所行の応報 2
「死ぬ気か。しっかりしろ」
どういうわけか、サユの視界は広い背中に遮られ、振り向かずにかけられた声は心にまで明瞭に沁みた。それは焦れたように喉を鳴らした獣が素早く飛び退いたあとのことだった。
「……どうか、していたわ」
ようやく事態を把握し、サユは我に返る。間一髪、結界を張って獣の攻撃を防いだ至天の行動が、自分を庇うためのものだと遅れながらも気づく。それまでは完全に女の憎悪に呑まれていた。
怨恨を身に受ける覚悟くらいとっくにしていたはずなのに。命を投げ出し、それで女の気が済むならばという浅慮のすえに取ってしまった行動に、サユは歯噛みする。
「それは、あまりにも身勝手よね」
「どうする。退くか?」
至天の提案に、サユは首を横に振る。
獣越しに殺意に満ちた双眸を向けてくる女が、手放しで見逃してくれるとは思えなかった。下手をすれば村にまで被害が及ぶ。ならばこの場で決着をつけるしかない。
心を決めた緑の瞳に強い意志が戻る。
「済覇を使うわ」
「まぁ、それしかねぇか」
しぶしぶと応えた至天だったが、その手にはすでに済覇が握られていた。
「枝切。力を貸して」
サユの命に枝切が凜として降り立つ。
「助力は惜しみません」
枝切の申し出に、サユは頷いて応える。そこにきて、行く手を阻むように済覇の柄が突きつけられた。
「リョウは呼ぶな」
「一撃では倒せないのね」
至天から告げられた内容に了解を示し、サユは済覇を手にする。
済覇は主従の繋がりを高め、精霊の力を余さず引き出してくれる。いわば済覇も封石だった。ただし相応に精霊使の力も消費してしまうため、そこが難点でもあった。サユの場合、三体の精霊を同時に呼び出し済覇を一度でも揮うと、あとが続かない。
とはいえ実戦において、数体の精霊を同時に呼び出し自在に使える者はそう多くない。その点だけを鑑みても、サユが有する精霊使の力がどれほどのものか推し量れるというもの。
「俺とシナで充分だろ。弱気になんなよ」
至天が唇の両端を上げ、にっと笑う。
サユも笑みを返し、両手で握った済覇の柄に強く力を込めた。
「済覇は弱気では揮えないわ。それにこの剣を手にしている限り、私は負けるわけにはいかない。だから……。行くよ、枝切!」
枝切の宿った済覇を手に、サユは正面から獣へと走る。獣が地を蹴るのが見えたが構わない。横に一線、済覇を振った。すると刀身から風の刃が生まれ飛び、狙いどおりに獣の顔を直撃する。その効果は獣を怯ませるという形で充分に得られた。
サユは攻撃の手を緩めず、身軽に跳躍し、獣の額目がけて済覇を振り下ろす。
手応えはあった。けれど。
「金剛は頑強でしょう? 精霊の力でさえ、傷ひとつつけるのも容易ではありませんわよ」
女の発言に獣の黒い双眸が光り、サユは素早く身を退いた。追うように獣も動く。勢い衰えずサユに迫る獣からは痛手を負った様子が微塵も見受けられない。だが、手立てはある。上から押さえつけようと躍りかかってきた獣をサユは目で追う。
「至天。いまよ!」
好機を読んで張らせた至天の結界。そこに正面から体当たりをする形となった獣が体勢を崩し落下する。頭部を強かに打ちつけたようで、踏ん張りが利かず蹌踉めいた。サユはその一瞬を逃さなかった。
月魄に攻撃が効かないのなら、さきに主を倒すまで。サユは獣を
刹那。サユの目に、哀切に染まる女の顔が映る。
「あなたは二度も、わたくしから掛替えのない命を奪おうとなさるのね」
はっきりと耳に届いた女の嘆きに、剣先を振り上げたサユの動きが明らかに鈍る。
「迷うな! 振り抜けっ!」
至天の声が聞こえたそのときにはもう、サユは済覇を振り下ろせなくなっていた。いっときの逡巡が招いた結果。容赦のない力により後方へと引き戻されたサユは、両手で剣を翳したまま自由を奪われていた。
間近に獣の息遣いを感じる。その
済覇を手放す決断もできず、獣に囚われたままのサユを見て、女が妖艶に微笑む。
「砂界に棲む月魄の好物がなにか、あなたはご存知? 恐怖に震える人間の魂よりも、さらに垂涎ものなのだそうよ。精霊——、とくに使精はね」
ずるりと、済覇の刀身を
喜悦に唸る獣の口許で銀色の髪が揺れ、仄かに輝く。
まだ、生きてる。そう確信したサユは声を限りに叫ぶ。
「枝切! 戻って!!」
その瞬間、苛立ちを感じさせる舌打ちが背後から聞こえた。
「駄目だ、いますぐ契約を破棄しろ!」
怒気を孕み告げられた言葉は至天が発したものだった。けれど至天がなにを言っているのか、その言葉の意味がサユには理解できなかった。
否。理解したくなかった。
助言を無視し、枝切に手を伸ばそうとするも、即座に至天から腕を掴まれ引き離される。
「おい、聞いてんのかサユ。——ったくお前はっ! シナと共倒れになる気かっ!!」
怒鳴った至天をサユは睨む。
「嫌よ。だって契約を破棄したら枝切はっ!」
緑界から消えてしまう。
現状、契約があるからこそ枝切はサユから力をもらうことができ、姿を保てているというのに。契約がなければ、とっくに力尽きていてもおかしくない状態に枝切は陥っていた。
「もう間に合わねぇ」
至天が呟くのと同時に、自分のなかに当然とあった力が、血の気が引くように流れ落ち消失し始めるのをサユは感じた。
枝切の髪が揺れ、顕わになった青色の双眸が視線を彷徨わせる。ほどなくサユを見つけた枝切は、大丈夫だと言わんばかりの笑みを浮かべた。唇がかすかに動いたが、サユにはもう、枝切の声が聞き取れなかった。
呆気なく、獣に嚥下されてしまったから。
「…………いやあぁあっ!!」
怒りに任せ、枝切の消えた済覇を手に、サユは獣へと突き進もうとした。それも立ち塞がった至天により抵抗虚しく抱き止められる。
「至天! 邪魔をしないでっ」
真名を呼んだが、至天の腕を振り払う力すら残されてはいなかった。
「……放してよっ……至天!」
解放を求め足掻く体にも力が入らない。立ち続ける気力さえ奪われ、
「どこまで面倒をかけりゃ気が済むんだ」
呆れ果てた声が聞こえたが、言葉の内容を受け止めるまえに耳から遠退いていく。枝切を求めた手からは済覇が滑り落ちた。
そのときにはすでに、サユは至天に体を預け、意識を手放していた。
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