四章(序)・07



「あは、」


 突然に。

 素っ頓狂に。


「あははははははははははははははははッ!!!!」


 田中が去った直後、笑い出したハルタレヴァに、女神は面食らって押し黙る。


「ああ、ごめんなさいね。でも、少し、驚いてしまったものだから。我慢出来なかったものだから」

「――――何が、でしょうか」

「それにしても。こんな残酷なことって、あるのね。本当、とても、とても――――知らないのって、


 わからない。

 ハルタレヴァの、その言葉の、指し示しているのが何なのか。


 擦れ違っている。

 食い違っている。

 見ている場所が、

 ズレている。

 それを、女神は確信する。


 彼女は、

 何か、

 自分の知らない、

 消えてしまったものについて、


「大創造神、ハルタレヴァ様。貴女は何を――――知っていらっしゃるのですか」


 それが、たがの壊れるきっかけだった。

 微笑みが消える。

 身が乗り出される。


 口付けしそうなほど近く、

 食い千切られそうなほど近く、

 ぶつかることを避けられないほど、


 創造神が、

【己の世界を持つ者】同士が、

 傍に在る。


「なんて面映いのかしら。あなたがわたしを、そう呼ぶなんて」

「――――ハルタレヴァ、様、」

「ほんとうに覚えていないのね。知っていたけれど。ずっと、聞いていたけれど」

「アンゴルモア、というのが。私の――――以前の名前、なのですね?」

「あなたの好きなあの人間は」


 唇が裂けた。

 吐息の当たる距離で、

 大創造神が、

 悪意を吐いた。


 今。

 想像していない方向から、

 無防備な脇腹を、

 抉るように、


「【異世界転生】というものが。創造神というやつが、心の底から大嫌いなのよ」


  

                 ■■■■■



 呼び出された市役所。

 ブラインドの降りた会議室で田中を待っていたのは、上司の、そのまた上司だった。


「――天照、主祭神?」


 驚くのも無理はない。

 彼女の姿は、【神威正装かむいせいそう】――人の世にその一員として馴染む数多の神々が、【自らのくらいあらわにし、その権能を行使する】際に着用する、厳かな礼装を纏ったものだった。


 神威正装の状態にある神は、神々しさの格が違う。対面するだけで当てられる感覚――その管理下にある者、その世界にある命は、理屈を抜いた無条件の畏敬を湧き上がらせる。


「やあ。突然に呼び出して済まないね、田中職員」


 口調こそ柔らかだが、その言葉から受ける緊張感、頭の後ろが、背の骨が、と痺れるような心地は、先日松衣で接した時と今の天照が別物であることを直感させた。


「まずは掛けたまえ。大切な話だ」


 会議室にいたのは、天照と、そして田中の直接の上司である異世界転生課の課長だけだった。

 それが、落ち着かなさに拍車を掛ける。

 三十人は収容可能な会議室に三人だけがぽつんと置かれ、その据わりの悪さ、空きだらけの広さに圧迫されて萎縮する。


 遠く離れた上座から、こちらを見下ろすように眺める天照。その横で、議事録の為のPCを広げる課長。

 何を言われる前に理解した。

 これは、【責める】為の空間だ。

 吸い込めば肺腑を焼く、酸の空気が充満している。


「……御二方、一体、自分に何の御用でしょうか」


 それを。

 それでも。

 あえて、深々と吸い込んで――取り込むことで適応わがものにして、田中は先手を選ぶ。


「そう肩肘を張るな。難題を押し付けようというわけじゃない。出来ないことをしろと言うのはぼくらの御家芸みたいなものだが、今日のところはそうじゃないさ」


 天照は微笑んで言い、


「簡単だよ、田中職員――異世界転生課、萬相談係。きみに望むのは、なんだからね」


 予防線。

 にも、なりはしない、心構え。

 もしかしたらと思っていたが、

 実際に、

 それも拒否権などあろうはずもない相手に言われると、

 こんなにも、


「理由を、聴くことは許されますか。主祭神」

「厚顔」


 ――――首筋を。

 氷の針でなぞられるような、緊張感。

 久々に痛感させられる事実。うっかり麻痺しかけていた、あたりまえの常識。


 人は、神に、及ばない。

 対等になど、決して、絶対、成り得ない。

 そして、


「だが、いいだろう。その蛮勇に、ただ一度だけ免じよう」


 その気まぐれに、常に煽られる綿毛だと。


「その前に問うがね。君は、知らずばよいことだとしても、それを知りたいかい?」

「彼女は、僕の担当です」


 探る問い。

 試す脅し。

 一切屈さず、踏み込んだ。


 神が気まぐれに人を試すならば。

 それを嘆かないことだけが、敵い得ない存在に抗う為の術だとでも言うように。


「苦しみも、悲しみも。投げ出さないと、決めました」

「そうか。良かった。なら納得して、安心したまえ」


 天照は、皮肉を浮かべる。


「きみのせいだよ、田中職員」

「え、」

に知れた。そのせいで、はは。今、高天原より遠い場所にいらっしゃる【神々の連盟】はね。上から下まで、引っくり返したような大騒ぎさ」


 田中の視線が、思わず課長に向いた。

 彼は、顔を上げない。人の形をしたタイプライターのように、黙々と、粛々と、この会議の――否、査問の内容を記録に残している。


「断っておくが。彼は何も喋っちゃいないよ、田中職員。あったのは匿名のタレコミだが、ちょっと考えればわかるだろう。彼がそんなことをする人間かどうか――今更きみを問題にするような奴が、そもそも、きみを雇うわけなんざないってことぐらい」


 高い音。

 それは、田中が自らの頬を、思い切り打った音だった。

 噛み締めた唇、寄った眉根は、深い嫌悪を表している。


 睨み付ける先は、無論、自らの、その内側。一生頭の上がらない恩人を――否、を、少しでも疑いかけた浅ましさ。


「――はい。申し訳ありません、ありがとうございます、天照主祭神」


 切り替える。

 どうにもならないこと、考えても仕方の無いこと、個人的な困惑や苦悩を、優先順位で押し潰す。

 ……それで本当に消え去ってくれるなら、そんなに楽な話も無いが。


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