31.5 姫君と騎士

 天市と海市の境に大勢の市民が押し寄せていた。

 あまりにも数が多く、まるで色とりどりの波のようにみえた。

 彼らは彼らの主張を書いた布を広げたり、看板を掲げていた。


「王姫殿下!!」

「王姫殿下、我々の声が聞こえないのですか!」

「どうか、お考え直しくださいっ」

「今すぐ竜鱗騎士団の派兵を!!」

「雄黄市には友だちがいるんです!」

「田舎に住んでる年老いた両親と連絡がつかないんだ」

「竜族との和解などありえない!」


 口々に叫ぶ、悲鳴のような言葉。

 内容は様々だが、彼らが求めるものはひとつ。

 竜に襲われ壊滅寸前の雄黄市へ、竜鱗騎士団を派遣すること……。

 群衆は辛うじて統制を保っていた。警備兵が持っているだろう銃口を恐れるだけの理性はあった。

 しかし彼らの内側に荒れ狂う嵐が、いつ、その均衡きんこうをめちゃくちゃにしてしまうのかは、誰にもわからず、保障もできない事柄だった。

 また、この集団とは別に、それらの抗議行動を冷やかに見つめる目もある。

 国民が今度の竜族の侵攻に対し、抱いている想いは千差万別、さながらモザイク画のような様相を呈していた。


 女王府では、まだ十三歳と幼い王姫・星条百合白が物憂げな表情を浮かべていた。

 彼女の前には若い男がいた。

 若いといっても、魔術によって若さを保っている青年に過ぎない。

 全身を闇に浸したような不気味な姿だった。

 伝統的な長衣も黒ならば、頭髪も黒、切れ長の瞳には、さらに漆黒の宝石が輝いている。すっきりと通った鼻筋は美男子と呼ぶにふさわしいが、若さゆえの軟弱さは皆無だった。

 まるでぎ澄まされた剣のような威圧感が、彼の周囲にはあった。

 彼こそが、頭脳明晰さにおいて翡翠女王国にその人あり、女王府の黒曜石と称えられる大宰相・黒曜ウヤクその人である。

 そして彼は、ほかならない星条百合白によって、いましがた宰相職を罷免ひめんされたところである。

 常に、女王府の狭い屋根の下で意見を対立させてきたふたりにとっては、それは当然の成り行きだったのかもしれない。

 黒曜は眉ひとつしかめることはなかった。


「お考え直しくださいませんか、殿下」

「あなたは母の代から、長い間翡翠女王国のために尽くしてくれましたが……」


「いえ、わたくしめのことではありません」とウヤクは間髪入れず否定する。「どうか今すぐに、竜鱗騎士団を派遣してください」


「その件については、結論が出たはずです……」

「しかし、雄黄市に女王家の助けを求める者たちがいるのです。今、なんら罪のない市民をかくまい、鶴喰砦つるばみとりでに籠城している誇り高い男たち、女たちは、恐れ多くも殿下の兵、殿下の民にございます」

「できません。これから私は竜族との和平交渉に臨みます。騎士団の派遣は、交渉の障害となるでしょう」


 姫は続ける。


「竜族との無益な戦いは何一つ利益をもたらしません。この機会に、長老竜と和睦わぼくに向けた話し合いの場を設けることは女王国の将来にとって有意義なことです」


 その話しぶりはしっかりしており、ウヤク相手にもひるむところはない。

 彼女が聡明な女王として成長していることが感じられた。

 もちろん、この不憫ふびんな元大宰相以外にとっては、ではあるが。


「即ちそれは、兵や市民を見殺しにするということに他なりません。どうかご慈悲を……」

「あなたにしては優しい言葉ですね。しかし改革には痛みも必要なのです」


 星条百合白せいじょうゆりしろは純白のドレスの胸元をぎゅっと押さえた。

 少女にとっては重過ぎる葛藤で、その心は今にも押しつぶされそうになっているのだ。


「罷免された身で差し出がましいことをお訊ねしますが、騎士団長は、命令がなくてもの地に向かうと主張しているようです。どのように処分されるおつもりですか」

「……もし彼が私的な理由で騎士団を動かすというならば、私は彼の任をも解かなければならないでしょう」

「後継者は誰にとお考えで?」


 百合白は黙ったまま、解答を控えた。


「決意は変わらないのですね」


 黒曜は瞳を細くすがめる。

 彼女がうなずくのを確認すると、深くこうべを垂れ、無言を別れのあいさつに代えて部屋を出た。


「やはり、だめだった。私はただの無職の、伝統的貴族になりさがった」


 廊下で待ち構えていた人物に、黒曜は告げる。

 漆黒の衣を引く衣擦れの音とともに、曇り空の色を反映し薄暗い宮殿の廊下を進む。

 その人物も後をついていく。


「姫様にも困ったものだ、長老竜と交渉などと……本気で言っておられると思うか? このような状況下で、交渉に値する材料すらなく、いったい何を話し合うのだ。その真意が俺のような老人にはさっぱりわからぬ」


 その口調はさきほどの冷静さをかなぐり捨てているようだった。


「おそらく雄黄市は放棄するつもりなのであろうな。真意がどうあれ、女王国は無条件に侵略を受け入れたことになる。おまけに、騎士団長を解任するとまで言い出したぞ、あの娘は」

「黒曜様、鶴喰峠のことですが……騎士団を動かせないならば、私が参ります」


 黒曜は足を止めた。

 唐突な出来事に、並んで歩いていた人物は三歩先に進んで、振り返らなければならなかった。


「勘違いしてはならぬ。我々が救わねばならないのは彼らのみではない。翡翠女王国すべての哀れな民なのだ」

「わかっております。ですが、私に救えるのはただ目の前の患者だけなのです」

「そうか。もう決めたのだな、リブラ」


 若き青年医師はただうなずいた。

 甘く華やかな容姿に反して、こうと決めたら頑ななところがある。

 父親と似ている……。

 ウヤクはそのことに気がつき、目を細めた。

 王宮にあって珍しく誠実で実直なリブラの両親を、彼は親友としていた。

 亡くなったときのことを思うだけで、彼の胸は今も張り裂けそうになるほどだ。


「では……これだけは言っておこう。先ほど、俺は星条百合白殿下のお気持ちがわからぬと言ったな」

「はい」

「あれは、嘘だ」


 とたんに二人は黙りこんだ。

 宮殿の無数の柱の影のあいだに、二人の影が長く横たわっている。




 黒曜ウヤクを見送り、部屋には星条百合白ひとりとなった。

 ウヤクの言うことは、全てもっともなことだ。

 それでも竜族との対話をなさねばならない理由がある。

 複雑な心境のまま、庭に出る。

 白薔薇の植えられた庭に、ひとりの騎士が剣の柄に手をやり、立っていた。

 薔薇の花びらよりも白く、真昼の月光のように儚く、美しい騎士だ。まるで汚れをしらない無垢な少女のような横顔は、ぼんやりと空を眺めているようで、実は注意深く敵がいないかあたりを探っていた。


「天藍……」


 百合白は先ほどの緊張を忘れ、開かれゆくつぼみのように表情をほころばせた。


「話し合いは終わりましたか」


 天藍が訊ねる。


「はい。でもしばらくは、ここで花を眺めて休んでいましょう」


 彼はそれをきくと、再び警戒態勢にもどった。


「天藍、私の判断は正しかったのでしょうか……あなたは竜鱗騎士団の一員として、今度のことをどう思っていますか?」

「どうぞ、お心のままになさってください。女王亡き今、あなたは全ての民の主なのですから」


 天藍のその言葉には温度がなく、まるで人形のようにみえる。

 しかし、彼は人間だ。おもちゃではない。

 その皮膚の下に流れる熱を、時折感じることもある。でも、今は、遠い。

 その遠さを感じるのが、百合白にとっては我が身を切るよりも辛いのだった。


「いつも自信がありません。母のように立派な女王になるにはどうすればいいのか……ねえ、覚えていますか。私とあなたが出会ったときのことを。そのときも、この庭でしたね……」


 天藍は表情をゆがめた。

 灰色の瞳が、一瞬、澄んだ水色に染まる。

 見上げる先の雲に、亀裂が入り、青空がのぞいたのだ。

 そこから落ちた青が若者の灰色にうつりこんだ、それだけである。

 だが。

 それはこの孤独な若者にとっては、ある種、象徴的な出来事でもあった。

 なぜなら彼は竜鱗騎士になるまえは、それと同じ色の瞳をした少年だったのだから。


 天藍アオイは、孤児だった。


 身よりはおらず、海市郊外の孤児院で育った。

 貴族たちの寄付によって設立されたその孤児院では、飢えることはなく、あたらしい衣服を着れて、併設された学校で十分に学ぶこともできた。

 なぜならそこは、孤児のなかでも魔術に秀でた……つまり、竜鱗に対して適性のある子どもだけが集められた施設だったからだ。

 ただ、そこで過ごす子ども時代は無味乾燥そのもので、そばに専門のスタッフはいても孤独であり、愛を知らなかった。

 彼はしばらくまじめで誰にも逆らわない優等生だったが、あるとき、子犬をひろった。



 芝生の上で、子犬が遊んでいる。

 ボールを追いかけまわす小さな毛玉は、無邪気で、疑うことを知らなかった。

 天藍アオイはただ無感動に、その素早い動きを目で追っていた。


「かわいい子犬ね」


 そう、声をかけられて、彼は澄んだ青い瞳をそちらに向けた。そこには、ふっくらとスカートがふくらんだ、ピンク色のワンピースを着た少女がいた。

 たしか、施設に出資している貴族が、来客としてきているはずだった。

 その連れかもしれない。


「あなたの犬なの?」

「そう……でも、もうじきそうじゃなくなる」

「どうして?」


 彼女は階段に腰かける天藍の隣に座った。

 少女からは、日向の香りがした。


「施設では犬は飼えない。処分するんだ」

「ショブンするって、どういうこと?」

「薬を飲ませるんだ。それか、短剣で殺そうと思う」


 天藍は鞘に入った剣に触れた。彼は幼い子供だが、既に剣の才覚を見せていた。

 望めばどんな死神よりも、素早く命を刈り取ることができた。


「そのほうが、きっと楽だ……」

「まあ……そんな、ひどいわ」


 少女は脅えた表情をみせた。


「行くところがないんだ、しかたがない」


 少年はいつの間にか子犬の運命と自分とを重ねていた。

 施設にいる子どもたちは、いずれ竜鱗を移植する。

 手術の精度は上がっているものの、何人かは命を落とすかもしれない。

 成功したとしても、騎士となり竜と戦うことに希望は見いだせない。

 そのことを考えると少年の心は冷たく凍え、何も感じなくなる。

 若くして死の運命を受け入れてしまった彼は、生者とは呼べなかった。


「大丈夫よ」と少女は言った。「そんなことはさせません」


 どうして、そんなことが言えるんだ、と少年は思った。


「わたしが、守ります」

「犬を?」

「そう。そして」


 彼女はそう言って、立ち上がり、天藍の肩にそっと触れる。


「あなたを」


 このとき、少年ははじめて顔を上げた。

 きれいな白い髪が、太陽の光にきらきらと輝いていた。

 暖かな瞳の桃色が、柔らかく微笑みかける。

 それは、まるで……。

 希望みたいだ、と彼は思った。



 子犬が殺されることはなかった。

 偶然施設にきていた星条百合白姫が進言し、動物の飼育に関するルールを変えさせたからだ。

 数年後、騎士団に入団した天藍は王宮の庭を訪れ、そこで、かつてのあの少女、星条百合白と再会した。

 百合白は孤児院での出来事を覚えていない様子だった。

 それとも、手術で容姿が変わってしまい、あのときの少年が天藍だと気がついていないだけかもしれない。

 ……いずれにしろ、天藍がそれを言い出すことはない。

 彼女は、誰も助けてはくれないとあきらめていた少年を守ると言ってくれた。

 ひとりの少年が救われるには、その言葉ひとつで十分だった。

 彼はその思い出を、そっと胸の内に秘めるに留めた。

 彼は百合白姫に向き直る。

 片膝を地面に突き、剣の柄を姫に捧げる。


「あのときから……私の誓いは変わっておりません。たとえこの先、何があろうとも、あなたをお守りします」


 空の亀裂はひろがり、青空が、彼女の背後を輝かせる。


「どのような決断を下しても、私はあなたの剣、あなたの盾。私の命はあなたのものです」


 百合白は差し出された剣を抜いた。

 その剣で心臓を突かれたとしても、悔いはない――騎士の誓いの再現だった。


「ありがとうございます、天藍。できることならば、あなたの忠誠に応える強さがほしい……」


 百合白はいつかのように、刃でもって、彼の肩を叩く。

 天藍は頭を垂れたまま、それを受けた。


 そのような光景が広がる庭からさほど離れないところで、民は彼女に届かぬ叫びをあげ続けていた。

 そしてはるか彼方では、翡翠女王国を飲み込まんとする竜の激しい炎の息吹が吹き荒れ、人々を蹂躙していたのである。

 

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