端緒の湧泉 3



 サユとファイスは月紅草を踏み荒らしてしまうのを躊躇い、泉から少し離れた場所にある村外れの草原くさはらまで来ていた。

 薄雲の晴れた空には、端がわずかに欠けた月が浮かんでいる。地上を照らす月光は、互いの姿はもちろん、細かな表情の変化さえ昼間のように浮き彫りにした。


「真剣で構わないわね」


 それ以外は認めないという意味を含ませサユは告げた。ここで怖じ気づいて逃げ帰ってくれれば、それに越したことはないのだが。


「構わないよ」


 返ってきた迷いのない言葉に合意を確認し、サユは早速、短剣の柄に手を伸ばした。


「その短剣を使うのかい?」

「これが一番、手慣れているの」


 サユは短剣を抜き、その切っ先をファイスに向けた。


「手慣れている、か。……そう、じゃあ始めよう」


 納得したのか、ファイスはそれ以上なにも言わなかった。腰に佩いた諸刃の剣を抜くと、両手で支え体の正面に構えた。それが開始の合図。ふたりの間合いは瞬き一回ぶんの速さで詰まり、つぎの瞬間、サユは短剣の刃をファイスの喉許へと突きつけていた。


 動いたのはサユだけ。短剣を持つサユの細腕は容易く払い除けられるかに思えた。だが、ファイスは剣を構えた位置から微動だにしていなかった。喉許に当てられた短剣から、一歩下がって身を離す気配もない。少しでも動けば容赦なく首を切り裂く。それだけの気迫がサユにはあると感じ取ったからかもしれない。


 ただ、ファイスの態度は沈着で余裕があり、機を窺っているようにも見えた。


「短剣だからって遠慮はいらないわ。ランドルフ家には使族真家の血が混じっていると聞いているけれど、この程度なの? 手加減は恥だと思いなさい」

「言ってくれるね。手加減するつもりはなかったんだけど」


 ファイスの顔に、真剣勝負の場にそぐわぬ優美な微笑みが浮かぶ。その微笑みが効力を発揮したか否かは定かでないが。つぎにファイスが取った行動は確実にサユを怯ませた。

 ファイスが腕の力を抜き、剣先を地に向け下ろす。そしてほんの少し前方へ、体ごと首を動かした。そのさきにあるのはサユが突きつけた短剣の刃。驚き、サユは即座に短剣を引く。ファイスから距離を置いたが間に合わず、彼の喉許にはひと筋の線が刻まれていた。


 線に沿い、じわりと赤い血が滲む。


「続けるよ。サユ」


 ファイスの行動に気を呑まれたサユだが、すぐさま反応し短剣を構え直す。そこにファイスが剣を右手に一歩を踏み込む。緩やかに、そして軽々と舞った剣から受けたのは予想以上の力。重いひと打ちをサユは短剣をもってなしたが、ファイスは攻撃の手を休めない。続けざまに押されサユは体勢を崩す。

 そこに生まれた隙をファイスは見逃してくれなかった。


 弧を描き振り上げられた剣の切っ先がふたたび落ち、サユの目前に迫る。


 剣と剣がぶつかり空気を震わせる。避ける間を与えられなかったサユは、ひたいより前方に押し上げた短剣でファイスの剣を受けていた。彼は右腕一本だというのに。対するサユは片腕だけでは防ぎきれず、左腕も突き出し盾となった短剣を全身で支える。


「使族が相手でも、勝機はありそうだね」


 重なった剣の隙間から声が降ってくる。

 優しく穏やかな声音とは裏腹に、群青の瞳は冷酷で物騒な光を湛えていた。サユを斬ることへの迷いも感じられない。緩まない重圧に力を入れ続けた腕が震え、サユは歯を食い縛って耐える。


 彼の腕力はコウキと同等。偽りなく使族真家の血が混じっているということか。だが、ランドルフ家に真家の娘が嫁いだのは何代もまえの話。いまではその血も薄まり、使族の能力には遠く及ばないと思っていたが。


「そろそろ降参したらどうだい?」

「誰が!」


 降参などするものか。

 よりいっそうの抵抗をサユが試みようとしたそのとき。全身にかかっていた重みが出し抜けに消える。


「……まずっ」


 拍子抜けした声を上げたときにはもはや手遅れ。強く握り締めていたはずの短剣がファイスの素早い一撃で簡単に叩き落とされる。地面に転がった短剣は、屈んで手を伸ばせばすぐの位置にあった。だが。武器を無くしたサユのまえで、ふっと笑ったファイスが高々と剣を掲げる。


 駄目、間に合わない——。





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