三章・21



 一例を挙げよう。

 その日、藤間圭介は横腹を蹴り上げられて目を覚ました。

 残留する痛みや息の出来ない苦しみはあれど、十四歳の少年には微塵の混乱も無い。


 だって、うんざりするほど慣れている。

 ああまたか、と諦めている。


 唸りながら寝床を、床の上にタオル一枚敷かれただけの居間の片隅をもんどり打つ彼に、何種類もの香水の残り香を纏った男が、ごくごく自然なトーンで言い放った。


 何でいんの。


 教師たちは誰も知らない。

 藤間圭介という不良生徒が知り合いの家を転々とし、時には閉園後の運動公園や空家に忍び込んで夜を明かしている理由など。


 簡単だ。

 彼には、【帰るべき場所】が無い。

 正確に言うならば、【迎えてくれる家】が無い。


 圭介の父は職につかず、数多の異性からの【好意に基づく自発的援助】を受けることで生活を成り立たせる人種だった。本性を隠しながら甘い言葉を吐き、人の心に潜り込んで自分の求めるものを持ち帰る、そうした類の技術があった。


 そんな男にとって、圭介むすこは実に鬱陶しい存在だった。

 家事全般でこき使っても、雀の涙ほどの【養育費】を稼がせて献上させようと、不快は常に利益に勝る。我慢の限界が来たのは一年前、折角新しい候補を家に連れ込みあともう少しで上手くいくというところで、線香を買って帰ってきた圭介を見られたおかげで積み重ねてきた仕込みとこれから正に始めようとしていたのお楽しみがおじゃんになった一件だった。


 女に線香の束を投げつけて罵声を吐いた圭介を男は顔面が腫れ上がるまで殴りつけて放り出したはいいが、無論その程度のことで誤魔化しも取り戻しも利くわけがなく、パトロンは「子供がいるなんて聞いていない」という実につまらない台詞を喚き散らして去っていった。恩知らずにも程がある。現実をちょっと見たぐらいで失望するなどまったく不誠実ではないか。どれだけこちらが不釣り合いな夢を見せてやったと思ってる。


 男はすぐに圭介の荷物を纏めてゴミ捨て場へと投棄した。

 その中には、彼が大事に隠していた、隠しきれていると浅はかに思い込んでいた一冊のアルバムも含まれていた。圭介がそれを見付けた時にさぞいい反応をするだろうと、せめてもの憂さ晴らしの為に、一枚一枚全ての写真に丁寧に鋏をいれて。


 かくして、藤間圭介は暖かな記憶と忌まわしい記憶の詰まったアパートを追い出された。

 それが一年前の話だ。無一物となった彼は何もかもを誤魔化し誤魔化し生きて、そしてその日、一年後の同じ日に、自分が住んでいた家に忍び込んだ。一夜をそこで明かすつもりで。


 母の、命日だった。

 去年、上げられなかった線香を、圭介は二年分上げた。

 愛しい母。

 可愛そうな母。


 くだらない男に騙され、口先だけの幻を見せられて、呪いでしかない婚姻関係をストローにして何もかもを吸い上げられた。週に一度しか現れず金を毟っていきろくに家にも帰らぬ男を、「あの人はやることがあって忙しいから」と、最後まで並べ立てた嘘を信じ続けた。


 愚かしい母。

 優しかった母。

 あの男は平然と、同じ顔で違う女に愛の言葉をばら撒いていた。そこには何の信用も無ければ、一文の価値すらも無い。底値を割るどころか、最初から何の効力も無い偽造品。


 なのに母は笑って死んだ。

 生来病弱で、病気で苦しむ女に見舞いにも来ない男に、自分が医者に掛かる金さえ切り詰めて渡し続けていた。


 遺される圭介の事は、自分の保険金でどうにかなると思っていたのだろう。

 そんなものは当然ながら、彼の為に使われることは一切無かった。皆、男がただ束の間を楽しむ無駄金として瞬くうちに浪費された。


 母を恨んではいない。

 憎いなんて思えない。

 圭介が苦しむのは、いつだって自分の弱さで、小ささだ。年齢、身分、社会的にどうしようもない、自らの存在のちっぽけさだ。

 出て行ったはずの息子を見ながら、男は嫌悪に顔を歪めていた。


 なんだこりゃ。

 気持ち悪ィことすんなよ。

 

 仏壇など、そんな殊勝なものを、男が用意しているわけもない。

 だから圭介は、自分で持ってきた。


 子供の拙い工作。不恰好な作りの木組み。

 灰皿を用いて創った線香の土台に並び、母の写真が、破片を丁寧に、一枚一枚復元させたも遺影が飾られていた。


 いい加減にしろや、阿呆。

 もう誰も、おまえなんかいらねえんだよ。

 

 男はライターを取り出す。

 その意図が一瞬で分かる。

 取り縋ろうとして蹴り倒される。体格の有利、年齢の差が覆せない。


 やめろ、と叫べば叫ぶほど楽しそうにされ、そうして、

 つぎはぎの、執着の、どれだけぼろぼろになっても捨てられなかった、母の写真が燃やされた。

 泣き叫び、殴り掛かる圭介を、男は一年前より念入りに【教育】して放り出した。


 どっか行け。

 もう来んな。

 あのゴミは、こっちで処分しといてやるよ。


 藤間圭介が、誰かを殺したいと心の底から感じたのはそれが初めてだった。

 それを実行に移せない自分、【あの男には絶対に敵わない】と身体が勝手に震え出す不甲斐なさが、心の底から死にたくなるほど情けなかったのも。


 結局。

 彼は閉ざされた扉の向こうに再び侵入するのではなく、恐怖の対象が棲み付くその場に、背を向けて走り出した。


 行く先など無い。

 楽しみなど無い。

 もう、何処にだっていたくない。


 頭の中がぐちゃぐちゃだった。なんで自分はこんなところにいるのだろうと思った。何もしたくなかったし、何も考えたくなかったし、何をしても無駄な気がして、世界全部に潰されそで、どこか、どこか、どこか、遠くへ、一歩でも、少しでも、この気分から、この苦しみや虚しさから、無関係でいられる場所へ――


 ――そうした感情が、頂点に達し、藤間圭介を内側から食い破ろうとした時だった。

 彼が、それに衝突したのは。


 その触感の不思議さを、彼は鮮烈に覚えている。

 何しろ、あまりにも未体験。全力疾走していたにも関わらず、彼がぶつかったものは、彼をまったく傷付けなかった。ふわりと衝撃を吸収し、柔らかに彼を倒して止めた。


 まるで、「ちょっと待った」というように。

 絶望的な思い込みを、咎めるように。


 そうして圭介は、二重の意味で驚いた。

 自分が、海岸まで走ってきていたことと。

 目の前に。

 どう考えても嘘くさい、こんなところにあるはずもない【岩の城】があることに。


「ありゃ、見つかっちゃったか」


 そして。

 呆然とそれを見上げていた彼に、声を掛けた者がいた。

 いつの間にか、城の門が開いていて。

 その中から、浮遊するソファに寝そべった少女が現れている。


「もとい。見つけられたね、おめでとう」

「……え、」

「さ。ぼうっとしてないで、入りたまえ。ここは何しろそういう場所だ。来訪者が現れた以上、僭越ながらぼくも身を苛む怠惰を跳ね除けて、ホストの役を果たそうじゃないか」

「――――何、言ってんだよ、あんた」

「知らないかな? 多少は有名な昔話なんだけど」


 天岩戸ってのはね。

 つらい思いをしたやつが、一休みする為の場所なんだよ。


「君の事情は知らないし、安易な同情も出来ないが。これだけは約束するよ、ヒトの子よ。天照大神の名に於いて――天岩戸は傷ついた君を、満足するまで受け入れる」 

「…………っ、」

「ま、簡単に言うならば、だ」


 今日から此処が、君の帰るお家だよ、と。

 丑三つ時の砂浜で、太陽神は、朝日のように笑った。


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