第5章

女神の涙花 1



「女神は血の涙を流すほど、月光神を憎んでいたのでしょうか」


 暖炉まえに敷かれた絨毯の上。このとき十歳だった少年は、向かい合って腰を下ろしたセンリへと真摯に訊ねた。


 少年たち姉弟が月待の家に匿われ、二ヶ月が過ぎたころだ。本格的な冬の到来をまえに、ここ数日、夕刻には冷え込みを感じるようになっていたが、暖炉には火が入れられていたため、少年が寒さに震えることはなかった。そしてセンリからも、少年は同様の温もりを受け取っていた。


 初めて顔を合わせて以来、センリの態度は変わらない。ときおり姉弟の様子を見に来ては世話を焼き、緑界についてのさまざまな知識を与えてくれる。真名を知ることで、負の感情に溺れず、より有効に魔力は使えるのだと教えてくれたのもセンリだった。


 なかでも太陽神に関する説話は少年の心を強く掴んだ。それを察してか、センリも懇切丁寧な答えを返してくれる。


「女神は憎しみに涙したのではありませんよ。自ら犯した過ちを悔いていたのです」

「過ち、ですか?」


 首を傾げた少年に、センリが頷く。


「月光神は月魄を緑界へと放ち、緑界と、そこに暮らす者たちを蹂躙しました。さらには女神にとって我が子も同然の使族から、誇りである聖色を奪ってしまった。その蛮行を嘆いた女神は憤りを抑えきれず、怒りのままに月光神を砂界に落とし、縛りつけてしまいます。けれどそののち、女神は自らの行いを悔い、涙した。そのとき地上に落ちた涙が花を咲かせたと云われていますから」

「女神は本当に、慈悲深いのですね」


 少年の言葉に、センリが笑みを見せる。


「あの……。なにか可笑しなことを言いましたか?」


 戸惑いから瞳を翳らせた少年の頬に、センリの右手が優しく触れる。


「いいえ。女神は闇に堕ちた者たちを救うため、緑界に身を投じたほどですから」


 頬に触れた温かな手が心地よく、少年の顔にも笑みが浮かぶ。

 ふとそこで、センリが眉根を寄せる。少年から離した手を自分の頬に持っていき、悩む素振りを見せた。


「私の子供たちにも同じ話をしたのですが……。息子は女神を愚かだと言いました。月光神はもっと重い罰を受けて然るべきなのに、と——。女神はその罰を与える権利と力を持ちながら、月光神を砂界に縛りつけるにとどめ、それすら悔いて苦しんだという話に納得がいかなかったようなのです。かたや娘は兄の言葉を聞いて、女神が涙した理由にますます頭を抱えていましたが」


 娘が悩んでいる姿でも思い出したのか、センリの顔に微笑みが戻る。その愛おしげな表情が、そのまま少年に向けられた。


「精霊の姿が見えずとも、あなたならきっと、彼らの存在意義も理解できるでしょう」





   *****





「姉上! 今夜ですよ。行かないのですか?」


 長椅子に横になって眠っている姉の肩を揺すり、少年は瞳を輝かせ催促を繰り返す。


「今日は諦めませんからね。起きてください、姉上!」


 眠りが浅かったおかげだろう。物憂げだが、姉の瞳はすぐに開かれた。


「なんだ……?」


 夢からうつつに引き戻され、不機嫌な顔で半身を起こした姉は、口許を隠しもせず大きな欠伸をしてみせた。その途中でなにかに思い至ったようだ。冷めた目が少年に向けられる。


「そういえば、イスズが息子らを連れてくるとか言っていたな。そんなに会うのを楽しみにしていたのか」

「違います、僕が楽しみにしていたのは月紅草です。姉上は、見たくないのですか?」

「お前は花が見たいのか」

「興味……、ありませんか?」


 途端に、少年の瞳は悲しみに沈んでいた。


 砂界から出てきて月待の家で暮らし始め、半年は経っていたが、いまだ少年の目にはすべてが新鮮に映り興味は尽きなかった。月紅草もその対象のひとつで。

 あからさまな落ち込みを見せたせいか、さらに機嫌を悪くした姉から睨まれはしたが。


「行かないと、言った覚えはない」


 その言葉に、一瞬で少年の瞳に輝きが戻る。


「では、早く行きましょう!」


 億劫そうに腰を上げた姉を急かし月待の家を出る。センリに聞いた月紅草の説話を思い出しながら、少年は姉とともに涙花の泉へと向かった。







 目にした涙花の泉は、青白せいはくに輝く月紅草の花で満たされていた。見慣れた景色に花が加わっただけなのに、初めて訪れたとき以上の感動が込み上げる。


 それだけではない。彼女こそ精霊ではないのかと、目前の光景は少年に感じさせた。


 泉のほとり。歳の離れた兄に追いかけられ、無邪気な笑声を上げていたのは、緑の瞳と髪を持つ愛らしい少女だった。彼らがイスズとセンリの子だとすぐに悟った少年は、泉を囲う木立に紛れ、姉とともに立ち止まったまま動けずにいた。


 やがて使族の兄妹は競って木登りを始めた。それを楽しげに眺めるイスズとセンリの姿が少年の目に映る。彼らのその表情は、少年が知るものより遥かに穏やかで、優しかった。


 そこにあったのは、互いが相手を想い合う家族の姿。少年が欲しいと願っても手に入らないものだった。


「……姉上。ほかの場所へ行きませんか。あちらの沢にも月紅草は咲くと、センリが言っていましたし」


 月待の家を出るときには明るかった少年の顔が、いまは硬く曇っていた。

 そんな弟の心情に、姉は聡く気づいたのだろう。滅多に見ることのない微笑みが少年へと向けられた。


「そうしよう。私には、お前とともに見る花にこそ意味がある」

「——姉上」

「沢まで行くんだろう? 急がないと花が散ってしまうぞ」


 姉に手を差し伸べられ、少年も微笑む。そして姉弟は手を取り合い、並んで走り出した。





   *****





 暗闇のなかファイスは、寝台で横になり眠るサユを無言で見下ろしていた。

 周囲に満ちる精霊の息吹は濃く、自分のいる場所が碧天都であることはすぐに知れた。


 だが。


「馬鹿な真似をしたようだね」


 粉々に割った封石を、ファイスは手のひらから滑り落とした。


 絨毯の上に音もなく散った封石はサユが身に着けていたものだ。もとはふたつで、どちらも腕輪の装飾に使われていた。ひとつは使精との繋がりを契約ごと断つ封石。もうひとつは身に着けた者の自我を奪う封石だった。


 封石を壊したいまも蒼白な顔で眠り続ける彼女が、なにを選択したのか。腕輪を目にすると同時に、ここまでの経緯がファイスには手に取るように読めた。真実を知った彼女は捕縛の封石を渡すことを拒んだのだろう。だからといって、この仕打ちは非道極まりない。


 ファイスはやるせなく複雑な想いを抱え、サユの耳許を飾る血晶石へと視線を落とす。

 意図的にではない。無意識か、イスズとセンリが導いたのか。サユがファイスを封じたのは緑玉ではなく、血晶石だった。

 ファイスはふたたび、彼らに助けられたのだ。


 少年のころ。涙花の泉で初めてサユを目にしてからちょうど一年後のあの日、あの満月の夜もそうだった。


『お願いします。私たちになにかあったら、サユに——娘に伝えてください』


 まえだけを見据え、娘への想いを託したセンリの姿が、ファイスの脳裏には深く刻まれている。


「僕たち姉弟が泉になど行かず、月待の家で大人しくしていれば……。君とはもっと違う出逢いかたができただろうか」


 それこそ有り得ない。と、ファイスは自身の想いを口にした直後に否定する。

 ともかくいまは、ここを出ることが先決。


 意識のないサユを繊細で壊れやすいものでも扱うかのように、優しく横抱きに抱え上げる。つぎにはサユとともに、その場から姿を消していた。





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