102 死者たちの輪舞曲

 銀華竜は海上を旋回しながら時折、海面に向けて竜鱗を打ち込んでいる。

 白波が立ち、吸い込まれていく刃は、水の質量と波で勢いが殺されている。

 マリヤは銀色の翼を広げながら、周囲の音に気を配っていた。


《浮かんでこないね。もう死んじゃったんじゃない? 片腕無かったんだし、あれじゃ泳げないよ!》


 哄笑が夜空を引き裂いていく。

 竜鱗魔術が使えば使うほど肉体を浸蝕する魔術だとしたら……青海文書が食らうのは読み手の《精神》だ。青海文書の魔法を使い過ぎ、登場人物の心と共感し過ぎれば、戻れなくなる……。

 ヒナガもいずれオルドルと混ざりあい本当の人食いのバケモノになってしまう。

 穏やかにぐ海面を眺めながら、マリヤは目を細める。


 もしもあれが浮かんでくることがあれば、次こそはサナーリアの呪文で一息に片をつけよう。


 それが、せめてもの慈悲だ。

 そのとき、マリヤの視界の先で海の底が綺羅星きらぼしのような光を放った。

 ただの光ではない。

 懐かしい温度。まわしい魔力の放出が確認できる。


光輝の魔女アイリーンのにおいだ……!》


 銀華の叫びに、マリヤは眉をしかめる。


「どうして……あの女がここに……?」


 マリヤが光輝の魔女……アイリーンに出会ったのは、五年前の一度きりだ。

 それ以外は、どれだけ求めても姿はおろか気配を感じたことさえ無かった。

 なのに彼女は再び現れた。

 自分ではなく、おそらくはマスター・ヒナガの元へと。


《確かめてみればいい!》

「待ちなさい、銀華!」


 銀華竜は光の元へと大量の銀鱗を撃ちこみながら海面に向けて滑空かっくうする。


 ――来る。


 マリヤは身構えた。

 海上の波が荒れ狂う。

 金切り声、不気味なざわめき、無数の笑い声、犠牲者の断末魔が、不快な交響曲となって鳴り響いた。

 それはサナーリアと同調しているマリヤだからこそ感じられる音楽だった。

 マリヤ自身にはオルドルへの恐怖は存在しない。サナーリアが感じているオルドルへの畏怖いふが形になって現れているのだ。

 次の瞬間、突如として現れた巨人の腕が、銀華竜の横顔を張り飛ばし海中に叩きつけた。

 白い柱を上げながら銀華竜は海水に沈んでいく


「なッ……!?」


 一瞬のことで、見間違いかと思ったほどだ。

 不快な驚きに、マリヤは顔全体を歪めた。

 海水に濡れ、金属質な光沢を放つ巨人の鉄の腕はぬるりと再び海の底へと潜り見えなくなる。

 海面が不気味なうずを巻いている。

 渦は次第に大きくなり、中心部がくぼんでどこぞの神話よろしく海面が割れ海底が露わになった。

 波間から銀の巨人の姿が現れた。

 ウファーリが起こした騒ぎで、学院でも披露していたあの巨人の魔術……歪んだ樹木の寄り集まった醜悪な姿がまず目に入る。その足元に少年の姿が見えた。

 マスター・ヒナガはまるで糸が切れた操り人形のように頭を垂れ、巨人に寄り添っている。

 左腕は無いまま、袖が風にひるがえっていた。


「そこにいるのはマスター・ヒナガ……? それとも、オルドル?」


 返答は無い。

 唇はかたく閉ざされているのに、くすくす……という笑い声が鼓膜こまくを叩いた。


 昔々……ここは偉大な魔法の国。


 くすくす、くすくすくす。


 オルドルは許さない……。

 オルドルは、盗人を絶対に許さない……。


 青海文書の声だ……。

 生ぬるい風に吹かれ、マリヤは肩を震わせた。

 恐怖している。

 全身が、理解のできない恐れに支配されていく。

 べったりと濡れた前髪の間から紅い瞳が覗いていた。 


「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」


 今度こそ、それは確かにマスター・ヒナガの声であった。

 マリヤの背後に銀色の大樹が生える。

 樹木は一斉に長く銀の枝を伸ばす。

 割れていた海は元通り、巨人と魔術師は水底へと戻っていった。

 と同時に冷気が立ち込める。見渡す限り、まるで嘘のように海面が凍りついていく。

 分厚い氷の下に巨人と、墜落した銀華竜とが取り残されていた。


 こんな魔法を使えば……マリヤはそれが自分もした決断だということを忘れ、圧倒される。

 ヒナガ・ツバキは間違いなく自分を失う。

 そして代償によって死ぬ。


 それは同時に、勝利への確信だった。

 彼は手段はどうあれ生き残ることを自ら捨てた。

 既に死んでいるも同然の敵など敵ですらない。

 手足を絡め取ろうとうごめく枝の攻撃をかわしながら、マリヤは白い杖を手に取る。


「昔々……! だめだわ」


 魔術への集中は、すぐに途切れる。

 大量の海水の下を、巨人は移動していた。

 軽く舌打ちをして、マリヤは足の竜鱗を大きく成長させ、剣の形に剥離させる。

 追って来る枝葉を切りはらう。いっそ大気中のちりからでも結晶を生成できるのは白鱗天竜はくりんてんりゅうだけの特権だ。銀華竜はあくまでも自らの体から鱗を生成していくしかない。

 しかし――銀の枝たちの狙いはマリヤではなかった。

 少女を素通りした枝葉が、分厚い氷に覆われた海面に突き立った。

 そして氷を割り、水飛沫を上げながら銀色の巨躯を海中から引き上げていく。

 滑りながら大地に降り立った巨人は休まず、全身を躍動させながらマリヤの元に疾走する。

 そして上体を逸らしながら、ほとんど直上方向に蹴りを放つ。

 逃れたマリヤの視界に巨人の背中がうつる。巨人は蹴り上げた左足で地面を踏みこみ、胴を回転させながら、体を投げ打つような回転蹴りを放ってくる。

 それが、かつて天藍アオイが使った格闘技の完璧な複製であることに、急襲に焦るマリヤは気がつかない。


「飛んでる相手に当たるわけないでしょ……!」


 着地を考えない蹴り技は、避けられ、背中から地面に転がることになる。

 だが、マリヤの背後から銀の蔦が伸び、巨体を吊り上げて転倒を防ぐ。

 次の瞬間、重力を無視して飛び上った巨人が、マリヤの頭上に鉄の拳を振り下ろした。

 ほぼ同じタイミングで、黄金の剣が頭上へと殺到する。



 真珠イブキは轟音と、崩れ落ちる港湾作業用のクレーン、そして立ち昇る大量の埃を遠巻きに眺めていた。

 バカげた巨人が、空を舞う竜鱗騎士……のまがいものと、戦っている。


「ほんとに、マスター・ヒナガ……なの……?」


 イブキは立ちすくんだまま、動けない。彼の魔法の代償を知っているからだ。

 彼は死を覚悟している。そうとしか思えない。

 助けに行くべきか、少しだけ迷う。


「下ろせ」


 そう、声が聞こえた。背中の荷物から。

 むすっとした、子供じみた声音だった。

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