92 わたしのなまえは

「リブラ様は恐ろしい方だと言ったでしょ」


 マリヤの頬に落ちた水滴が、涙のように白い肌を伝っていく。


玻璃はりの治癒術において、魔力より効果のある素材が何か知ってる? ……よ。人、それが禁術の正体なのよ」


 嫌な予感がすごくする。

 何もかもが悪い方、悪い方へと転がっていく予感だ。

 そして、転がった先には崩壊と破綻はたんしかない。


「あいつが鶴喰砦つるばみとりでで戦う兵士たちを生きながらえさせるために、何をしたかわかりますこと? ――彼は他人の命を奪ったのよ。哀れな負傷者の命をね。あいつは死神で、みんな死んでいったわ……。ねえ、どうして私だけ助けたのかしらね……? いつか許してくれるとでも思ったの……? そんなわけない」


 動かない体。抑揚よくようの無い声。


「そんなわけないじゃない……! 砦には子供だっていたのよ。医師として許されない。絶対に許したりなんかしない」

「でも、それは……仕方なかったんだ……そうだろ」


 事情だけはカガチに聞いている。

 そうしなければ、鶴喰砦の人たちは全滅していた。

 リブラは助けに行っただけだ。

 その方法しか無かったんだ。


「だから何? あたしはどうするべきだった……?」

「それは……」

「その人たちのために死ねばよかったの? 助けられた私と、死んでいった人達……何がちがうの? 頭がいいから? 美しいから? それとも何? あれは天罰だったとでもいうの……?」


 僕の声は頼りなく、語尾がみんなかすれて消えて行く。

 彼女の問いは全て、肯定も、否定もできない悲痛な問いかけだった。

 リブラが彼女を助けた理由がわかる気がした。

 たぶん彼は究極の状況下で最後の最後まで非情にてっすることができなかった。

 僕に謝罪し、心臓に埋め込んだ呪具じゅぐを抜き取ったのと同じだ。

 愚かにも、そうすれば許されると思ったんだ。いや……許されるとは思っていなかったかもしれない。

 でも、哀れみをかけられることで傷つく人だっている。

 謝罪をしても、取り戻せないものだってある。


『ツバキ……流されてるよ。会話は危険だ。ボクから離れないで』


 オルドルが警告してくる。

 離れるな、というのは僕がオルドルに感じてる《共感》のことだろう。

 マリヤの話に影響されて、オルドルの物語に共感する心が遠くなったんだ。

 オルドルに同調し続けていなければ、僕は魔法が使えないのに。


『彼女はキミより長い間サナーリアと一緒にいる。それを狙っててやってるかもしれないんだ。危険だよ』

「わかってる……迷ったりしない」


 どんな理由があっても、マリヤが殺人犯だということに変わりはないんだ。

 彼女は僕を問答無用で殺そうとした。

 リブラを殺した。

 イブキの将来を奪ったし、幸せな家族をズタズタに引き裂いた。

 絶対に許されることじゃない。


「魔法が使えても、動けないんだ。僕が有利なことに変わりない」


 サナーリアの魔法は、単純だけど強い。

 でも、今の僕は魔法を知らなかった頃の僕じゃない。

 種もわかってるんだから、対処の仕様もある。


「どうしてここに来たの? マスター・ヒナガ」

「……百合白さんを探しに来たに決まってるだろ?」

「百合白……殿下……?」


 マリヤの雰囲気が……どことは言えないが、少し変わる。


「なるほど、そういうことだったの……」

「……?」

「……馬鹿な人たち。戦う運命とも知らずに。》」


 まずい。

 僕は金杖を構えた。

 マリヤの金色の髪が、はらりと解けて揺れる。

 風はないのに。


「なにっ!?」


 天藍が僕の上着を掴み、後ろに放り投げる。

 もちろん、天藍の仕業だとわかったのは見事に二回転を決めた後だ。

 騎士は手の平で、竜鱗の刃を受け止めていた。

 僕があそこにいたら、胸か腹か……とにかく串刺しにされていた。


 何が起きた……?


 青海文書の魔法じゃない。


「ねえ、先生」


 甘ったるい声が聞こえた。

 天藍の体の向こう。

 マリヤの声で、笑ってる。

 でもマリヤじゃない。

 何かが違う。


「私が動けない、なんて、いつ言ったかしら……?」


 膝掛けがはらりと落ちる。

 彼女は車椅子から降りた。

 自分の脚で。

 立ち上がり、こちらを見ていた。


「いや、さっき、言ったと思うけど……?」


 自分で自分の声が引きつるのがわかる。

 なんで、どうして。


『アレは……』


 はらりと何かが落ちた。

 彼女が先ほどまで、膝から下を覆っていた膝かけが落ちたのだ。

 薄い毛布の下は、学院のスカートと、華奢な両足がある。

 露出した肌が不気味に波打つ。

 語彙力が貧困で申し訳ないが、ボコボコと泡を噴くように、表面に何かが浮かび上がって来る。

 それは、鱗だった。

 銀色の鱗。


「竜鱗魔術だ」

『竜の魔術だ』


 オルドルと天藍の声が重なる。

 鱗の数は……両足を合わせて計、四枚。上半身に視線に移す。さらに、左頬に四枚。

 この時点で、天藍を越えてる。

 さらに、両手の甲に一枚ずつ。

 十枚……。


「マリヤ……!」


 彼女がさっきの短い呪文で、何をしたのか。

 単純だ。

 彼女は竜鱗を、自分の体に移動させた。

 ただ移動させただけじゃない。

 医療魔術の知識と、サナーリアの魔法を使っての、即席の、竜鱗の移植手術だ。

 ほんの一瞬で金色だった髪が退色して銀色に染まっていく。


『なんてバカなことを……! 青海の魔術師のクセにぃ~!!』


 オルドルが地団太を踏んでるが、そんなことは気にしてはいられない。

 僕は食い入るように彼女の姿に……鱗と肌の接合面から流れ出した血にまみれた姿に見入っていた。


「マリヤ、君は、適合者だったのか……!?」


「イブキだけだ」と天藍が淡々と事実を述べる。「イブキですら、あの数には耐えられないがな」


 竜鱗に適合しない者の末路は、悲惨だった。

 良くて死ぬか、悪くて竜に支配される《竜人》と化す。


「マリヤ、今すぐにやめるんだ!」


「マリヤ?」と、彼女は笑う。


 ぶきみな笑いだった。唇が裂けたように、ニヤリと。


「それはだれのなまえ? ちがう、マリヤじゃない。私のなまえは――《銀華ぎんか》だ!!」

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