慈愛の一片 4
ランドルフ家別邸の自室。
誰もいないはずの部屋に何者かの気配を感じ、ファイスは立ち止まって様子を窺う。視線のさきでは、ふた間続きになっている寝室の扉が開け放たれていた。一瞬の逡巡ののち、寝室に足を踏み入れる。寝台に目を向けると、毛布にくるまり横になる女がいた。栗色の頭だけがわずかに覗いている。
寝台の横に立ち、ファイスは眠る女を見下ろす。
「帰りは、栄花祭が終わってからの予定ではありませんでしたか?」
「……るさい」
反応はあったが、女は寝返りを打ってファイスに背を向けると、暖かな毛布のなかへますます引き籠もってしまった。
「起きてください」
ファイスは慣れたもので、再度、穏やかに声をかけた。するとまた、毛布が動く。
「……そうだ。予定に……変更はない」
毛布の隙間から返ってきたのは、最初にした質問の答えだった。
どうやら、オウトウのランドルフ家本邸にいることにはなっているようだ。ファイスは少ない情報からそう解釈する。
「それで、どうして僕の部屋にいるんです。姉上」
やっと起きる気になったのか。二歳年上の姉、ギニエスが毛布からちらりと顔を出した。不機嫌に細められた緑の瞳がファイスを見る。
「オウトウにいるはずの私は、この邸をうろつけないからな。その点、お前の部屋なら女がいても誰も気にしないだろう?」
「本邸ならともかく……。リシュウでは一度も身に覚えがないんですけどね」
なかば反論を諦め、ファイスはギニエスに背を向け枕許に腰を下ろした。そこに冷ややかな声が投げられる。
「ならば、
振り返ると、毛布から這い出て半身を起こしたギニエスが静かにこちらを見ていた。
予想はしていたが、やはりかとファイスは溜息をつく。脳裏には、サユを迎えに来ていた少年の顔が浮かんでいた。ご丁寧にも置き土産よろしく告げ口をしてくれたようだ。
「多少の興味を持っただけですよ」
「なおのこともう近づくな。相手が悪い。遊びで身を滅ぼしたくはないだろう」
「承知していますし、心配には及びません」
「ならいいが——。もうひとつ聞いておこう。私が留守のあいだにリターナが来なかったか?」
この話の流れに、姉は事を正確に把握しているのだとファイスは悟る。
「三日前でしたね。来ましたよ。すぐに帰しましたが、彼女がなにか?」
「三日前、ね。その日は暇をもらっていたらしいが。連絡もなく、いまだ本邸に戻っていないそうだ。真面目でよく働く娘だから無断でいなくなるはずがないと、侍女頭が心配していたよ」
「演じるのに飽いて、相応の場所へと帰ったのでしょう」
「——そうか」
意味を察したはずだが、ギニエスから追及の言葉はなかった。ファイスも顔色ひとつ変えず話を続ける。
「ところで姉上。見合いのお相手はどのようなかたでしたか?」
「なんだ、知っていたのか。さきに教えてくれていたら、オウトウになど戻らなかったのに」
「そうだろうと。伯父上に口止めされていましたので。お気に召しませんでしたか?」
「軽くつついたら、泣いてしまったよ」
ギニエスの脆く儚い笑みがファイスの目に映る。
だが、ファイスは知っている。白い肌に映える薄紅の唇。そこから紡がれる言葉が、けして弱々しいものではないことを。
「それは気の毒に。もちろん、お相手のかたがですよ」
「よくも私にそんな口が利けるようになったものだな。しかし、バナドもいいかげん懲りないのだろうか」
ファイスを見るギニエスの瞳が羨望に細められる。
「お前はいいな。バナドが嘆いていたぞ。お前のために見合いの席ひとつ用意するのにも、お前の悪名が邪魔をして苦労すると。はからずも遊びが功を奏しているようだな。なにより左遷が響いているんだろうがな」
「なにも、そんな嫌な言い回しばかりしなくとも……」
「真実だろう。ただ、お前を武官として呼び戻すための根回しは順調に進めているようだぞ」
「それは、逃げる口実を考えておかなければいけませんね」
本気で思案するファイスをよそに、ギニエスは大きく伸びをしていた。窓掛の隙間から室内へと漏れ入る、柔らかな朝陽を見やる。
「そろそろ本邸に戻らねば。だが、今度は馬車に揺られて帰ってくるのかと考えるだけで気が滅入る。人間の真似事は不便だ」
言い終わるが早いか。ギニエスの姿は忽然と消え、ファイスはひとり、部屋に取り残されていた。
「どこが、人間の真似事ですか」
ファイスが漏らした非難の声が、ギニエスに届くことはなかった。
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