第15話

 皮肉にも、私が最後に凶刃を振るっていたのはサイキ・グランド・ホテルの中だった。

 いつ戻ったのかは覚えていない。

 警察署は私が燃やした。私はいま、別の警察署に移送されるのを待っている。身体中を拘束されて椅子に座り、スイートルームでもない平凡な客室で、二人の警官に見張られていた。

 うつむく姿勢を取ると、自分の服がよく見えた。

 人を殺したとは思えないほど綺麗な服。その奥に潜む心はこんなにも汚れているというのに、いつだって衣装だけは綺麗だった。

 これが私という生き物なのだ。

 ノックの音が響く。見張りの警官が身体を浮かす。

 入ってきた人間は三人いた。

 非番のはずの芋洗刑事が、なぜか音頭を取っている。ところどころ漏れ聞こえたやりとりによると、私は彼の所属している警察署に移送されるようだった。

 芋洗刑事は見張りの一人に今後の段取りを伝えている。

 猪去がもう一人の見張りと話す。場所の提供以上に、猪去は警官に便宜を図った。欲しいものはないか。飲食は足りているかと、彼は訊ねる。

 見張りが気を取られている間に、最後の人物が私に近寄る。

 あの人……。

 ――星定男が私に言った。

「あの二人には協力してもらっている。二人は俺がなにを言うか知らない。それでも協力してくれている。俺と君はいまこそ話さなくてはならない」

 声には知的な響きがあった。私が殺した彼にはない、知的な響きがそこにはあった。彼は、私と同じぐらい、かつてと違う人間だった。

「君はこれから寝るたびに不安になるだろう。怪我をしてもなんとも思わなくなるだろう。感情が抜け落ちていくだろう。人の言葉が分からなくなるだろう」

 あの人が忠告する。忠告が私の鼓膜を震わせる。

 しかし、私の心にまでは届かない。

 なにを言われようが、あの人に私の受けた苦しみが分かるはずない。ただ私の家族を殺した程度の人間に、同じ日を繰り返し続ける私の苦しみなんて、分かるはずがないのだ。

 同じ殺人者として私に話しかけているのだろうが、それでも私と彼との間には開きがあった。いつ終わるかも分からない繰り返しの日々。仮説を立てるしかない蹂躙された日々。私は、混乱させられ、混線させられ、いまでもなお混沌のうちにあった。

 何日も前から私の意識はなかった。運命さえそこにはなかった。それでも、こうして次の日が迎えられた以上、あの殺し回った日々は無意味ではなかったはずだった。

 あの人は私に言う。

「現実がベニヤ板の落書きのように思えるだろう。自分が足の切れた野良犬のように思えるだろう。世界が浜辺にうち捨てられた長靴のように思えるだろう。全てが疑わしくなるだろう」

 この台詞は、ほんの少しだけ私の心を打った。

 彼の言う通りだ。私は全てを疑わしく感じている。この世界で生きている人間は私一人のように感じている。他の人たちは、誰もが思い通りに動くよう指示されたロボットだ。三次元化されたプログラム。毎日飽きもせず同じ行動を繰り返す住人。彼らは自分に意識があると思い込んでいるだけの、弄ばれた不自由な存在……。

「……一つ思い出したことがある」あの人は言う。「俺が君の家族を殺したときだ。俺が最初に殺したのは。君の姉さんは半狂乱になった。こうして俺は彼女がどれだけ君を愛していたのかを知ったのだ。以降、俺は君を殺せなくなった」

 私は顔を上げた。上げざるを得なかった。

「……あなたも、なの?」

 あの人が一つ頷く。私から返答が得られたことで満足そうに一つ……。

「十五年前の関係者。俺と君以外の関係者がもう一人ここにいる。そのとき、彼は六歳だった……」

 頭の中に散らばっていたファクター。それぞれ独立して存在していたファクターが光る。光は道を照らすためにある。それぞれのファクター同士をつなげる道が光によって照らされる。

 全てがつながる――。

 きっかけは十五年前の殺人事件。

 私はあの人の友人らの証言を信じなかった。暗く憂鬱な瞳。生気のなさ。それが私にとってのあの人の全てだった。

 しかし、逆に考えたらどうなる?

 あの人に対する友人らの証言こそが、全部正しかったとしたらどうなる?

「優しくて、温かい人」という姉の説明が全部正しかったとしたらどうなる?

 あの人は唐突に姉と両親を殺害した。彼を前から知っていた人からすれば、信じられないほど唐突に三人殺した。犯行に躊躇はなかった。殺し慣れたものの手腕だった。彼は素早く息の根を止めた。

 あの人が殺戮を始めたきっかけは、姉のあの台詞だった。

「定男君。今日はなんかアレだね」

「……アレ?」

 ――みたいだね。

 いまの私はどうだ? 私こそ、まさしくみたいではないか? 私は何度も死に、そのたびに七時のスイートルームで蘇った。

 私は何度も星定男を殺した。星定男は殺しても殺しても翌朝になればけろりとしている。彼こそまさにだった。

 もしも、あのとき、星定男が「ゾンビみたいだ」と私に言ったら、私はどうしていた?

 私は間違いなくキレていた。星定男に斬りかかる。そして、

!」と叫ぶ。

「綺麗な服だ」現実のあの人が言う。その身体は傷一つない。「返り血をまったく浴びていない。明らかに君は俺より長く繰り返している。しかし、返り血を浴びなくとも、避けきれないものが染みついている」

 ああ。

 この人は、私と同じ世界に生きていたのだ……。

「死の香りだ。どこまでもぷんと匂う。死の香り」

 そう言い残して、星定男は猪去と共に部屋を出た。

 あとに残されたのは二人の警官と芋洗刑事。それと、私の肉体だけだった……。

 ファクターがさらに強く光る。

 過去の事件は終わった。今度の光は現在の事件を導いている。私の身に生じた出来事を、光が読み解いていく。

 ノックの音がまた鳴った。

 次の人物は、芋洗刑事にまっすぐ向かった。

「やあ、君は非番じゃなかったのかい?」

 人の神経を逆なでさせる声。

 出る幕のなかった肌鰆喜一郎が、野次馬になって芋洗刑事をからかった。

「……話させて」

 それはかすれた声だった。かろうじて声が出せたという程度の小さな声でしかなかった。それでも、私の言動に注意していた二人の見張りは気がついた。

「設備の整った施設で、すぐにでも君は話すことになる」芋洗刑事が言った。

 私は首を振る。

 そうではなかった。私が話したいのは、そっちではなかった。

「肌鰆喜一郎と、話させて……」

「ほお!」

 嬉しそうな男と、戸惑う男。

「お前、彼女を知っているのか?」

「知らん。だが女性からのご指名だ。僕の好みからすると少し背が高すぎる気がするが、別に話させてくれても構わぬだろう?」

「構うに決まってるだろ。殺人犯だぞ。この女がいったい何人殺したと思っている?」

「断言するが、君は結局僕に話させる羽目になる。なぜなら僕が握っている君の弱みは、融点さえ超えてしまえばナイアガラ瀑布ほどの量があるのだからね」

「個人の裁量で便宜が図れる事件じゃない。ダメなものはダメだ。場をわきまえろ」

「それなら芋洗君は分をわきまえたまえ。僕の握っているものが君の弱みだけだと思ったら大間違いだ。この国の警察機構など、我が一族がちょちょいと裏に回って操作すれば簡単に吹き飛んでしまうのだ。疑うなら君の名前で戦後最大の不祥事事件を起こしてみせようか?」

「……ったく、勘弁しろよ」

「君はさっさと上の許可を取るのだ。大丈夫。なにか言われようものならすぐに僕が脅迫するとも」

 ぶつくさ言いながら、芋洗刑事が電話を手にする。怒りを交えた丁寧語で、彼は携帯電話に話しかける。

「あ、ちなみに芋洗君。僕と彼女、二人きりにしてくれないと嫌だぞ?」

「お前……、あ、すみません。こちらの話です」

「どーんと大船に乗ったつもりで若い二人に任せてくれよ。なあに、これ以上よくなることはあっても悪くなることはない。さすがの僕といえど、彼女の拘束を外すようなまねはしないとも。それだけは約束しようではないか」

「もっと他に約束すべきことがあるだろ……」

 肌鰆喜一郎が椅子を引く。距離にして私から二メートルほど離れた場所に彼が座る。椅子を反対にし、背もたれに顎を乗せて彼は私をじっと見た。

「……一応許可は取れたぞ」

 ため息と共に芋洗刑事が言った。

「いつもすまないな、芋洗君。兼、これからもすまないな」

「廊下にいる。なにかあったら叫べ」

「分かった」

 芋洗刑事が二人の見張りを外に出す。

 私と肌鰆喜一郎は、互いに顔を見合っている。

 どう切り出すべきか迷っていると、肌鰆喜一郎の口が開いた。

「血は金属的な味がする。口を切ったことのある奴は誰でもその味を知っている。だが僕、いや、僕の一族の血はやけに甘い。それは人生の蜜を知っているものの甘さだ。一人の一生では知り尽くせないほど大量の生き方をしていると、血はどんどん甘く、美味しくなる。僕が祖父の血を初めて飲んだとき、こんなにも甘いものがあるのかと驚いた。。あの衝撃をもう一度得たい。だから僕はたびたび出血して、自分の血の甘さを確かめるのだ。ナイフなんて野蛮な道具は使わずに、献血によって、僕は出血する」

 突然血の話をされたのには驚いたが、いまの肌鰆喜一郎の台詞にはもっと驚かされた。

 私も似た感想を抱いたことがあった。

 私はあるものを口にしたときに、まったく同じ表現でその甘さを絶賛した。

 ……あるもの。それがなんだったかが、思い出せない。

「君、僕の血を飲んだだろう?」

「……血?」

「ふむ。その反応からすると、直接口にしたわけではなさそうだ。僕はそうさせないためにも、普段から気を遣っている。となると、いたる結論はただ一つ。にも同じことがあった。君、僕の傷を治療しなかったか?」

 脳を覆う霞が晴れ、一つの記憶が浮かび上がる。

 あれは最初の日だ。まだ繰り返しを体験していない最初の日だ……。

 諏訪と猪去が話すため、私はお手洗いに行った。戻るとき、私はビリジアンセーターの青年とぶつかった。ぶつかった衝撃で彼のしていたパッチが取れ、献血した痕が露出した。

 私はそこにバンドエイドを貼りつけて……。

「表情が変わったぞ」

 ……あのあとだ。レストランに戻った私は、唯一残っていたデザートを食べた。そのデザートは、だった。

 しかし、最初の日以外のデザートは全て共通して。同じ皿の最後の一品を食べたはずなのに、デザートが美味しかったのは最初の一回だけだった。

 あの変化だけは他の変化とは違う。朝一番の出来事で私が変化させる余地はなかった。

「恐ろしく甘い僕の血だが、食物の悲しさか。空気に触れるうちに風味は次第に落ちてゆく。手作りおにぎりの賞味期限は八時間だそうだが、僕の血も一時間以上経つと一般人の血と変わらなくなる。一時間後には無骨で金属的な味になる。

 さて、ここで問題を出そう。名探偵とはなんなのか?」

 その答えは、肌鰆喜一郎がブックメーカーをしていたときに聞いた。

「ミスをしない人間」

「その通り! おお、なんて物わかりがいいのだ! 芋洗君も君ぐらい物わかりがよければいいのに。ミスをすればそれはもはや名探偵ではない。しかし、ミスをしない人間など存在しない。君は、僕の職業を知っているな?」

「第二十八代目、肌鰆喜一郎……」

「つまり?」

「名探偵……」

 肌鰆喜一郎は満足げに頷く。「僕は名探偵なのだ。いや、僕だけでない。我が一族は代々名探偵なのだ。しかし、これでは困ってしまうな。どうしよう? ここにおいて矛盾が発生してしまった。ミスしない人間などいないのに、この僕が君の前にいるという偉大なる矛盾。例えどれだけ完璧な人間がいても、偶然まで把握することなど誰にもできない。事件は恐ろしいほどにどうでもいい偶然によって左右される。それを全て理解するには、国家レベルの組織力と預言者にも等しい強運が必要だ。どちらも一個人の手には余る。これを解決する手段はなんだ? 名探偵が存在するためには絶対必要な幻想的条件。君なら答えが分かるのではないか?」

「昨夜、あなたを見た」私の主観ではなく、客観的な時間としての昨夜だ。「あなたは、バカラで大勝していた」

「確かに僕はバカラで馬鹿勝ちした。いや、馬鹿勝ちという言葉はこの僕には相応しくない。あれほどの大勝なのだ。これからは利口勝ちとでも呼ぼうではないか」

「何日も前にあなたと会話した。そのときのあなたは、バカラ、クラップス、ルーレット、キノで勝ったと言った」

「ほお、さすが僕だ。なんと絶妙なチョイスだろう。確かに僕はカジノで絶対にそれらのゲームをやる」

「いま上げたゲームには共通点がある。どれも戦略は必要とせず、……」

「というと、我が一族は代々恐るべき運のよさを誇る人間かね?」

 私は首を振る。

「もしも運がいいだけなら、絶対に入っているはずのゲームがある。運だけでプレイできるゲームのうち、当たれば最も高配当のもの。でも、あなたは、そのゲームはやらない」

「そうだ。僕は、だけは絶対にやらないようにしているのだ。なぜなら、から」

「名探偵の正体。どんな事件でさえも絶対に解決できる人物の正体。運だけで勝敗が決するゲームをプレイする理由。それでもスロットマシンだけはやらない理由。それは……」

 こんなこと、誰かから聞かされても私は絶対信じなかった。名探偵が存在するには、それ以上の馬鹿馬鹿しい条件が必要だなんて……。

 でも、私はその台詞を言う。先へ進むためには答え合わせがどうしても必要だったから。

「……あなたの一族が、だから」

「ぶふ、ぶはははは!」肌鰆喜一郎が笑う。右手を大きく広げて自分の顔を覆う。口だけを見せて彼は笑う。「よ、よ、よ、よりによってタイムスリッパーだと! あはははは! なんと馬鹿馬鹿しい結論、なんとくだらない結論だ。名探偵の条件にタイムスリッパーだと。血液を介するのだからてっきり吸血鬼の類いでも出てくるかと思いきや、タイムスリッパー。なんというサイエンスフィクション! ぶはははは!」

 肌鰆喜一郎はつるりと顔を撫でる。

 彼は言った。

「正解だ」

 笑みを解いた肌鰆喜一郎の目。それこそまさに、吸血鬼の目だった。何百年どころか、何千年も何万年も生きた、人ならざるものの瞳だった。

「褒めてつかわそう。どれだけ注意しても、この手の事故は何回も起きた。数十年かに一度は必ず発生した。だが、それでも僕の正体までは気づかれなかった。他人から指摘されたのは初めてだ。そうだ。名探偵に必要なのは知恵でも知識でも行動力でも財力でも組織力でもない。何度でも自分の意思で同じ世界を体験できる、タイムスリップ能力だ」

「あなたの能力は制御できているのね……」

「その台詞は正しいが認識は正しくないな。僕らこそが通常の状態で、君の状態はいわば暴走した状態だ。僕らは自分の血液を飲ませることで、相手に自分の能力を上書きすることができる。自分で自分の血を飲んでも、ただ味覚が広がるだけでなにも変化は起こらないがね。正確には飲ませる必要さえないのだ。相手が甘く感じた瞬間、味覚によって脳が覚醒する。偉大なるご先祖様の実験によれば、一度甘く感じたら、吐き出しても無意味なんだとか。ひとたび甘みを感じた相手は、好きなときにタイムスリップできるし、好きな時間に戻れるようになる。まあ僕らは一度過去に戻ればさっきまでいた愛着ある未来には進めなくなるから、何十年も戻るなんて滅多にしないがね。

 悲しいかな。君の飲んだ僕の血はほんのわずか風味が落ちていたようだ。完璧な状態ではなかった。そのせいで、君は同じ日を何度も繰り返すことになった。僕の皮膚から離れた血液でも、時間を置かずすぐ口にすれば栄光の一族の仲間入りを果たせただろうに」

「……一分も経っていなかったはず」

「一分? 実に長い。暴走するには十分だ。さて、暴走した人間とここまで冷静に話すのは初めてだ。君がどう考えたかを僕は知りたい。君はいま、この世界をどう捉えている?」

「……自由なんて存在しない。自分だけは違うと思っているのに、それでも運命の命ぜられるままに、みなが行動している世界」

「特別な個人など存在しないのだ。唯一の例外、我が一族を除いてはね。我々だけが、特別な個人となり得るのだ。しかし、それだけではまだダメだ。その考えは薄っぺら過ぎるぞ。君はいまの自分をどう捉えている? 繰り返しはなぜ終わったと思う?」

「それは……」

 私は幾つも仮説を立てた。そのどれもに説得力がなかった。諏訪を犯人と勘違いしたときのように、つじつまが合うようでいて、単なる私の願望が分かりやすい答えを求めているだけの気がした。

「条件を満たしたから?」

「大量殺人によってかね? 誰かを殺したことで、未来の運命が変わったと? 死んで当然な人間を殺したことで、君の世界が救われ、新たな一歩を踏み出せたとでも?」

「……違うのね」

「違うな。全然違う。前もってはっきり言ってやろう。のだ! 君の繰り返しはいまもまだ終わっていない」

 私は眉をひそめた。

 せっかく新しい日を迎えたというのに、まだ繰り返しが終わっていない……?

「おっと、不安にさせてしまったようだ。すまない。君の考えていることは完全なる誤解だ。たまには丁寧に説明するか。誇りに思いたまえ、僕が丁寧に説明するなど、ハレー彗星の尾に含まれて息ができなくなるぐらい珍しいことなのだ。よいかね? 翌日も翌々日も、君はもう二度と同じ日を繰り返さない。それは僕が断言する。しかし、問題は繰り返していない君も繰り返している君も同時に存在していたことだ。君は繰り返している最中にこうは思わなかったか? あの前の時間はどこへ行ってしまったのだろう? と」

「消える。私が繰り返しをすると、前の時間は全て……」

「それが違うと言っているのだこの大馬鹿者めが!」肌鰆喜一郎が叫んだ。

「なにかあったのか!」

 ドアが開いて、芋洗刑事が顔を出す。肌鰆喜一郎は振り向きもせず、手だけを振って芋洗刑事を追い出した。

「まったく、あまり大声を出させないで欲しいな。さあ、謝罪をしたまえ。特別に僕に謝罪をする許可を与えよう」

「……」

「大丈夫だとも。僕は相手の心の内さえも読み解くことができる天才だ。いま君は確かに心の中で謝った。僕には分かる。沈黙の謝罪に免じて全てを許す」

 肌鰆喜一郎は自分のセーターの襟を引っ張った。そうして喉に十分な隙間を確保していた。

「ご先祖様の記録によると、暴走はその朝、のだそうだ。君もそうだったか?」

「七時から七時だった……」

「うむ。無知な人間が聞いたら頭の悪い台詞だな。七時から七時かよ。全然変わってないじゃーん!」肌鰆喜一郎は空気相手に裏手で突っ込む。その姿勢のまま硬直する。「……七時から七時一分などではなく、七時から七時。変な表現をすると、7時00分00秒から6時59分60秒という感じだな。きっかり二十四時間なわけだ」何事もなかったかのように話は続く。「完璧超人でもある僕だが、しかしその完璧さはあくまでも見せかけだけのものだ。同じ時間を何度も繰り返すことにより、完璧に思わさせている程度の代物だ。僕は君が思っているほど完璧な人間ではない。ミスだってする。実は、ちょくちょくタイムスリップにも失敗している。失敗する確率は三パーセントぐらいかな。まあ君とは違い、失敗といってもそのときただ発動しないだけだ。タイムスリップに失敗しても任意のタイミングで再度行えるのだから、一秒後にまたタイムスリップをすればよい。実際的な害はない。さて、君が繰り返しから抜け出せた理由だが、それはだ」

「……三パーセントの失敗。それが今日を迎えた私?」

「次の質問へ参ろうじゃないか。三パーセントの失敗がいまの君なら、それでは?」

「ま、まさか……」

 愕然とした。肌鰆喜一郎の言わんとすることは、ここにはない私がいまもなお弄ばれていることを意味していた。

「君の九十七パーセントは、! 意識が一つだからといって、世界が一つとは限らない!」

 ……これは、パラレルワールドだ。

 猪去とパラレルワールドについて話したとき、漠然と感じた不安の正体はこれだったのだ。

「タイムスリップを行うたびに、九十七パーセントの君は二十四時間戻り、三パーセントの君は次の日を迎える。三パーセントの確率で1か0が決定されているわけではない。七時の時点で、九十七パーセントの君と三パーセントの君に分かれるのだ。つまり、いまの君は正確には三パーセントの君でさえない。九十七パーセントをタイムスリップした回数分掛け、最後に三パーセントを掛けた値。それが正確な、いまの君だ」

 ということは。

 ということは……、だ。

 いままで私が繰り返してきた日々。芋洗刑事に逮捕された私、肌鰆喜一郎にトリックを見破られた私、アパートの裏で張り込んでいた私、完全犯罪を達成した私、猪去が殺されて呆然とする私、猪去を殺した私。

 自殺した私。銃殺された私……。

 私の歩んできた全ての時間軸で、タイムスリップから外れた私だって存在したのだ。

 も存在していたのだ。


「僕らは可能性の世界に生きている。朝右足から家を出た自分もいるし、左足から家を出た自分だっている。右足から家を出た自分でさえも、存在しているのはその一人だけではない。一人のようでいて、同じ右足から出た無限大の自分が同時に重なっている。無限大。つまり、百年経とうと一万年経とうと、永遠にタイムスリップが解除できない君だって存在するのだ」

 ……マルタンギャルだ。これはマルタンギャルと同じなのだ。

 資金が無限にありさえすれば、マルタンギャルは必勝法になる。当たるまで延々と賭け続ければいつかは当たる。赤か黒か。そのどちらかに延々と賭けを続けられる。

 ある私は最初の一回目で当たってマルタンギャルを止める。ある私は一回目で外れても二回目で当たってマルタンギャルを止める。ある私は一回目と二回目は外れても三回目でマルタンギャルを止められる。ある私は四回目で、ある私は五回目で……。私は延々と当たるまでマルタンギャルを繰り返せる。

 資金がお金ならばいつかは尽きた。しかし、資金は価値。価値は時間。パラレルワールドは無限に存在し、全てのパラレルワールドの時間は無限に存在する。

 私は無限の資金で永遠の賭けを続けていたのだ。

 しかし、忘れてはいけない。ギャンブルはやり続ければいつかは勝てるゲームではない。ギャンブルの本質とは、やればやるほどゼロに近づくこと。資金が無限大といえど、その本質は変わらない。

 いつかは当たると同時に、外れ続けている私だって存在している……。

「とすると、……タイムスリップをずっと失敗し続ける肌鰆喜一郎だって存在してる?」

「よい質問だ。その通りだ。そもそも我が一族のタイムスリップとは、肉体が消えて過去へ飛ぶ現象ではない。意識だけが戻る現象なのだ。では、残された肉体にはなにが入っているのか? そこにいるのは、三パーセントの自分だ。つまり、タイムスリップに失敗した自分だ。

 例えば、僕が監禁されたとする。監禁された僕の目の前には十秒後に爆発する時限爆弾がある。タイムスリップには大体一秒ほどの時間が必要だ。僕は慌てて過去へ戻ろうとする。一秒後、九十七パーセントの僕はタイムスリップに成功しているが、三パーセントの僕はタイムスリップに失敗している。二秒後、失敗した僕のうち新たな九十七パーセントはこの時点でタイムスリップに成功しているが、三パーセントは相変わらず失敗してそこにいる。三秒後、九十七パーセントの僕は成功しているが、三パーセントの僕は失敗している。四秒後……、五秒後……。そして十秒後。三パーセントの九乗の僕は、タイムスリップに失敗して、結局そこで死んでしまう。これが我が一族にとっての真の死だ」

「自分が成功する側に回るか、失敗する側に回るかは、なってみないと分からない……」

「そうなのだ。とはいえ、最後のチャンスがないわけでもない。我が一族は条件づきタイムスリップさえも可能としている。僕らは死ぬと自動的に数年前に戻るように条件づけしている。即死でさえも、我が一族は免れられる。もっとも、その最後のチャンスに失敗した三パーセントは完全に死んでしまうがね」

「でも、私が見たあなたはカジノでずっと勝ち続けていた」

「そりゃあほとんどの僕は勝つとも。九十七パーセントを何度でも繰り返せるのだ。負ける僕も確かにいるが、それを目にするのはレア中のレアだ。何万回と繰り返しても見れるかどうか分からないぐらいレアなのだ」

 名門肌鰆家は、そうやっていままで事件を解いてきたのだ。何度も繰り返せるのなら、湖に沈む物証だって一人で見つけられる。

 いや、それどころか、私が沈めるところをその目で見ることさえ可能なのだ。

 これが、名探偵の正体か。ミスをしない人間が存在する理由か。

「どうして名探偵を? それだけの特殊な能力。なんにだって活かせるのに。名探偵になる理由なんてないのに……」

「それは逆にして答えよう。名探偵にならない理由だってないではないか! 無限に生きる僕らが、最も愛して止まないのは娯楽だ。応用が利き、シンプルで、何度解いても面白い究極のパズル。僕らはいつだって娯楽を求めている。数独やましゅでは物足りないのだ。最初の百問ぐらいは解いても面白いが、解き方が確立できるともうダメだ。

 将棋もやった。囲碁もやった。だがなによりも優れた娯楽は、生死のかかっている謎解きだった。人によって作られる謎は全然違う。ゴールが違うし、運命が違う。そのくせ解かれたくないという想いは同じ。事件こそ、僕らにとっては究極の娯楽だったのだ」

 肌鰆一族にとって、全ての人間は娯楽の対象なのだ。

 芋洗刑事もそうだし、私自身だってそうだった。私たちはみな彼らの娯楽の一部だった。

 彼らは何度も同じ時間を繰り返し、その中で自分にとって一番面白くなる展開を選ぶ。

「十五年前、星定男になにをしたの?」

「星定男? ほし、さだお……? すまんが誰だったかなそれは。僕は男の名前はなかなか覚えられないのだ」

「私の家族を殺した人よ」

 そして、私の殺した相手だ。

「ああ、彼のことか。ホなんとか君なら、僕の顔見知りの花屋のお兄さんだ」

 同じ言葉を、私は彼から一度聞いている。

「……

「それを知っているとは、驚きだな。いつかの僕が教えたのか。ホなんとか君は親切にも僕が怪我をしてしまった幼少期、可愛げのある僕を治療してくれたのだ」

「やっぱり、そうだったのね……」

「彼には悪いことをした。ただ怪我の治療をしただけではなんにも起こらないのだが、おそらく歯垢を爪で削ったり、ほじった鼻くそを食べたりしたのだ。あのとき、僕はホなんとか君に怪我の治療をさせないためにタイムスリップしかけたのだが、何度か失敗して面倒くさくて諦めてしまった。あの頃はまだよく失敗したなあ。懐かしい。失敗したまま放置すると、いまのこの世界につながるわけだ。ふむ。これはまた面白い必然だ」

 殺人犯と名探偵。立場は違えど、私と肌鰆喜一郎は同じことをやっていた。私は誰にも解かれない謎を作り、肌鰆喜一郎は誰も解けない謎を解く。タイムスリップという手段を用いて。

 そこまで考えたとき、突如、別のファクターが光り出した。

 新しく照らされた道は、いままで聞いた真相よりも、酷くおぞましい内容だった。

 でも私は、それを口にせずにはいられない。

「……もし、私が誰も殺していなかったら、あなたはどうしてた?」

「む……」肌鰆喜一郎は初めて歯切れを悪くする。饒舌な名探偵の口が止まる。

 喋らない相手には、自分から話しかけるしかない。

 私は全てを知っている。相手にそう思わせて、自白を導く。

「私が事件を起こしていないとき、必ず死ぬ人が一人いた」

「だろうな」肌鰆喜一郎は簡単に言った。その小さな頷きが、私の思考の正しさを裏づけていた。

「あなただったのね」

「最初に言っておくが、いまさらその件で僕をどうこうしようとしても無駄だぞ。二十四時間を終えてしまった君は、もう過去には戻れない。それにこの世界では事件が始まってすらないからな。被害者どころか加害者さえもいないのだ」

 被害者がいないだって?

 そんなことはない……。私にとって被害者はいる。私だって被害者だ。星定男だって被害者だ。

 しかし、それ以上に……

「猪去さんだって被害者よ」

「ここではないどこかではそうかもしれないがね。彼はいま生きているし、今後も彼を傷つけることはない。その必要はなくなったのだ」

「それでも、猪去さんを殺した!」

 私と被害者しかいない場所の殺人事件。私は混乱して自分の手を汚しているのだとさえ思った。

 しかし、現実は違った。

 何度でもタイムスリップをして事件を解決できるなら、何度でもタイムスリップをして目撃者を避け、解決できない事件だって作れる。

 私自身が星定男を殺害するときにしていたように!

「あなたはいつから部屋にいたの?」

 肌鰆喜一郎は頭を掻く。「……僕にはその記憶はないのだがなあ。しかし、そのときの僕の気持ちになってみるか。ふむふむ。おそらく答えはこうだ。僕は最初からずっといた」

「それは無理よ。だって、猪去さんの部屋へ行くには、エレベーターの鍵が必要で……」

「あの僕が調査報告をするときに使った、警備室にかかっている鍵だろう? 誰にも見つからずに殺人を犯すことに比べれば、誰にも見つからず鍵を盗む方が簡単ではないか?」

 これが真相か。真相はあらかじめ猪去の部屋に忍び込んでおき、隙を見て殺害するだけだったのか。

 言ってみればこれは後出しジャンケンだ。それを可能にしたのは、最上階フロアの構造だった。

 田の字型。

 私がどれだけ犯人を捜しても、田の字型の構造のせいで、死角となる部屋は必ずできた。肌鰆喜一郎は、ただ私に見つからないよう移動を繰り返せばよいだけだった。

 仮に見つかったとしても、その瞬間にタイムスリップをして過去へ戻ればいい。ときには移動し、ときには隠れてやりすごし、ときには仕事に夢中の猪去に気がつかれないよう、忍び足で仕事部屋を抜ける。どうあがいても見つかってしまうときは、大きくタイムスリップをして、その日は殺人を犯さなければいい。

 こうして肌鰆喜一郎は常に私と猪去の視界から逃れ続けた。隠し部屋など使われていなかった。それを示す証拠があの明かりだ。人が通ると自動的に点灯する明かり。私が通るときに点灯したのは、長い時間、隠し部屋を使った人がいなかったからに他ならない。

 私は星定男を無事殺害したトリックの、反対の立場にいただけだった。自分だけが時間を戻れるのだと、愚かにも思い込んでいた。自分と同じ立場の殺人犯がもう一人いるなんて考えもしなかった。

 私が起こした事件と、私が巻き込まれた事件。同じ日に、二つの殺人事件があった。私はその時点で気がつくべきだったのだ。猪去が死ぬことに捕らわれすぎていた。被害者が二人現れたところではなく、殺人事件が二つ起こった方にもっと注目すべきだった。

 そこまで考えが至れば、肌鰆喜一郎の怪しさにも気がつけた。彼の勝っているゲームに注目し、彼は私と同じ現象を自由に起こせるのだと気づけたはずだ。

 二つの似た事件があり、二人の似た特徴の人物がいる。

 星定男殺人事件と、猪去忠義殺人事件。

 天田夜と肌鰆喜一郎。

 あとは事件と犯人を線で結ぶだけだったのに。

 私だけが、事件を解決できたのに……。

「どうして猪去さんは殺されなくちゃいけなかったの。あなたはいったい、なにをされたの?」

「動機の問題か。そんなものはくだらんが、いいだろう。別に聞かれたところで僕の身の安全は保証されているわけだしな。ふふふん。これではいつもと逆だな。動機の告白は逮捕の決まった犯人が留置所に連れて行かれる前にべらべらと喋りまくるものと決まっているのだが、まさかこの僕が留置所に行く犯人に向かってべらべら喋りまくる羽目になるとはな。これは祖父にも父にもよい土産話ができたものだ」

 肌鰆喜一郎は饒舌に戻っている。

「ときに、君はラスベガスを知っているな。まあ知らない人間がここで働いていたら驚きだが。しかし、カジノができる前のラスベガスはどんな街だったかまでは知っているかね? おお、なんと露骨に無知な表情。別に知らないことが罪ではない。僕はただ相手に語りかける口調で小馬鹿にしたいだけなのだ。

 行ったことのない人は知らないだろうが、行った人でも案外知らない。ラスベガスという街は、あれは元々ただのオアシスだったのだ。あの街は砂漠のど真ん中にある。ネームバリューのなかった頃は、どうしてカジノのためにわざわざこんなとこまで行かなくてはならないんだと思わせるほど、ラスベガスはアクセスの悪い場所だった。

 しかし、結果から見ればラスベガスは繁盛した。あんなにも行きづらい場所なのに、みながカジノを求めてラスベガスに行くようになった。

 どうしてそうなったか? 原因は一人の男だった。

 彼の名はバグジー。彼の目的はギャンブルが合法化されたネバダ州ラスベガスにカジノを建てることだった。彼は実業家ではない。血も凍るゴシップの世界の住人だ。バグジーは超切れやすいギャングだった。

 実際にはバグジーは結構小心者だったらしいがね。それでもおもしろおかしく飾り立てるのがゴシップ誌の記者の役目だ。見事カジノホテルを建てたバグジーはゴシップ記事に好き放題料理され、アメリカ中の注目を浴びた。

 ギャングスターとなった彼には、ギャングらしい欠点もあった。闇の住人を彩るもの。それは金遣いの荒い彼女だ。バグジーは組織の命令でカジノを建てた。彼はカジノの金を得つつも、その上もっと多額の金を遠くの本部に要求した。組織はバグジーに切れ、彼女もろとも銃でぶっ殺した!

 そのスキャンダルをゴシップ記事がさらにおもしろおかしく料理する。

 こうして、市民の間でラスベガスは特別な価値を持つ街となったのだ」

「それが……動機?」

「その通りだ! よいかね? このサイキ・グランド・ホテルはなかなか上手くやっている。しかし、世界的に見ればいまさらアジアのへんぴな地域にカジノが一つできようと、観光客にとってはなんの魅力にもならないのだ。カジノで誘致するには遅すぎた。土浦が繁盛しているように見えるのはいまだけなのだ。十年も経つとあっという間にここは寂れ、元のなにもない都市へと戻る。これは予言ではない。僕がこの目で見た事実だよ。

 サイキ・グランド・ホテル総支配人のイなんとか君だが、彼自身は相当にまともな人間なのに、周囲にあるのは常に黒い噂だ」

「それは、あの二十億円の消失事件のこと?」

「そんなものは氷山の一角に過ぎない。よいかね。愚民とは、並外れた善人を見ると、なにか悪いことをしているはずと期待してしまう生き物なのだ。なぜなら彼らは馬鹿だから。馬鹿だから影指定が一つ抜けていただけで、メイちゃんはすでに死んでいるなどと前後の流れを無視した結論を信じ込もうと必死になる。犯人の分からないミステリー小説は、全て一番の善人が巻き起こしたことにする。そう信じることで善と悪のバランスが取れるような気がするのだ。彼らは桁外れの悪人は罵倒できるので信じるが、桁外れの善人は自分が矮小に思えてしまうから信じたくないのだ。

 現にイなんとか君の周りでは死後たくさんの黒い噂が飛び交うぞ。二十億円消失事件しかり、カジノ促進運動しかり、ディーラー養成専門学校設立に伴う反対地域住民の死亡事件しかり。ちなみに、この死亡事件の真相は、ごくごく普通のつまらない病死だ。別に僕が殺したわけではない。本当だぞ」

 肌鰆喜一郎にとっては、わざわざ強調する意味がある話なのだろう。少なくとも猪去を殺した人間なら、それ以外の人間を殺していてもなんらおかしくないなと私は思った。

「死ぬことによって人の評価は定まるものだ。僕の友人に、死んだ作者の小説しか読まない奴がいるがね。イなんとか君は死ぬことによってブラックな方面に評価が固定する。そしてそのブラックな評価は、海外で力を発揮する。イなんとか君無意味な一個人が死ぬことによって、土浦は繁盛してしまうのだ。イなんとか君は第二のバグジーとなり、土浦は第二のラスベガスとなる!」

「あなたは、カジノを繁盛させるために猪去さんを殺した」

「殺してないが、その通りだ!」

「でも、なぜあなたはカジノを繁盛させる必要があるの?」

 肌鰆喜一郎はきょとんと目を丸くした。

「……それぐらいは分かると思っていたが。金のためだよ。総支配人が死ぬことで、土浦はカジノ都市として発展するのだからね」

「土浦に限らず、既存のカジノ都市でもよいはずでしょう? なぜ、そこまでして土浦を発展させる必要があるの?」

「ラスベガスまで行くのがめんどい……」

「……え?」

「不安げな声を出すな。いまのは冗談だ。ただカジノに行きたいだけなら、わざわざラスベガスまで行かずとも、シンガポールでも韓国でもよいからな」

「で、本当の動機はなんなの?」

「だから金だとも。そこは冗談ではないというのに。ふーむ。君は土浦以外のカジノ都市は全然知らないようだな。よいかね? いまのカジノのトレンドはデジタルカジノなのだ。オンラインカジノはもとより、カジノホテルさえも、デジタルのルーレットやポーカーを置いているのだ。現時点では、実際にディーラーがルーレットを回し、その映像を中継しているだけの作りだが、数年後には全てがプログラムだけで行われるようになる」

「でも、カジノホテルに直接来るような人はデジタルでは満足しないと……」そう春子は言っていた。

「いまはな。しかし、価値観は変わるのだ。最初は黄金にしか価値を見いだせなかった日本国民も、兌換紙幣を経て、不換紙幣に価値を見いだすようになった。プログラム上のカジノでも、不正がないと分かれば人々は安心して楽しむようになる。そもそもホテル側からすれば、デジタルの方が費用が少なくて済む。場所だって取らず、いまより多数の客を呼べる。ホテルは客が全員デジタルに慣れるのをいまかいまかと待っている。

 ところで、君はテレビゲームはするかね?」

「……スマートフォン用のゲームアプリなら」

「それでどのぐらい理解できるかは疑問だが、まあ相手の聞く能力に期待せず喋りまくるのは名探偵に必要不可欠な素質の一つだ。

 テレビゲームのコアなプレイヤーは乱数を頭に置いてプレイする。乱数はゲームのランダム性に関わる要素だ。この乱数のおかげで、ボタン入力が数フレームずれただけなのに、敵に与えるダメージがまったく別の数値になったりするわけだ。

 さて、デジタルカジノの話に戻ろう。デジタルカジノもまたボタン入力のタイミングがずれると、結果は全然別になる。つまり、デジタルポーカーや、デジタルルーレットは、僕にとってはスロットマシンと同じなのだ」

「……再現性がない」

「ゲーマーっぽくてその台詞はよろしいぞ。実に的確な表現だ。カジノが全てデジタルになれば、僕はいままでのような、自由にカジノに勝ち放題というわけにはいかなくなる。ゲームの乱数程度なら手間暇かければ再現することも可能だが、カジノではいっさい再現できないようになる。金はかかるが、そういう乱数も存在するのだ。このタイミングでボタンを押せば絶対赤にボールが落ちるとプレイヤーに解析されてしまえば、カジノは丸損になるからな。ちなみに古いパチンコの機種は再現性があって、イヤホンから聞こえる音のタイミングで操作する連中がいたぞ」

「サイキ・グランド・ホテルは昔ながらのカジノを目指していた……」

「あえてデジタルに向かう世界の流れに、このホテルは逆らっている。そりゃあどれだけ対策をしようとも潰れてしまうという話だ。一つの企業が頑張ったところで、社会の運命など到底変えられないからな。

 大きなスキャンダルによって、このホテルの地位を盤石なものにする。僕がやろうとしていたのはそれだった。しかし、結果的には君が大きなスキャンダルを起こしてくれたおかげで、僕はなにもせずに済んだのだ」

 そうだったのか……。

 猪去を守る。一度は掲げたこの目標を、私は知らず達成できていたのだ。

「競馬は大量に賭ければ率が変わって儲からない。宝くじは当選発表までの些細な行動で数値が変わってしまうから当たらない。パチンコはタイムスリップじゃどうこうできないほど勝てない設定がされている。結局、僕が儲けるためにはカジノが一番なのだ。ブックメーカーなら絶対に当てられるし、短くタイムスリップすれば、ルーレットの球が指から離れ、止まるまでの間に賭ける箇所を変更できる。カジノがあれば、僕は常に資金に困らずに済み、取るに足らない仕事を受ける必要なんてなくなる。可能性がより広がるのだ」

「あなたは、難儀な人なのね」

「よく言われる。だが、それも仕方あるまい。君なら分かるだろう? このような力を持ってしまった以上、我が一族はどうしても全ての人民の上に立つのだ。力とは、振る舞う場所を持っていてこその力だからな」

「あなたたちは特別なのね」

「今度は褒めるのかい?」

のに……」

 肌鰆喜一郎は私の顔をじっと見た。口を閉ざし、表情は静かだった。彼は作り上げた人格を捨て、私をただ無個性に見ていた。

 タイムスリップができる人は、みな虚無に陥るのだ。

 私も彼をじっと見る。肌鰆喜一郎の瞳に映る私もまた、虚無に泳ぐ魚でしかない。

 これから先、永遠に私は虚無を泳ぐ。死んだところでもはや私は救われない。むしろ死ぬことにより、かえって虚無は強まるだろう。

 個人がどれだけ偉大なアイディアを提案しようと、代用がきかないわけではない。なぜなら、大切なのは個人ではなく社会の流れだから。人は社会の下に漂うものの表面を、かすめ取っているに過ぎないのだから。

「……なかなか貴重な対面だった」肌鰆喜一郎は言った。「まったく。謎を解決したわけでもないのに、こんなに疲れさせられるとはな。しかし、これだって名探偵の定めだ。名探偵の回りには自ずと事件が集まるものだが、今回に限り本当に僕が事件を起こさせたようなものだから、この程度の責務は我慢しようではないか。

 そろそろ時間的にもちょうどよい。実はカジノを閉ざされて暇になってしまったので、部屋でのんびりを楽しむつもりだったのだ。しかし、さすがに忙しいらしく、電話してもルームサービスが捕まらなかった。

 もう僕は部屋に戻ってワインを飲むぞ。君が二度と飲めないような、超高級ワインをね」

「そうね……」

「君はいささか殺しすぎた。二度と娑婆には出られまい」

「でしょうね……」

 この時間軸だけでも私は何人も殺した。全ての時間軸を合わせれば私はさらにたくさんの人間を殺した。

 この手は芯まで汚れている。

 しかし、私が殺しているように、肌鰆喜一郎だってたくさんの人を殺したのだ。何人も何人も、自分の目的のために殺してきた。運命を壊し、人生を壊し、生命を壊した。

 私が娑婆に出られないのなら、肌鰆喜一郎だって娑婆に出してはいけないはずだ。

 彼もまた、牢獄に閉じ込めるべきだ。

「もう二度と会うこともあるまい」

 肌鰆喜一郎が立ち上がる。彼は振り向かずにまっすぐ歩く。扉を開き、廊下で待機していた芋洗刑事と会話する。見張りの警官の足音がする。

 私には警官がやって来る前に、しなくてはならないことがある。

 手錠ががちゃりと音を立てる。拘束されていても、指を動かすぐらいはできる。

 私は親指の皮を、爪で剥いだ。

 瞬間、鈍い痛みが走る。力を込めると、指の先から血液が滲んだ。

 傷ついた指を慎重に動かして袖を撫でる。袖に赤いマークができる。

 これは目印だ。

 私と彼にだけ分かる、小さな復讐ののろしだ。

 移送の準備ができたと、芋洗刑事が顔を出す。二人の警官がおそるおそる私の拘束を緩める。両方から腕をつかまれて、私はそっと立ち上がる。

 拳を閉じる。親指から血が滲んでいるのを、周囲にはバレないようにする。

 廊下は人払いがされていた。私たちは従業員用の通路を渡り、人目から逃れるようにエレベーターに乗った。狭い箱の中で、私と芋洗刑事と二人の見張りの呼吸が重なった。

 エレベーターの扉が開く。直接ホテルにつながった駐車場。マスメディアがホテルの敷地外でなにやらがなり立てている。エレベーターの前には一台の車が停まっている。

 ここだ。

 このタイミングだ。

 私は願う。一人の人間の出現を願う。

 特別な個人はどうあがいても特別な一人にはなれない。

 しかし、人が社会の流れの表面をかすめ取るというのなら、社会の流れが一人の人間を選んでいるとも言えるのではないか?

 私個人の意思ではなく、社会全体の流れがあれば、ここで一人の人間ぐらい現れたってよいはずだ。

 社会が肌鰆喜一郎を有罪だと認めるならば、

 必ず誰かが現れる。

 車のドアが開く。芋洗刑事が助手席に座る。

 二人の警官が私をせっつく。背中を押され、私は歩く。

 ――柱から一人の男が姿を現す。

 男は、私の運命の人だった。私の運命をぶち壊した人で、そしてまた一人の人間の運命をぶち壊す男だった。

!」

 私はあの人ではない名前を叫ぶ。一度も会ったことのない従業員の名前を叫ぶ。肌鰆喜一郎が断固としてを注文しなくなる原因を作った、ある女性従業員の名前を叫ぶ。

 私はあの人に向かって腕を振る。あの人は私を見てくれる。その知性の伴った瞳が、私の腕ではなく、袖を見る。

 綺麗だった服が、いまは袖だけ赤く染まっている。

 あの人は肌鰆家の血にまつわる話を知らない。それでも感づいてはいた。肌鰆喜一郎が怪しいと、直感だけで気がついていた。

 私はぎゅっと力を込めた。拳の血管が圧迫され、親指の傷口が広がった。肌が赤くなり、黄色くなって、そして最後に白くなる。

 全ての力を込めて、私は自分の肉体から一滴の血液を絞り出す。

 ぽたりと、小さな音が鳴る。

 それは私とあの人にだけ届く小さな音……。

 一滴の血液が地面に広がる。血液はアメーバのように広がって、コンクリートにべっちゃりと付着した。もはやこの染みは水で濡れても落とせない。洗剤で洗っても落とせない。

 黒い血液がコンクリートを一箇所、染め上げる。

 私は車に乗った。

 助手席の芋洗刑事が私を見た。

「もう十分か?」

「……はい」

 車が動く。明るく輝く太陽の明かりが、駐車場の先を照らしていた。地面に群れるのは、人工的なフラッシュライト。二つの明かりによって、私は影までなくなった。

 バックミラーがホテルの駐車場を映す。

 あの人が屈んでいる。その指先は血液の染みが広がったコンクリートに触れている。

 ディーラーのあの人は、ルームサービスを担当している窪田なる女性従業員なんて知らないかもしれない。

 それでも、あの人はここに来た。いる必要のない駐車場に来てくれた。

 ならば、あの人は窪田と出会える。

 窪田はワインを持っていく。

 肌鰆喜一郎の部屋に持っていくワインは口が開いている。

 あの人は私の血液に浸された自分の指をワインに入れる。

 ワインの口が開いていても、肌鰆喜一郎は一口確かめずにはいられない。

 そのとき感じるのは、嫌らしくなく、それでいてすっきりとしていて、後味もよい。この世にこれほどの甘さがあるとは信じられないほど極上の甘さ。

 味覚を感じた時点でもう遅く、

 あの人のタイムスリップ能力は、私の血で上書きされる。

 あの人の血を再度上書きできる父親と祖父はマッターホルンにいて、二十四時間以内には出会えない。

 これが私の思い描いた全てだ。

 肌鰆喜一郎を二十四時間という牢獄に閉じ込めるための手段だ。


「ハンカチをくれませんか?」

 車が順調に走り初めて私は言う。

 隣の警官が私を見た。

 私は傷ついた親指を見せた。

「もうこれ以上犠牲者を出したくないんですよ」

 警官は黙ってハンカチを投げた。

 膝に乗っかったその小さな布きれで、私は厳重に指を巻く。

 霞ヶ浦の姿が消える。

 土浦が遠ざかる。

 何日も過ごした土浦を、こうして私はあとにする。

 私は働くためにこの土浦に来たのではない。

 あの人を殺すために来たのでもない。

 私は、最初から復讐を果たすために土浦に来た。


 復讐は、果たされたのだ――。

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報われなくって死っねない moge @moge

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