エピローグ:田中さんと女神様

エピローグ・01



≪百十七番の番号札でお待ちの方、三番の窓口までお越し下さい≫



 覚悟していたはずの気持ちが、途端に月までぶっ飛んだ。

 待っているのも相当しんどい、なんて贅沢だったと今まさに知る。


「は゛い゛っ!!!!」


 勢いが余った、というより思い余って声も出た。

 突然に上がった素っ頓狂な大声、得意科目の授業で先生に指された時でもそこまで激しくないであろう張り切りボイスに、広いフロアの視線が集まり、そこかしこが静まり返るのも無理はなく。

 

(う、ううっ……やってしまった……!)


 顔から火を噴く羞恥の心地が、歩調をぐんと加速させる。

 出鼻を挫かれた気分。

 自業自得のがっかり。

 それは、芳村椿よしむらつばきの人生で、最早恒例となった感覚だ。


 何かにつけて落ち着き無くて、勝手に焦って早合点して、誰に押されたわけでもないのにすっ転んでは鼻を打つ。

 所属していた部活では短距離をやっていて、練習の時のタイム自体は悪くないのに、本番でフライングを連発し過ぎて、ろくな結果も残せないまま引退した。


 あの時。

 あの一瞬。

 踏み出すことを、待てていたなら。

 きっと、今頃、自分の夏は――

 ――まだ、もう少しだけ、終わらないまま続いていた。


(……こんなはずじゃ、ないのに)


 そんなことを、常に思う。

 人や世界には、いや、何事にも歯車というものあって、うまくいくかを分けるのは、それをきちんと噛み合わせられるかどうかなのだ。


 これがまた、ままならない。

 成功しているところと失敗しているところ、その二つには実は、大きな違いなど無い場合が多いのだと、十八年分のがっかりを積み重ねて芳村椿は気がついた。


 たとえば、間とか。

 たとえば、運とか。

 ほんのちょっとの変化、極めて些細な要素……右を選んだか左を選んだかぐらいの、深呼吸をしていたかどうかみたいな、それぐらいの、差。


(だめだなあ、私)


 要するに。

 要領の良さ、丁寧さ。

 そこのところを怠ってしまったらどうにも駄目で、そして、その【あと一歩の我慢】をいつも欠いていたからこそ、自分の人生は溜息に彩られている。


 劇的な不幸ではない、有り触れた落胆。

 ちいさなミスと、ちいさながっかり。

 それでも、積もれば重くなる。

 不安が、渦を巻いてくる。

 もしかして。

 

 自分の人生は、これからも。

 歯車を噛み合わせられない心地の悪さと、リズムの合わない躓きに、絡め取られたまんまなのではないだろうか、と。


(……あ、まずい)


 込み上げて来る感覚がある。

 いけないとはわかっていても、抑えられない、膨らんでいく。

 また、迷惑をかけてしまう。

 自分だけなら溜息で済むがっかりを、周りの人に移してしまう。


 いつもこうだ。

 いつからか癖になった。

 勝手な先走りで転んだ後は、何故だか無性に悲しくなって、情けなくって、いたたまれなくて、目から出る。


 それを見られるのも、見せてしまうのも嫌で、俯くようになった。自分の足元ばかりを見るようになった。

 嫌だなあ。

 気持ち悪いと思われるだろうか。

 それとも面白がられるだろうか。


 どうしよう、と迷っても、ここから逃げるわけにもいかない。

 せめて。

 せめて、と願うのは、なるべくおかしな子と思われませんように、面倒なことになってしまいませんように、一刻も早く、楽になれますように――


「始めまして」


 ――そんな、焦りが。

 耳から染むような声で、すぅっと、潮が引くように。


「本日担当を勤めさせて頂きます、萬相談係の田中と申します」


 その人は。

 目の前の彼は、椿のことを、落ち着いた目で、穏やかな態度で、何も急かさず、強いはせず。


「おかけになってください――というのも、変になりますね」


 そして。

 自然に、微笑んでいた。


 下半身が、歩行ユニット付きの水槽に使った――

 ――である、彼女の目を見て。


「……あ、の」

「御用件を、窺います。勿論あなたの心が、落ち着いてからで」


 様子で、知らせる。

 彼は、見て、そして、悟り、慮ったに違いない。

 椿の水槽の中に落ちている――【人魚の涙しんじゅ】から、彼女の精神状態を。


「よろしければ、深呼吸などどうぞ。アスリートの方々は、何かと緊張なども多いでしょう」

「え、」

「夏の高校人魚水泳。あれ、毎年に楽しみに見てるんです。あなたたちの泳ぎは――とても美しくて、力強くて、本当に素敵ですから。今日はお会い出来て光栄ですよ、芳村椿さん」


 うまくいかない癖。

 意識出来ない齟齬。

 成功と失敗を分ける、ほんの些細で、けれど厄介な、違い。


「――――田中、さん」


 それは。

 小さな棘であるからこそ、時として、本当に簡単な、拍子抜けしそうなほど何気ない出会いで変わる。

 抜ける。

 歯車は、正しく噛み合い、回り出す。


「私、この世界が、地球のことが、大好きです。でも、もっと、もっと――――人魚として、泳げる異世界に、生まれ変わってみたいんです」


 胸の底に沈めていた、願い。

 親にも、教師にも、友人にも話すことが出来なかった、希望。


 それを。

 初対面の、異世界転生課萬相談係の、田中と名乗った男性は、

 あるがままに、受け止めて。


「わかりました。では、資料を持ってきましょう」

「、」

「【水の異世界】は、実にポピュラーで数多い。御希望を聞きながら、条件に見合うものをざっと探してみましょう。より詳しいお話についてがお望みならば、専門である異世界コンサルタント部のほうに話を回すことになると思いますが」

「は、はい、」

「ああ、そうだ。先日、海洋世界ウィラーシルから、無差別種族オールカラーで全世界一の水泳選手団を作りたいと、各異世界に志願者を募る報せもありまして。あなたがこれから、競技としての水泳を追求していくのであれば――そちらの方面も、お力添え出来ると思いますが」


 いかが致しましょうか芳村さん、と彼は言った。

 そんなの、問われるまでもなかった。

 まったく白々しいことを言うものだと思う。

 毎年夏の人魚水泳を見ているんなら。


 あの日。

 自分が。

 四角いプールの中に、どれほどの真珠を浮かべたのかも知っていように。


「是非、お願い致しますッ!!!!」


 再びの大声は、どっしりとした決意と、浮つかない覚悟に満ちていて、そして、何より晴れやかで、種族特有の高音が歌のように心地良かった。

 芳村椿の水槽の、水面に漂う涙の証が、熱と希望の波にて揺れる。

 田中はそれに頷くと、助力を求める為に、頼れる同僚の下へ向かっていく。


「工藤さん」

「どうぞ」


 プリントアウトされた資料の束。

 必要なものを、早過ぎるほど先回りして渡された田中は、感心八割感動二割の表情で礼を言う。


「いや、やっぱり敵わないなあ。芳村さんの件も、早めに君に頼んだほうがいいかもしれない」

「いいえ」


 うぅむと唸る彼に対して、彼女は迷わず即答する。


「あなただから出来ること。あなたでないといけないことがありますよ、田中さん」


 いつだって、当の本人だけが気付かない。

 疑問符を浮かべる田中がおかしくて、工藤は思わず笑みを漏らした。


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