Chapter2:ある日の始まり『ソノラの場合』-1
赤い炎、焦げ付いた瓦礫、何かが崩れ落ちる音。自分がどこにいるのか、ソノラ=バクスターには分からなかった。ただ、目の前に人がいるのは分かった。
その人は、天井の梁に押し潰されていた。顔を苦痛に歪め、脂汗を流しながら、その人は必死に手を伸ばしていた。
皺だらけの大きな手、それはソノラを掴もうと伸びていた。ソノラも、それに手を伸ばした。その時、いままでよりずっと近くで音がした。
天井の梁が落ちてきて、大きな手に落ちて来た。
ソノラの視界を、炎の赤が覆い尽くした。
「ッ……!?」
目を開くと、そこにはもう炎はなかった。
随分昔に忘れたはずの光景を、いまになって思い出すとは。ソノラは息を吐いた。心臓の鼓動は驚くほど早く、ドロドロとした汗が全身を舐めるように覆っていた。サイドチェストにあった水差しを取った。
「……あの事件から、もう4年か。お父さん……」
ソノラは大きく息を吐き、ベッドから起きた。サイドチェストには一枚の写真が飾られていた。
ダブルスーツを来た白髪白鬚の男性、ソノラの父、ゲイル=バクスターが。
彼女は壁に掛けられた時計を見た。
時間はまだ4時前、だが再び床に着く気にもならなかった。化粧台の前に座り、扉を開いた。まだあどけなさを残した少女の顔が、そこにはあった。彼女は努めて険しい顔を作り、メイク道具を手に取った。
「ソノラお嬢さん、おはようございます。お時間にございます」
付き人であるリカルドが呼びに来たのとほぼ同時に、ソノラはメイクを終え、部屋から出て来た。そこにはもう、あどけなさを残す少女はいなかった。
濃いファンデーションとアイシャドウは、彼女をずっと鋭く、冷徹な人間に見せた。血のように赤い口紅は、彼女自身の決意を表しているようなものだ。
「おはよう、リカルド。それでは、案内しなさい」
リカルド=ダースは彼女よりも一回りほど年上の男だ。
だが、それを感じさせない立ち振る舞いだ。恭しく自分の主に対して首を垂れると身を翻し、ソノラを先導した。スキンヘッドと威圧的な外観から暴力しか取り柄のない男ととらえられがちだが、リカルドはよく気が利き、理性的で、控えめな理想的な執事然とした男だ。主が望むことを瞬時に理解し、そして実行するだけの頭と能力を持った男だ。
窓から昇り始めた朝日がソノラに注いだ。彼女の眼下にあるのはスフィンデルの街。小高い丘に建てられたこの館からは、ちょうど街の全景が見下ろせるようになっている。ソノラ=バクスターは、この街を支配する人間の一人である。
彼女の地位を象徴するかのように、館の調度品は豪奢なものだ。
曲がり角にはいくつもの剥製が備え付けられ、見事な色遣いの花瓶には天然の花が生けられている。時代遅れのアンティーク時計が、歯車を回しながら時間を告げた。
それらにまるで注意を払わず、ソノラとリカルドは進んで行く。金糸で彩られた深紅の道を。
やがて、ソノラとリカルドの二人は大きな扉の前に着いた。
リカルドはノックする。
「お待たせいたしました。ソノラ=バクスター様がおいでになりました」
部屋の中から人が立ち上がるような音が聞こえて来た。リカルドは扉を開き、主を扉の中へと通した。ソノラは殺気さえ放っていた険しい顔を少し緩めた。
「おはようございます。ベガルタ、ブルーム。本日は私の招きに応じ、ここまでお出で下さったことを、心より感謝いたします」
この屋敷を訪れた二人はソノラの倍以上歳を重ねた、老練の支配者たちだ。
それでも、ソノラは熟練のミストレスめいて二人と相対し、見惚れるほど優雅に席に着いた。
「ソノラ、私たちもそれほど時間があるわけではない……優雅に会食、というわけにはいかない。出来るだけ手短に話を済ます。それで構わないね?」
灰色のスーツを着た老紳士は、ロマンスグレーの髪を撫で付けながらソノラに質問した。
彼の名はベガルタ=ハノーヴァー。この街に住んでいる者ならば誰であれ、必ず利用したことがあるであろう巨大ショッピングモール、『ベガルタ』のオーナーだ。そしてスフィンデル一の商社である、『ハノーヴァー商会』の代表でもある。
彼の祖先はこの地で水産加工によって財を成した名士であり、彼もまた街の人々から愛されている。立ち振る舞い一つとってしても、豊かな知性を感じさせる。
「こうした席を作ってくれたあなたには、本当に申し訳なく思っていますが……」
もう一人の男は目を伏せソノラに言った。室内にいるというのに頭に巻いたターバンを外さず、薄い麻のローブも身に着けたままだ。
浅黒い屈強な腕を組み、鋭い目線を向けるその姿は、いかなる者をも寄せ付けない威圧感を放っていた。両手にいくつも嵌められた黄金色の指輪も、彼の威圧感を高める要因になっていた。
ウルム=セト=ブルーム。グラディウス戦役によって発生した難民を束ね、このスフィンデルへとやってきた男。彼は戦前から持っていたゲイル=バクスターとのコネを利用し難民の移住を瞬く間に進めて行った。スフィンデル市民が気付いた時には、街の片隅に巨大なグラディウスコミュニティが出来上がっていたと言われるほどだ。
主賓に対してあまりに失礼な言動に、リカルドは憤慨しそうになる。しかしソノラはそれを抑え、席に着いた。彼女が座るとベガルタとブルームも席に着いた。
「今回皆様をここに集めたのは、他でもありません。
連続爆破テロについてのことです」
「グラディウスコミュニティは、スフィンデルに対する協力は惜しまない」
「ふん……白々しい。貴様らがやっているんじゃあないのか、ああ?」
今度はリカルドがあまりに失礼な物言いをする番だった。ブルーノは静かな怒りを込めてリカルドを睨み付けた。リカルドは負けじとブルーノの視線を受けた。
「リカルド、よしなさい。我々がいがみ合えば、それこそ犯人の思うつぼだぞ!」
「はっ! グラディウス人のコミュニティは犯罪の温床だ!
あなたも分かっておいででしょう、彼らがこの地に来てから犯罪統計はかつてないほどに変動していますよ、もちろん悪い方向にね!
このッ、汚らわしい寄生虫どもの仕業でッ!」
「リカルドッ!」
ソノラは立ち上がり、リカルドの頬を打った。
リカルドはそれを避けようともしない。
「席を外しなさい。これ以上の狼藉は、例えあなたといえど容赦はしませんよ」
リカルドはそれにあっさりと応じた。
もちろん、最後にブルームを一際力強く睨み付けることを忘れはしない。彼が部屋から出て行った後、ソノラは大きなため息を吐いた。
「申し訳ありません、ブルーノさん。よもやあのようなことを……」
「いえ、分かっています。スフィンデル人が我々グラディウス人を見る目は厳しい。ここだけではありません、欧州全体がそういう雰囲気です。故郷を捨てて来た売国奴、戦争に便乗してやってきた経済難民……これでも、本国付近よりはまだマシですよ」
ブルーノはパイプに火をつけ、一服した。スフィンデルでは全面禁煙が進められ、公共の場でタバコを吸う者は少なく、例えプライベートでもタバコを吸う者は迫害される。しかしこの場でブルーノの行動に文句を言う者はいない、パイプはグラディウスの文化だ。
「確かに直接戦火を受けておらず、難民としての待遇のみを求めて国を捨てて来た者がいないわけではありません。ですが我々は……故郷を失い、それをあなたの父君に助けていただいた。我々が受けた恩義は祖国のそれにも匹敵する。我ら難民連合は、テロリズムに対して断固として立ち向かっていくことを、この場に宣言いたします」
「ありがとうございます、ブルーノさん。あなた方の助力は非常に心強い」
ソノラはブルーノの言葉に、ただ一つのウソもないことを確信していた。
目は口程に物を言う、ということわざがあるというが、ならばこの男の愚直なまでに真っ直ぐな瞳を見れば彼が信用に足る人物である、ということは分かるだろう。ソノラは微笑んだ。
「我ら、『ハノーヴァー商会』もそれには同感だ。このままスフィンデル一帯で発生しているテロを放置すれば、やがて取り返しのつかない事態へと発展するであろう。人が死に、経済が死に、やがてすべてが死に絶える。それだけは避けなければならない」
ベガルタは控えめにその言葉に同調した。彼は先代とも深い関係を築いており、彼とゲイルの二枚看板でスフィンデルの発展は支えられてきた。
「ご両人のご協力をいただけるのならば、このソノラ。百人力でございます」
ソノラはやや芝居がかった仕草をした。
「我ら『バクスターファミリー』も、此度のテロリストには辛酸を舐めさせられています。テロリストどもの殲滅には、私たちも助力を惜しみません」
そして、ソノラ=バクスターとその傘下にある『バクスターファミリー』。彼らは古くからこの地域を牛耳るマフィアの家系だ。その祖先を辿ればヴァイキングに辿り着くとも言われている。
ハノーヴァーが扱えない裏の商材を、裏社会の舵取りを行うことによって、確固たる地位を築いて来た。豊富な資金力と市民たちの支持を背景にハノーヴァーが表の社会を、暴力と組織力によってバクスターが裏の社会を支配することによって、このスフィンデルの発展はこれまで支えられてきた。
だが、《星間戦争》がすべてを変えてしまった。
戦争の余波によって地球さえもその姿を変え、多くの人々が路頭に迷った。生きるために人々は尊厳さえ捨て、野獣へと堕ちて行った。ここスフィンデルにも、食い詰めた盗賊どもが現れるようになっている。
テロリストを排除し、あるべき秩序を取り戻す。ソノラは静かに決意した。
「ではここに……《バルト同盟》の設立を宣言いたします!」
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