終 章

耀映の未来 1



 リシュウ周辺では、木々が若葉を広げる季節になっていた。

 水ぎわにある大木の根許。眠気を誘う木洩れ陽を浴びながら、サユが涙花の泉を眺めていると、待ちくたびれたのだろう。


「ナツが、呼んでこようか?」


 傍らに立ち、退屈そうにしていた夏霞が首を傾け、サユの顔を見上げた。


「ありがとう。でもいいわ、自分で行くから」


 聖家の不正が明るみに出たあの夜から、ファイスとは会っていない。

 過ぎた時間のあと、心に残ったのは、母の遺言を芯から意味のないものにし、ファイスに対して赦されない行いをしてしまったという、軽挙ゆえの深い後悔だった。本来なら顔を合わせる資格すらないだろう。


 それに結局、当主会の意向で、聖家の不正は使族外には公表されなかった。月守家と同じ扱いだ。それもあり、大小問わず、現在も人間から寄せられる依頼は絶えない。祖父が当主を務めてはいるが、サハヤとトウゴ、二本の柱を失った聖家はいまだ混乱のなかにある。ここで無為に時間を潰してしまうなど、それこそ容認されない。


 だから用事を済ませたらすぐに帰ろう。そう決めていただけに、サユは情けなくも涙花の泉から動けなかった。


 どれくらい待っただろうか。待ち合わせをしているわけではないので、これは当然なのだが。ファイスはいっこうに現れず、かといってランドルフ家別邸へと向かう決心もつかないサユをまえに、夏霞がまた、唐突に口を開く。


「あのね。ナツね、協力するって約束しちゃったんだ」

「……約束? なにを、誰と——」


 疑問を声にしたサユだが、夏霞の返事を待つまでもなくその答えは出た。森を抜け、涙花の泉へと足を踏み入れた者の存在に、夏霞に遅れながらも気づく。


「まさか、彼と約束を交わしたの?」


 自分の考えが正解か確認しておこうと視線を隣に戻せば、すでに夏霞の姿は消えていた。

 仕方なくサユは、泉への侵入者、ファイスへと向き直り、彼がそばまで来るのを待った。


「ナツカと、なにを約束したの?」

「顔を合わせるなり質問かい?」

「そう、答えられないような約束を交わしたのね」


 じっと睨んだサユの視線を避けるように、ファイスは泉のほとりに腰を下ろした。渡る風と湧水が波紋を刻む水面に目を向けたあと。観念したのか、ファイスは話し始めた。


「ナツカにとって、君の占有時間がシテンより多いかどうか、それが最たる問題らしいから。質問してみたんだ。僕とシテン、どちらが好きか。そのあと、ひとつの提案をしただけだよ。幸いナツカは僕を選んでくれたからね。僕が君を独占してしまえば、おのずとシテンの出番はなくなるはずだと——」

「もういいわ」


 話の途中で脱力したサユは、ファイスの横に、あいだに三人は座れるくらいの微妙な距離を置き、膝を抱えて座った。


 それを見てファイスが苦笑する。


「君はもう、ここには来ないと思っていたよ」

「あなたこそ。もう、リシュウにはいないと思っていたわ」

「僕たち姉弟が、逃げ隠れする理由や必要はどこにもないだろう? それに、ここでの生活もそれなりに気に入っているからね」


 泉を見渡していたファイスの双眸がサユへと向けられる。


「君は? どうしてここに?」

「兄がね、あなたにお礼を伝えたがっていたの。それに……ほら、これ。この剣も借りたままだったでしょう?」


 サユは持参した剣を手に取り、ファイスに見せる。


「これって封石としてだけでなく、剣としても価値あるひと振り、業物のようだし。あなたに返さなければと思って」

「——そう。それで? 君は仕方なく僕に会いに来たんだ」


 真実を知る以前となんら変わらないファイスの態度に拍子抜けするとともに、サユのなかにはふつふつと別の感情が湧き上がる。


「この村で再会してから、あなたはずっとそうだった。掴み所がなくて、本心が見えない」


 サユは不満を声に乗せ、吐き出す。


「兄に頼まれて、あなたが協力してくれていたなんて。私は考えもしなかった。シナキを月魄から解放してくれたのも、あなただと聞いたわ。なのにいつも理解しがたい行動ばかり……。そのうえ無理矢理——」


 あのような非道を——。口にしかけて、やっとそこに考えが及ぶ。サユは右手の指先で自身の口許に触れた。


 抵抗できなかったとはいえ、彼に唇を許してしまうとは。己の不甲斐なさと羞恥がい交ぜになり、ついには憤りを抑えきれなくなる。その感情から逃れるように、サユは手にしていたファイスの剣をなかば叩きつけるように地面に置き、勢いよく立ち上がった。


 そこに、間違いなくサユの行動を面白がってだろう。くすりとファイスの含み笑いが漏れる。


「急にどうしたの。もう帰るのかい? それとも君は、僕から逃げたいのかな」


 涼しげなファイスの態度が、鈍い痛みを伴いサユの心に爪を立てる。

 彼にとっては取るに足らない出来事だったに違いない。


「……用は済んだから、帰るわ」


 サユはファイスから目を逸らし、そのまま立ち去ろうとした。

 だが、背後から確信を持った台詞が突き刺さる。


「逃げてもいいけど。君はきっとまたこの泉に来る。僕に会いにね」

「二度と……来ないからっ!」

「それならそれで、奪いに行くのも悪くない」


 なにを奪いに行くというのか。訊き返そうとして振り向いたサユの目に、微笑むファイスの顔が映った。途端、強い風が吹き、サユは思わず目を瞑る。同時に、ふわりと体が宙に浮くような感覚に襲われる。


 それは錯覚ではなく——。


「…………っ!」


 間近に群青の瞳を見て、サユは息を呑む。いつのまに立ち上がったのか。気づけばサユは、腰に回されたファイスの両腕に捕らわれていた。風はサユを攫い、ファイスの許まで届けたのだ。


 契約を介していない精霊までもが味方する彼に、どうすれば抗えるというのか。それだけではない。ファイスに集う風精の息吹はとても優しく、覚えのあるその感覚に、八年前に出逢った少年が何者だったのか、サユは全身で感じていた。


「抵抗、しないの?」


 まじまじと視線を寄越しながら、ファイスは揶揄を孕んだ問いを落とした。おかげで我に返ったサユは、負けじとファイスを見返す。


 もう二度と、この温もりを手放したくない。そう感じてしまったから。


「ファイス・ランドルフ。私はあなたのことがもっと知りたいわ」

「その言葉、取り消しは利かないよ」


 勢いで口にした台詞だ。もうすでに、即座にでもこの場から消えてしまいたいくらいサユは後悔していた。


 唇を引き結んだサユの横髪を、ファイスの指先が優しく撫でる。けれど、そこで咄嗟に身構えたのが伝わったのか。苦笑したファイスから、名残惜しそうにサユは解放されていた。


「自分で言っておいて、すぐに後悔したね」

「……していないわ」


 見透かされた事実を誤魔化そうと、サユはファイスをまっすぐに見た。

 そこに返ってきたのは容赦なく心を惹きつけ掻き乱す、月明かりさえ呑み込む、暗い群青の瞳だった。


「そろそろ自覚して欲しいね。その、どこまでも正直な緑の双眸が、月光神を砂界に縛りつけた女神の呪詛がごとく僕を苛み、苦悩をもたらし続けているということを」

「私は、あなたを苦しめているの?」

「違う。苦しく感じるのは、君の瞳を見るたび赦されたいと思ってしまうからだ。君は真実を知ったのだろう? 君の叔母ぎみと叔父ぎみを僕が手にかけたのは事実だし、僕たち姉弟がいなければ、イスズとセンリが命を落とすこともなかった」


 緩やかに吹いていた風が、静止したような気がした。


「僕は、君に恨まれていて当然だ」


 目を逸らすことなくファイスから投げられた言葉に、サユは困惑する。





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