四章(急)・11



 その日のことを、彼は、忘れない。

 地続きだった世界が崩壊する瞬間。

 踏み出した足が虚空に落ちた感触。


 黄昏の曲がり角。

 日常との、永別。


『これにしよう』


 背の高い、おそろしい声の、襤褸切れを纏った顔も見えない“なにか”が、そう発したのを聞き、竦んだ身体が、震える足が、逃げ出すことも出来ず、突如として広がった襤褸に包まれた瞬間、六歳の子供は意識を失った。


 それから。

 彼の身に起こったのは、筆舌に尽くし難い、絵にすら描けない、理解の出来ない体験の数々。


 発展を謳われる時代。

 理想で飾られる制度。

 その裏に潜むもの。

 その影に沈むもの。


【滅亡する異世界】。


 それは、醜悪だった。

 それは、腐敗だった。


 一秒毎に色を変える空。絶命の叫びを上げる大地。捻れ曲がる森。自殺する海。

 狂い切った法則、誰も望まない地獄、生命を寄せ付けない空間、何かの間違い。


 その中で、子供は生きていた。

 生かされていた。

 最早、万象にも、住人にも、注ぐものの何一つ無い【神の加護】の受け皿に、彼はされていた。


 岩に潰されて、死なない。

 水に落とされて、死なない。

 空に逃げられても、死なない。


 死なない。

 死なない。

 死なない。

 死なない。

 死ねない。


 何故なら、

 用途があるから。


 創造神ミロレフロームが、彼のことを、愛しているから。


 痛みより。

 嘆きより。

 疑問より。

 困惑より。


 誤った世界の中で、子供が最も恐ろしかったのは、

 神だった。

 神様自身だった。


 彼女は、六歳の子供に【加護】を与えながら、同時に【願い】を吹き込み続けた。

 その、【動機】を。

 何故、彼が攫われたのか――その、止むに止まれぬ理由を、教えた。


【同時多発異世界破滅】。


 無論、子供には知る由も無い。

 そのようなこと、学校でも――人からも、神からも、聞いたことはなかった。


 創造神ミロレフロームはかく語る。好き勝手に、うわ言のように、相手の理解を置き去りに。

 狂いながら、繰り返す。


『救われた。救われた。私は一度救われた。遥かな世界、異なる世界、新たを齎す来訪者に、ミロレフレームは救われた。破滅は消えた。黄昏は去った。だが、だが、ああ、だが、それは、それは、本当に? この先、彼方、幾千、幾億、巡り巡りて廻り来る? あの星が。あの闇が。終わりの粒が集まって。私を。世界を。ミロレフロームを。星辰の果てより再度、大顎が、手が、手が、手が、手が、あ、あぁぁあ、あ、あぁぁぁぁぁぁあぁああぁあぁああああぁ。要る。要る。要る。要る。用意をしよう。備えなくては。世界に窓を。寄航の港を。否。否。否。否。それでは、足りない。救世を。存続を。義務を。役目を。果たし、果たせ、果たす、為の、人を、人を、人を、人を、神の手による、神を超える、神に捧げし使命の子を――――』


 つまり。

 創造神ミロレフロームは、負けた。


 神でもなく。

 人でもなく。

 一度確かに退けた、破滅の毒に侵された。


 その世界はかつて、【同時多発異世界破滅】に見舞われていた。多くの世界が滅び、また――――破滅の拡散を防ぐ為の、同じ神々の産み出した【掃除屋】の手に掛かり消去を余儀なくされた、あの前代未聞の大災害に。


 しかし。

 ミロレフロームは、間に合っていた。自らの世界が滅亡する、その寸前――ぎりぎりのところで制定が間に合った【世暦】に、それにより訪れた【転生者】に、一度、世界は救われた。


 救われは、したが。

 その恐怖は、神の心にきずとなって残されていた。


 二百年強の間、それは強迫観念的な【世界の進化の推奨】という形で、自覚されることなく影響を及ぼしていたが――神が認めた至上使命であるが故、歯止めを失い、過ぎたる【発展】が繰り返された行き着く一つの果てとして、【優れること】を目的とする終わりなき戦争が引き起こされ、ついに世界そのものが汚染され尽くし全生命体が死に絶えるに至り、【異世界転生課の一時閉鎖】――即ち、


【救世主を呼ぶことが出来ない】という状況に置かれることで、創造神ミロレフロームの狂気は、発芽した。

 

 ありふれた、子供。

 何の変哲も無い、少年。

 それを、彼女は【救世主】にしようとした。


【神の加護】の名の元に施される、本人が一切望まぬ歪なる改造は、実験は、鍛錬と呼ぶにはおぞましすぎる、権利と自由と希望をその一片までも欠き切った強制的呪詛刻印は、まるで終わりを見せなかった。


 あまりにも、当然の話だった。

【救世主】になれと神は言う。

 その為の【愛情】を注いでいるのだと訴える――肝心なことを、忘れたままで。


【救世主】とは。

 何をするから、【救世主】なのか。

 一体どうやれば、人は、【救世主】になれるのか。


 簡単過ぎる。

 何かをする者ではなく、

 何かをした者。


 世界を救った時にこそ、人は、【救世主】として完成する。

 その為に必要なものが、異世界ミロレフロームには、決定的に足りていない。

 

 ――既に滅び去った世界。

 ――歴史も絶えた夢の址。

 ここにはもう、晴らすべき悲しみも、守るべき笑顔も、何一つ残っていなかった。

 

 信仰を抱く人々も居らず。

 万象を担う神々も消えて。

 終わった世界を創った主だけが、未だ、肝心なことに気が付かないまま、残り、狂い、足掻いている。


 救世主になれ。

 救世主になれ。

 救世主になれ。

 破滅に瀕した世界に、救世の子よ、在れ。

 

 神が。

 人に捧ぐ、祈り。

 呪いそのものの願いを受けながら、いつしか、その子供は気付くのだ。


 創造神の本意に。

 その、失望を禁じ得ない独善に。

 世界を創った神が、避けたかったもの。

 それは、生み出した世界でも、そこに根付いた生命でも、紡がれた文明でもなく。


 自分の世界が、自分以外の手で、否定し尽くされること。

 その世界を創った創造神だけが持つ、不可侵のはずの権利が侵害される気に食わなさなのだと。


 そして、それに気付けば。

 答えまではもう、数歩も無い。


 ああ、と分かる。

 遂に、至る。


【救世主になれ】。

【救世主になれ】。

【救世主になれ】。


 度重なる呪詛で、塗り替えられた思考。誘導された欲求。拷問でしかない【愛情】、出口を求めて彷徨い続けてきた疑問。


 道が開けて。

 光が射した。

 彼は、笑う。

 子供が、笑う。


 異世界ミロレフロームで初めての笑顔は、狂い壊れた大地の中で、同じだけの歪みを持って咲いた。



 この世界を救う為には。

 世界をこんなふうにした、創造神かみさまを殺さなきゃ。



 それが、十分前のことだった。

【守月草神隠し事件】容疑者の元に、強制執行で踏み込んできた異世界公安の捜査員――――荒ぶる神を鎮めるための【巫女】としての準備を済ませた、ネフティナ・クドゥリアスが、現場に踏み込む、その直前に、何もかもは、終わった。


 その時に何があったのか。

 最後に残った創造神さえも失い、崩壊する異世界から被害者の子供を連れて脱出することに手一杯で、異世界公安は結局、状況の保存、情報の収集については何も出来なかった。


 前代未聞の、【神殺し】。

 どれだけ問い詰めても、子供は語らない。……受けていた【処置】の影響か、また、神を殺したという罪によってか、その一年、今はもう何処にも存在しない異世界、ミロレフロームでの出来事は、他の神の権能を以てしても、覗き見ることが出来なかった。


 ――――そして。

 本人もまた、自分が一体、何をしたのか。

 その記憶を、失っていた。


【創造神ミロレフロームを殺す】と考えてから、地球に戻るまでの間の事を、どのようにして自分がそれをしたのかを、彼は覚えていない。


 ただ。

 手のひらに、漠然と残る奇妙な感触だけが、それが、自らの行いだと訴え続ける。


 田中はそうして解放された。

 田中はそうして、自分自身にさえ実感の湧かない、神殺しになった。


 何より。

 全ての神と、異世界を、殺したいほど憎み始めた。


 澱んだ眼をした七歳の子供に、夜、一人で布団に入ると、その両手で、何かを潰すように、握り締める癖がついた。


 眼を見開いたまま。

 呼吸を殺して。

 歯を食いしばり。

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