光陰の箱庭 3
空が白み始めたころ、森には鳥のさえずりが響いていた。
精霊が森を傷つけることはない。月魄の体だけが炎に焼き尽くされ、昨夜の戦いの痕跡は欠片も見つからなかった。
そこで仕事の完了を確認し終えたサユが、街へ戻ろうとしたときだった。
「お前さぁ、俺よりさきに走っていっただろ。そんときによ、茂みに向かって豪快に足を突っ込んでたよな?」
ずっと指摘したかったに違いない。行く手を阻むように、サユのまえには至天が立っていた。
「悪かったわ。あんたを無視して」
「そうじゃねぇよ。足だよ、足。見せてみろ」
「平気よ。掠り傷だもの」
「いいから、ここに座れ」
倒木を指差した至天は億劫そうな顔をしていた。まさしく面倒は御免だといった感じだ。しかしそれは至天がよく見せる表情で、今回の場合は、簡単には道を譲らないという意志を暗に示していた。
これ以上、俺に手間をかけさせるな。と至天は言いたいのだ。
ここまで自由な使精はどこを探してもいない。サユは溜息をつきつつも至天に従う。足を伸ばして座るのにちょうどいい高さの倒木に腰を下ろした。
「てか見えてんぜ。その大層な傷。なに我慢してんだ? だいたいさぁ、いつも露出過多なんだよ、お前の恰好は」
露出過多という表現は、大仰だ。とサユは思う。
今日は少ないほうだ。
「鎧を着けても意味のない相手に、布切れ一枚増やしたからって大した違いはないでしょ。それなら動きやすくて気に入った服を着たほうがいいわ」
呆れられるかと思ったが、至天の表情に変化はなかった。
「言いぶんは解った。服はお前の好きにしたらいいさ。けどよ、俺がここにいる理由まで奪うな」
至天は地面に片膝をつき、躊躇いなくサユの素足に手を触れた。
左足。長靴から出た膝から腿にかけ、白い肌に幾筋もの擦過傷があった。滲んだ血は乾いていたが、掠り傷で済ませるには痛々しい。
傷に翳された至天の手を眺め、サユは反論の言葉を口にする。
「いる理由を奪うだなんて、そんなつもりはないわ。これは私があんたを無視した結果、負った傷なのだし。自業自得でしょ? だから治療してもらおうなんて思わなかっただけよ。それに私は、あんたがいるから無茶もできる」
「よく言うぜ。自粛してもらったほうが、俺としては有り難えってのによ」
至天はぼやきつつ、ふたたび立ち上がる。
至天の手が
サユは至天を見上げる。
「私に手を抜けというの? だったら無理な相談だわ」
「……だよなぁ。それに、面倒だが姫につき合うって決めたのは、俺だしなぁ……」
気が重そうに零した至天だったが、本気で面倒になったわけではないらしい。立ち上がろうとしたサユに、手が差し伸べられる。
「だからさぁ、俺の力。もっと好きに使っていいんだぜ」
「なによ、いまさら——。でも、あんたはまだ、そう思ってくれているのね」
至天の手を取り支えとしたサユの顔には、自然と笑みが浮かんでいた。あらためて声にしてくれた言葉が、契約を結んでから時が経ったいまでも、嬉しく感じられたのだ。
なのに、そこにだ。良案が浮かんだと言わんばかりに至天が口を開く。
「なぁ。今回の仕事、魄魔が絡んでなかったぶん早く片づいただろ? せっかく
途端にサユの顔から笑みが消える。
天道石も封石の一種だ。入口と出口。ふたつの天道石があれば、遠く離れた場所でも一瞬での移動を可能にする。ただ、恩恵を受けるには条件があり、地精の力が必要だった。
しかしサユには地精である至天がついている。そうでなくとも天道石のある場所には地精を使いにしている者が常時待機しているので、使用に関してはなんの問題もない。
問題なのは至天の提案だった。
「逆でしょ? 天道石があるからこそ、すぐにでも帰らなきゃ。物見遊山がしたければ、あんただけで行けばいいわ」
「兄貴に遠慮でもしてんのか」
「そうじゃないわ。私はただ、任された仕事をきちんとこなしたいだけ。それにあんた、ついさっき口にしたわよね? 私につき合うって決めてくれたのは誰?」
緑の双眸が、まっすぐに至天を射抜いた。
「あんたよね」
「——っとにお前は……。今日のところは諦めて譲ってやるよ」
眉間に皺を寄せながらも折れてくれた至天に、サユは満面の笑みを返した。
*****
精霊は太陽神旺妃が使族に与えた力そのものであり、贖罪の表れ。
証拠に、太陽神の恵みは緑の箱庭のすみずみにまで宿り、この瞬間も使族の力となる精霊を育み続けている。
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