所行の応報 3
涙花の泉を囲う木立に紛れ、事の成り行きを眺めていたファイスの顔に、憐憫を含んだ苦笑が浮かぶ。
精霊使と使精。主従の結びつきが強いほど、お互いが被る痛手は大きくなる。
「彼女は、そのいい例だね」
そろそろ限界のようだと判断し、動こうとしたファイスだが。先んじて至天のぼやきが耳に届く。
「上手く帰すって言うから、信用して見逃してやったのによ」
独白を零したように見えた至天だが、視線のさきには的確にファイスを捉えていた。
「いつまで傍観してやがる! どういうつもりか知らねぇが、いますぐ出てこい!」
「煩いな。怒鳴らなくても聞こえているよ」
精霊の怒りに触れながらも平然とし、ファイスは芝草の広場に足を踏み入れた。いまだ緊迫感を漂わせ対峙する至天と金剛に向かい、落ち着いた足取りで近づいていく。
「信用を裏切る結果となってしまった現状は、僕としても不本意なんだ。ただ、仇討ちを考えるほど彼女が姉想いだったという、その点に関してだけは僕の読みが甘かったと認めるよ」
リターナが一瞬で青ざめ、凍りつく。それを視界のはしで確認し、ファイスは続ける。
「彼女をオウトウへと送り届け、彼女が開いた扉の後始末まで引き受けた僕の心遣いを、まさか無駄にされてしまうとはね」
「いいえっ! ファイスさま、けしてそのようなつもりは——」
「ざけんな。やっぱりお前か」
必死に弁明しようとしたリターナの言葉を遮ったのは至天だった。
どうやら、至天からは重ねがさねに反感を買ったようだ。サユを芝草の上に横たえ、立ち上がった至天の顔は怒りに満ちていた。
「君の仕事を横取りして悪かったね。でも君。主が力を失っているのに動けるだなんて、忠誠を誓っていない証拠じゃないのかい?」
口にしてはみたものの、至天が己の力のみで具現化を可能にする特技の持ち主であるとファイスは知っていた。だからこそ契約に縛られず動くこともまた可能なのかもしれない。
しかしおそらくは、そうまでしてでも主を護りたいのだろう。その考えを裏づけるように、至天は魄魔よりも凶悪な顔でファイスを睨んだ。
「んなこたぁ、お前には関係ねぇ話だろうが。それより、この状況をなんとかしろ」
投げつけられた要求に、ファイスは仕方なく金剛を見やる。隙あらば至天に飛びかかり爪を立てそうな姿勢を金剛は保っていた。
「あれを相手にするとなると、いまのままの僕ひとりでは、さすがに厳しいかな」
金剛を眺めながらファイスはぼやいてみた。すると、心底億劫だと嫌でも伝わってくる口調で至天から言葉が返ってくる。
「いまさらお前がなにをしようが過去は変えられねぇ。解ってんのか」
「ああ。君の抱える心痛がどれほどのものか、僕にだって察するくらいはできるさ。これでも身の程はわきまえているつもりだからね」
「嘘くせぇが……。いいぜ。背に腹は代えられねぇし、俺が結界を張ってやる。なんなら、これも貸してやろうか」
至天は抜き身の大剣を掲げ、示した。
「済覇か。それは助かる」
頷き返すあいだに、結界が張り巡らされていくのをファイスは感じる。涙花の泉とその周辺をすっぽり覆い隠す、それは目隠しの結界だった。正体を偽り生きてきたファイスが遺憾なく力を発揮できる場を至天は創り上げたのだ。
結界の完成を待ち、ファイスは至天の手から済覇を受け取る。その重みを右手で確認すると、ぴたりと標的を定めた。
「遠慮はしないよ」
直後。ただならぬ力を感じたからだろう。金剛が体勢を低くし唸り声を上げる。ファイスにはその唸りが言葉として聞こえていた。
「リターナさま! お逃げくださいっ。ここは私が——」
金剛が主に気を取られたわずかな時間。ファイスは一気に金剛との距離を詰める。
「遅いよ、カナマサ。君が彼女から奪ったものを解放させてもらうよ」
言い終わるが早いか、勝敗は決していた。
サユが傷つけることのできなかった強固な体躯。その首がゆらりと傾ぐ。首は胴から離れ、かすかな音を立て芝草の上に落ちた。つぎの瞬間、砂のように脆く崩れ去り、残された胴も崩壊し夕闇へと溶け始めた。金剛はとうに、ファイスから距離を詰められた時点で済覇によりその身を断たれていたのだ。
すると金剛の最期を見届けたからか。単に力が尽きたのか。至天の姿が大地に沈み見えなくなった。ファイスの手からは済覇が消えていた。
至天が見せた手際のよさにファイスは感心する。そして凍りついたまま動かずにいたリターナへと思い出したように目を向けた。
「おいで、リタ」
ファイスが手を差し伸べると、リターナは憔悴しきった顔で一歩を踏み出した。
魄魔と月魄の主従関係は、精霊使と使精が交わす契約と同種。思った以上にリターナと金剛の絆は深かったようだ。弱々しく向けられた瞳と精彩を失った髪は、元来の色である黒に戻っていた。
「……ファイスさま。なぜ、カナマサを?」
縋ろうとして伸ばされたリターナの手を取り、ファイスは優しく自分の胸に引き寄せた。体を預けてきたリターナを受け止め慰めるように語りかける。
「君が悪いんだよ。君が戻ってこなければ、誰も傷つかずに済んだんだ」
「わたくしはただ、ファイスさまが心配で……。ファイス……さま?」
「違うだろう、リタ。僕が気づかないとでも思ったのかい? 今回だけじゃない。君がカナマサを飼うため、犠牲にしてきた人間たちの命にも目を瞑ってあげていたのに」
「——ひっ!」
俯き、息を呑んだリターナの背にファイスは左手を回す。背をなぞって首筋に触れ、顔を上向かせた。そうやってリターナと視線を合わせ、冷たく囁く。
「忠告しただろう。これは二度目だ」
リターナは怯えて群青の双眸から目を逸らす。凝視していたのはファイスが右手に握った抜き身の剣だった。その剣先はリターナの腹部に突きつけられている。
手を差し伸べたときにはすでに、ファイスは剣を抜いていたというのに。朦朧とし、足取りも覚束なかったリターナの視界には映っていなかったのか。もしくは気づいていながら、その剣が自身へ向けられるとは考えもしなかったのだろう。
剣先から少しでも身を離そうと、リターナが体を捻る。だがそんな些細なことでファイスは手を緩めたりはしない。その直後、赦しを請うまも与えず、リターナの瞳に残った光のすべてを無情にも奪い去っていた。
「魄魔である彼女に、期待など抱くべきではなかったのかもしれないな」
目を伏せ、剣を鞘に戻したファイスのその声を聞き届ける者は誰もいなかった。
だが、もとより同意など求めていない。自ら価値を貶めたリターナはもう、慰めにもならない。それが解っただけで充分だった。
リターナへの興味が完全に失せたファイスはサユの許へと歩を進めた。
血の気の引いた顔で横たわるサユの傍らに立つと、あらためて感心する。そこには、サユが回復し目覚めるまで誰も手出しできぬよう結界が張られていた。
「シテンか。用意周到だね。でも、この程度の結界、僕には無意味だ」
言葉どおり、いとも簡単に結界を消滅させる。片膝をつき、サユの頬に手を伸ばした。すると閉じられた瞳から、ひと雫の涙が零れ落ちていった。
「また、泣かせてしまったようだね」
後悔を感じさせる声音とは裏腹に、ファイスの表情からはなにも読み取れず、群青の瞳に至っては冷たく、闇に沈んで見えた。
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