神の箱庭 〜月夜に咲き散るは女神の涙花〜

相坂つむぎ

 

序 章

過去の記憶 1



 真夜中だった。

 サユは、囁き合う精霊たちの声に目を覚ました。


 聞こえてくるのは閉じられた窓越し。普段ならば気にも留めず、眠気に誘われるまま、ふたたび目を閉じていただろう。しかし、この日は違った。胸騒ぎを覚えて半身を起こすと、部屋を見回し、母の姿を探した。けれど。

 まだあどけない顔をした、十歳の少女の瞳が不安に揺れる。


「……母さま?」


 口から漏れた心許ない呟きは、薄闇へと簡単に呑み込まれてしまう。やはり母の姿はどこにも見当たらず、望んだ返答も得られなかった。

 ただ、内容の聞き取れない精霊たちの声だけが、耳障りに響いていた。


 一家の当主という立場にある父が、不在なのは珍しくない。八歳年上の兄も、父と仕事を同じくしてからは留守がちになっていたが、それも最近では日常に変わりつつあった。常と違った点を挙げるとするならば、就寝時に母が部屋を訪ねてきたことくらいだ。


 久しぶりに一緒に寝ましょう、と。


 それ以外はいつもと同じ。精霊たちは取るに足らない噂話をしているだけ。そう祈るように自分を鼓舞しながら、サユはじっとして耳を澄ませた。

 だが、囁きのなかから知った名を聞き取り、居たたまれず寝台を抜け出す。なおも続く精霊たちの会話の内容を確かめようと、両開きの鎧窓を押し開けた。

 それを合図に、精霊たちがいっせいに静まり返る。


「いつもいつも、あなたたちってほんと失礼ね」


 虚勢を張ってむっとしてみせたサユの傍らを、春先の冷たい夜気が擦り抜ける。木々の広げた枝葉が目前まで迫っていたが、見上げた天には満月が昇り、灯火を必要とせずとも周囲の様子が見渡せた。葉陰に漂う風の精霊も、難なく見つける。

 人の姿を真似た、広げた手ほどの身長しかない風精が三体。落ち着かない面持ちで、顔を見合わせていた。


「あのね、わたしはただ、あなたたちがなんの話をしていたのか知りたいだけなの。無理にとは言わないわ。よかったらでいいの。わたしに教えてくれないかしら」


 もどかしくも穏やかに頼んだサユだったが、依然として精霊たちは沈黙したまま。言葉は届いているはずなのに、否とも返してくれず。


「……もしかして、よくない報せなの?」


 胸によぎった不安を、サユは風精に問う形で口にしていた。

 それでも風精たちはなにも語らず、最後には、あっというまに吹き去ってしまった。


「逃げるくらいなら、わたしの近くで騒がなければいいのに……」


 それはいつものことで、理由も知っていた。状況改善を目指し、日々の鍛錬も怠らずに続けている。だからこそ、避けるような行動を取られれば心が折れそうになる。

 けれど、いいかげん落ち込むのはやめにしなければ。父からまた、心持ちが軟弱だと叱られてしまう。


 サユは気を取り直し、母を見つけに行こうと窓から離れた。そこにこつこつと、扉を叩く音が鳴る。もしやと思い、飛びつくように扉を引き開けたのだが。そのさきに期待した母の笑顔はなく、立っていたのは自分よりも幼い少年、コウキだった。

 サユの顔に、落胆の色が浮かぶ。


 その表情の変化に気づいたのか、コウキが戸惑いを見せる。目が合うと途端に俯き、取り縋るように抱きついてきた。

 いまは一刻も早く母に会い、不安を払ってしまいたかったが。様子がおかしく、しかも弟同然に面倒を見ているコウキを捨て置くこともできず。


「どうしたの、こんな時間に。怖い夢でも見たの?」


 宥め問うと、コウキはふるふると首を振った。


「違うよ。夢じゃない」


 顔は伏せられ表情は読めなかったが、コウキの声は落ち着いていて、逆に不自然だった。それが重大な事柄を押し隠しているように思え、サユの焦燥を煽る。


 サユはコウキの肩に手を置くと、優しく引き離し距離を取った。身を屈め、下から顔を覗き込む。そこでようやく見ることのできたコウキの瞳は、涙で潤んでいた。

 瞬時にサユは、目を背けたい衝動に駆られる。不安を取り除く要素がどこを探してもない現実を、コウキの涙で悟ってしまったから。

 それでもサユは、耳を塞ぐという選択肢を選んだりしなかった。


「精霊から、なにか聞いたのね」


 動揺を見せぬよう努め訊ねたサユに応じ、コウキが懸命に顔を上げる。


「イスズとセンリがね……」

「父さまと母さまが、どうしたの?」


 サユは逸る気持ちを抑え、つぎの言葉を待っていたのだが。言い淀んだコウキがふたたび口を開くのと、それは同時だった。


「サユさま! センリさまはこちらにおいでですか!? 先代より、急ぎ所在の確認をするよう仰せつかったのですが——」


 廊下のさきにある階段をいて上がってきた家人の青年が、サユの姿を認め声を張ったそのとき。常時よりも小さな声音で紡がれたコウキの言葉しか、サユの耳には届いていなかった。


「イスズとセンリがね、死んじゃったって」





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