっと綺麗な色がいいのでしょうけれど、石言葉が美しかったので、つい」

「そんな、頂けません! だってこれ、見ただけで相当……」

「えぇ、あなたの魔力に馴染ませるに、新しく削ってもらいました。でも貰っていただかないと、私はあなたの師に恩を返せないままなんですよ」


 婉曲的には師からもらったと思っていい。

 そう言って、イヴァンはいつもの清々しいほどの微笑みを浮かべた。

 シンプルな雫型の玉石が持つ魔力は、何処かヴィア=ノーヴァやイヴァンのそれに似通って静かにセイムを包み込んでいる。

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