ユメノナルキ
磯崎愛
第1話
かつて、バクはユメノナルキの下でくらしていたそうだ。
あの日、わたしはつれあいのバクを探して外に出た。
いつも一緒に寝ていたのに、目がさめると姿がない。パイプベッドのよれたシーツの上にバクの温もりはわずかに残されていて、じきに戻るかと二度寝を決めこむつもりが、奇妙に心臓が高鳴った。
とるものとりあえず探しに出てから、一年が経つ。
バクは正真正銘の貘で、夢使いのわたしのつれあいだ。
夢は東の果てからやってきて、その類い稀な香音でひとびとの心をかきならす。わたしは客の夢を聞き、その夢を客の望む香音になるよう爪弾いて返し、代価をもらう。そうして変奏された悪夢はバクの糧となった。
ものごころつく前は、バクがわたしの面倒をみてくれたらしい。わたしたちは長らく、うまくやっていたはずだった。
バクの居場所はかいもく見当つかなかった。
毎夜うなされて壁をける左隣の高利貸しはもちろん、バクと住むことをしぶしぶ許した大家、彼氏とうまくいかない時だけやってくる女学生まで、バクの姿を見なかったと口をそろえて言ったものだ。
歩きつかれて茜色に染まる西の彼方に目をむけたとき、ずっと昔、バクがどこからきたか語ったことを思い出したのだ。
指笛をふくと、紺青の翼を羽ばたかせて鳥船がおりてきた。
はじめ、鳥船はわたしを乗せることを楽しんだけれど、しまいには西の果てにいきたいと言いだした。
わたしは自慢の髪をほどいて一筋とり、爪を切って、それを鳥船の尾に結んでやった。わたしの爪は鳥船が風を切るたびにえもいわれぬ好い音を奏で、わたしの髪は夢が落ちてくるたびにそれを震わせて馨しい匂いをふりまいた。
気をよくした鳥船は東の果ての高みをめざし、ひゅういひゅういと昇っていった。昇れば昇るほど、飛べば飛ぶほどに夢はかぐわしく光りあふれ、音鳴らし、眩しさのなかを無数の泡のようにおりてきた。
とうとうわたしはユメノナルキの下にたつことができた。
それは視界をおおう大樹で、色鮮やかな夢を枝にたわわに鳴らしていた。夢は香音にこたえるようにして枝を離れて視界へとおりていく。
ふと、不安になる。
見わたしても、ここには悪い夢はひとつもない。
悪夢のないところで、わたしのバクは生きていられるのだろうか。
爪先立って、夢のひとつに手をのばしてたしかめようとしたところ。
「夢使い、それは汝が夢の在処だ」
突然の声に飛びあがり、あわてて手をひっこめて振り返る。
夢秤王だ。
王はまたの名を視界王といって、その名にふさわしい黄金の冠をかぶり、手には古めかしい夢秤をもっていた。
視界の始まりのときから東の果ての高みにおわすその方は、眩しいくらい光り満ちあふれるこの場で、すべての闇を集めたような漆黒をまとっていた。
夢使いは、王が夢秤で定めた香音を少しだけ狂わせるのが仕事だ。夢に託された音色を聞いて、よって分けたり捨てたり合わせたりする。
言うなれば、王の仕事をちょっとだけ盗むようなものだ。わたしはほんのすこしだけ萎縮した。
王の瞳は噂どおりひとつしかなかった。その暗い、光を反射しない闇の深淵のような隻眼が、こちらをじっと見つめている。
「バクを探しにきたのではないのか」
王の問いかけにびっくりして息をとめた。
なぜ、知っているのだろう。
身動きもできないわたしに、王はしずかに言って聞かせた。
「バクはかつてヨの妃だった。今は夢食王として誓におる。夢のみが、落ちていきつくところだ。光のおりていきつくことのできぬ誓に、妃は堕ちていってしまったのだ」
では、ここにはわたしのバクはいないのだ。
どうしようもない切なさがおそってきてうなだれる。
王はかまわずに言葉をついだ。
「妃は禁断の実を食み、悪時機となってしまった。悪い夢はそれを食べずには生きていられない妃を思い、ヨが視界に落としていたのだが、それももうお終いだ」
おしまい、とくりかえしたわたしに王が近づいてきた。
恐ろしいことがおきるような気がして一歩しりぞいたとたん、ひときわ高く香音が弾け、わたしはみるみるその音に吸い込まれてしまった。
王は夢秤にわたしを乗せて満足そうに微笑んだ。
そして、口笛で呼び寄せた鳥船の背に傾いだ秤ごとくくりつける。王は鳥船の青い羽を労わるように撫でた。
「西の果ての誓にお行き。我が子がやってきた祝いの言葉を告げるのだ。ヨは約束の地に行くことがかなわぬが、妃の食べた《夢の成る気》はこうしてみごとに育ち、光とどかぬ誓に美しい音をはることだろう」
視界王はそう言って、秤のもう片方に失われた真白き瞳をのせてくれた。
秤は見えるものと見えないもの、見るものと見ないもので平衡をたもち、鳥船に運ばれて西の果てに辿りつくことだろう。
そこで、わたしは夢にも知らない母と会う――
終
ユメノナルキ 磯崎愛 @karakusaginga
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