端緒の湧泉 2
群青の瞳。サユがファイスを敬遠する最大の理由はそれだった。
オウトウで囁かれていた彼の女性遍歴に嫌悪を抱いたのも確かだ。しかし彼の瞳が群青でさえなければ、彼の存在を意識することもなく、そもそも嫌悪の感情すら生まれなかっただろう。
青色の瞳を持つ者はランカース公領では珍しくない。だが、彼の瞳は月夜の君と渾名されるだけあって、より深く他者を惹き込む色合いをしていた。そして八年前。父母を亡くした夜に出会った少年、いままでで唯一サユが真名を読めなかった風精もまた、群青の瞳をしていた。
それに月明かりの下、いっそう深みを得たファイスの瞳は、より風精と酷似して見えた。面影までが重なるように思えてくる。
だが、風精とファイスには決定的な違いがあった。髪の色だ。ファイスは栗色。風精は夜陰に輝く満月を彷彿とさせる白金の髪をしていた。なによりファイスからは精霊と判じられるような不可視の力は感じない。見る限り人間だ。
なのに。風精と同じ色の瞳を向けられると居心地が悪くてたまらなくなる。それはいまだ心は弱いまま、母の遺言を守れずにいる自分の有様を風精に知られたくない気持ちがあるからだろう。
一度きりしか会っていなくとも。少年の姿に満月の夜を纏った風精は父母の目も同然。これではあのときの風精に胸を張って会えない。そう思っているところに、月夜と称される瞳を持つファイスは来たのだ。
「あなたのことは、正直、苦手だわ」
「じゃあ、嫌われてはいないのかな」
「苦手も嫌いも、大して差はないでしょう?」
「だけど君は、苦手だと言い直した。そこには意味があると思ったんだけどな」
自信家なのか、それとも楽観的な思考の持ち主なのか。どちらにしろ彼にはこれ以上この場にいて欲しくない。そんな心情をそろそろ察してくれてもいいだろうと願うサユだったが。ファイスからは帰る気配がいっこうに感じられなかった。
それどころか、さらに重ねて実のない会話を続けようとする。
「この村での滞在予定はいつまで?」
自分が長くとどまると、なにか不都合でもあるのか。その疑いを口にして話を拗らせるよりはと、なかば投げやりの態ながら、サユは正直に予定を伝える。
「このまま問題が起こらなければ、あさっての朝には出ていくつもりよ」
「明日の夜もこの泉に?」
「ここには、もう来ないわ」
「それは勿体ないな」
「勿体ない? どうして?」
「月紅草は知ってる? ここら一面、白い蕾があるだろう。それが明日には咲くはずなんだ」
「明日が……、満月だから?」
「そう。知っているなら話は早い。よかったら、僕と一緒に見に来ないかい?」
一見の価値はあるよ。と誘うファイスの意図をサユは量りかねる。
「どうして私を誘うの?」
「君がいれば、夜の森でも安全は保障されるだろう?」
そういうことかと納得しそうになったが、サユはすぐに考え直す。
「
「封石を持っているかどうか、君はそんなことまで判るんだね」
感心したファイスに、月魄除けの封石は判りやすいから、と、うっかり漏らしそうになり、サユは慌てて口を噤む。月魄除けの製法が、使族により隠匿されている存在に触れず説明するには難しい内容だったからなのだが。
幸い、黙したサユにファイスが疑問を抱いた様子はない。泉を囲う木立へと静かに目を向けていて、そのままの姿勢で口を開いた。
「人を襲うような月魄は、いずれ村に災いを持ち込む。そのときに払う犠牲を考えれば、封石で遠ざけるより、
確かに得策かもしれないが。そう言うからには、彼は単独でも月魄の襲撃に対処できるだけの能力を持ち合わせているのだろう。ならば自分を誘う必要などいささかもないではないか。零れ落ちそうになる溜息をサユは呑み込む。
「バナド・ランドルフの甥っ子にとっては、月魄の相手くらい容易なのでしょうね。だけど実際はどうかしら。あなた、己の力量を見誤って魄魔にまで手を出したのよね」
「その話をされると、耳が痛いな……」
ふと、群青の瞳がサユを捉える。
「それなら逆に、僕が君を護るっていうのは? どうかな」
なにをどうすればそのような発想に至るのか。名案とばかりに微笑んだファイスを、サユは値踏みするように正視する。
「私になんの得があるというの。それに護るだなんて。簡単に言うのね。どうせ命を懸ける覚悟もなく軽い気持ちで口にしたのでしょう? だったら問題外だわ」
ここまで辛辣に突き放せば、さすがに彼も引くだろうと思ったのだが。事は思惑どおりには進まなかった。
「覚悟か——。そうだね、君といるには必要だろうね」
ファイスは変わらず微笑んでいた。だが、群青の双眸には、見る者の心を奪いながらも冷たく突き放す、冷然とした光があった。そこに彼の本質を見た気がして、サユは初めてファイス自身に興味を抱く。
魄魔にまで手を出した男だ。使族という物珍しさから色恋の相手に誘っているのかとも思ったが。目的がなにかまでは判らない。確証もない。けれどもっとほかに自分を誘う理由があるように感じたのだ。
もしそうならば、夜間に人間が近づくなどまずない、魄魔と疑われても文句の言えないこの場所で、彼がわざわざ声をかけてきたのにも頷ける。ただ単純に、剣の腕に自信があるだけなのかもしれないが。
関心を持ったサユのまえでファイスが続ける。
「僕が君を護るのに相応しいかどうか、君自身の手で試してみるかい?」
その群青の瞳は魅惑に満ち、サユの心を掻き乱した。
たとえば。ファイスと風精が同一の存在だとしたら——。有り得ない話だが、ここで可能性を完全に打ち消しておけば、今後またこのように顔を合わせても、彼の瞳に苛立ちを感じることはなくなるはず。
「いいわ、試してあげる。納得のいく力量を見せてくれたなら、明日は喜んでつき合うわ」
月紅草が花開くのを見て平静でいられる自信はなかった。だが、正体を確かめるのにもっとも手っ取り早い方法を彼は提案してくれたのだ。それにこの提案、彼の力量がどれほどのものかは知らないが、決定権はこちらにある。
だから受けて損はない。このときサユはそう思った。
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