60 絶望の咢

「各市境には、竜探知のための《結界》が張られてます。翼の先でも引っかかれば、すぐさま駐留している竜鱗騎士に連絡が行くはず。特に強固な結界で覆われている天海てんかい市に、竜が侵入するなんて……!」


 竜が咆哮ほうこうする。

 足下から突き抜ける大音響が空へと抜けていく。

 体の上に乗っていた瓦礫がつぶてのようにはじけ、爆風とともに路地を駆け抜ける。

 砕けた石畳は銃弾のように街灯を射抜き、あたりは暗闇に包まれた。

 翼のはためきは暴風を起こし、突風を叩きつけてくる。

 体が浮かび上がり、数メートル飛んで、背中から不格好に路地に着地した。


「うぐっ」


 これほど、受け身を勉強しておけばよかったと思ったことはない。

 腰にげていた硝子瓶がらすびんが砕け、水が散った。

 いくつか破片が体に刺さった気がする。

 竜はうなりを上げている。

 凄まじい質量、凄まじい迫力だ。


「イネス……大丈夫……?」


 体を起こすと、そこには転がったバイクがあるだけで、イネス・ハルマンの姿は無い。

 変なところに吹っ飛ばされたのだろうか。

 それとも、嫌な想像だけど……逃げた、とかいう可能性もある。それでなくとも彼の頭は、かつての上司の心配で占められているはず。僕を置いて親しい人の助けに向かうのは……腹立たしいが、仕方がないことだ。

 吠え猛る竜は巨体を揺らしながら、地面を踏みしめている。

 なんだかおかしな竜だった。

 思わせぶりに地面の下から現れたと思いきや、まるでここにいるのが自分の意志ではないみたいに、まるで戸惑っているみたいに、爬虫類に似た首を左右に振っている。


銀麗竜ぎんれいりゅう……? いや、まさかな」


 その体を覆うのはなめらかな銀の鱗だ。

 流石に、異常を察知したのだろう。両側の窓の向こうで、住人たちが騒ぎ始めた。

 うち一つの窓を開けて、男性が顔を出した。

 その表情が、竜を目にして強張る。


「だめだ! 中に戻れっ!!」


 言い終るか終わらないかのうちに。


 ぐらるるるっ。


 竜が長い尾を振り回した。

 鱗に覆われた竜の尾は、建物の壁を破壊し砕き、崩壊させる。

 砂埃が去ると、さっき窓があったところは瓦礫の山となり、住人の姿も見えなくなっていた。

 標的を失った竜は、僕の方に瞳を向けた。

 薄氷はくひょうのような、薄青い瞳は僕の全身をさ迷って――気のせいか、腰のものに目を止めた気がする。オルドルの金色の杖に。

 逃げなくては。道の先は竜にふさがれている。


 さあ……後ろを振り返り、地面を蹴って駆けだすんだ。


 そう思うが、できない。

 竜の鋭い眼光に射すくめられ、気持ちはどうであれ、足が動かない。まるで金縛りみたいだ。恐怖のせいだろうか。

 オルドルが語りかけてくる。路地にしみこんで、消えかけている水から、小さな声で。


『逃げちゃダメだよ。へたに距離をとって、息吹を吐かれたらキミは確実に死ぬよ』

「じゃあ、魔法を使ってくれ!」

『キミにはムリだ』


 僕は杖を握りしめる。

 でも、おかしい。

 集中しても、青海文書の語り声が聞こえてこないのだ。

 オルドルが溜息を吐いた。


『わからない? ボクとこうして、水を媒介ばいかいにして話しているとき――キミはボクから遠いところにいる。自分とは会話できないからだ』


 オルドルの言わんとするところはわかる。

 この世界で、自分とだけは、会話することができない。

 青海文書は登場人物と共感することで魔法を使うが、今の僕はオルドルと、全くの他人みたいなものだ。

 なぜなら、僕は圧倒的な力を持つ竜に、心の底から恐怖しているからだ。

 オルドルの抱える怒りや、憎悪を、あの竜に対して持つことができないんだ。


『……ボクにキミの体を渡せ』

「なに……?」

『屋上のときみたいに、キミのかわりにボクが戦う』


 竜がゆっくりと歩きだす。あまりの重量に、地面が砕ける。

 四足で移動するのは大変そうだが、一度翼をはためかせると、重たい図体が軽く浮かび上がった。そしてすべるように移動してくる。


「くそっ」


 僕は足をもつれさせながら、走り、最後は吹き飛ばされながら地面を転がって、避ける。

 あっというまに数十メートルの距離を詰めてきた竜は、頑丈そうなあぎとで街頭にかみつき――ガムみたいに引き裂いて、それを吐き捨てた。

 風に吹かれた空き缶みたいに、ガラガラと転がって行く街灯。

 この状況全部がたちの悪い悪夢みたいだ。


「くそっ……」地面にこすれた掌から血がにじんでいた。


『選択の時が来たんだ、ツバキ』


 オルドルに体を明け渡す……。


 屋上で戦ったときみたいに。

 八つ裂きにされたウファーリの画(え)が、頭によぎる。

 こぼれる血のにおい、あのどうしようもない感触。あれがまぼろしでなかったら、僕は人を殺していた。


『ボクに体を預けろ、キミに竜は倒せない』


 オルドルの声はどんどん小さくなっている。こぼれた水が、土に吸い込まれていっているからだ。会話できるのもあと少しだろう。

 一刻の猶予ゆうよもない。

 でも。


「…………いや、だ………」


 恐怖を押さえて、声を振りルビを入力…る。


『なんだって……?』

「それだけは、できない」


 僕は目をぎゅっと閉じる。

 竜の姿を見れば、恐れから別の決断を下してしまう。

 僕の指が金杖から離れる。


『ハ! 最低だ。理由がどうあれ、自分で自分を諦めるなんて……そんな奴、ボクは大っキライだね……』


 声が聞こえなくなる。

 竜は目の前に迫っていた。

 とがった鼻先が、手を伸ばせば触れられるくらいの位置にある。生臭い息が顔にかかる。

 きっと、僕はここで死ぬ。

 でも……間違った選択はしなかった。何の罪もない人を殺したりはしなかった。

 なのに、体が震える。

 どうしようもなく、怖い。


「先生ッ!」


 上から、僕を呼ぶ声が聞こえた。

 見上げると、高いアパートの屋上からイネスが見下ろしてくる。

 イネスは何かを掴んでそこから飛び出し、空中に踊り出た。

 彼が掴んでいるのは――――あれは、短槍だ。

 おそらく、あのひどく重たかったケースの中身だ。

 使い込まれた太めの柄に、無骨な三角形の刃。刃には細工があり、手前に装置が取りつけられているのがみえる。

 装置には鈍い色をしたレバーがついていた。


「うらあああっ!!」


 刃は落下の勢いのまま、鎌首かまくびをもたげた竜の頭部めがけて振り下ろされる。

 切っ先が竜の鱗に当たり、硬質な音がする。刃は弾かれて傷一つつけられない。

 イネスは竜の頭部からずり落ちながら、指を凹凸に引っかけて体勢を維持、短槍を短く持ち替えて片手でレバーを引く。

 瞬間、槍の切っ先からオレンジの閃光が噴き出した。


「先生、ここは俺が受け持つ! 逃げてくれ!!」


 無理やり上体をひねり、刃を叩きつける。

 槍は目蓋まぶたを貫通して眼球に食い込み、血が噴き出した

 竜は痛みにもだえて激しく首を振る。

 イネスは振り落とされないよう必死にしがみついている。短槍が深く食い込み過ぎていて、抜けないのだ。


「行ってくれ! これは俺の仕事だ!」


 僕は愚かだった。イネスは逃げたわけじゃなかった。

 竜に立ち向かおうとしていたんだ。

 当然だ。竜を前にして背中をみせるような者が――鶴喰砦から、生きて帰って来れる道理が無い。見知らぬ他人を守って、命を賭けて戦えるわけがない。


「アルノルト邸はここから三ブロック先、玄関脇の窓に赤いランプが飾ってあるからすぐにわかる! ――――あッ」


 イネスの体が、上下が反転する。

 青年を振り落とそうとした竜が、体ごと横に倒れたのだ。

 地面の上でもんどり打って、激しく回転する。遠心力によって、イネスの手は槍の柄から離れ、上下逆さまのまま背中から住宅の壁に思いっきり叩きつけられた。

 衝撃で叩き割られた壁材と共に、イネスは地面に崩れ落ち、意識を失う。


「イネス……!」


 全身から血の気が引く。

 竜はイネスを無視し、再び僕の元に来た。

 そして丸太のような前肢を振り上げた。


 お手をして飼い主を叩き潰し……。


 イネスの冗談めかした言葉がやけに思い出され、僕は再び顔の前を覆った。

 しかし、その瞬間はやってこなかった。

 おそるおそる目蓋まぶたを開く。

 そこに、月光をそのまま人の形に固めたような光をはなつ、白い後ろ姿があった。

 彼の足は、白い結晶の蓮座にふわりと舞い降りた。

 蓮座からは美しい六枚羽が重なりあうように上空に伸び、竜のあしを支えていた。


「……いい夜だ。月が美しい」


 そう、彼は呟いた。

 彼は微笑んでいた。

 柔らかく、実に幸福そうに。

 すべての束縛から解放されて、ただ満たされている者の表情だった。

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